モッコウバラ 第八話
作:蒼馬要
週末、梨優は図書館の雑誌コーナーで片桐なつめの記事を探した。音楽関係の雑誌だけでなく、今年に入ってからは、婚約のスクープで週刊誌などにも取り上げられていた。世界的に有名な歌手と舞台監督が婚約したといえば、クラシックやオペラにあまり関心の無い人でも注目する。現に梨優もその記事のページを繰っているのだ。
沢山の薔薇の花で飾られた楽屋で撮られた一枚の写真に目が止まった。数年前の日本でのソロコンサートの時のものだ。深紅のビロードのドレスを着て、白い薔薇の花束を胸に抱え、控え目に微笑んでいる。他の写真でも片桐なつめは白い薔薇の花とともに写っている。
「なつめさん、白い薔薇が好きだったんだ…」
翌週発売された週刊誌には、なつめの葬儀の様子が載っていた。婚約者の舞台監督が喪主となって葬儀が執り行われたという。結婚式で着る予定だったウェディングドレスを着て、白い薔薇で埋め尽された棺の中の写真が大きく載っている。その顔は本当に死んでいるのかと疑いたくなるほど安らかな表情をしている。
本屋で立ち読みをしていると、背後から頭を叩かれた。
「お兄ちゃん」
「ただいま」
海外での仕事を終えて帰国した治樹だった。
「その週刊誌、今日の発売号だろ?」
治樹は誌面を覗き込む。
「うん、片桐なつめさんのお葬式のことが載ってるから…」
「やっぱり白黒だったか…」
梨優から週刊誌を取り上げて記事を見ている。
「え?」
「アメリカで仕事してくるって言ったろ?俺、片桐なつめの葬儀に立ち会ってきたの」
「…どういうこと?」
梨優は目を丸くした。
「行きの飛行機の中で、この週刊誌の記者と偶然乗り合わせたんだ。古い知り合いでさ、カメラマンは現地で雇うって言うから、写真撮る約束でプレスカード借りて、この写真俺が撮った」
「お兄ちゃんが…」
梨優は治樹の言葉に少し顔を顰めた。
特に報道関係のカメラマンはスクープ写真を撮るために、無神経に他人の領域へと踏み込んで行ってシャッターを切る。
治樹は独立する前の数年間、雑誌社の専属カメラマンだった。
芸能界や政財界のスクープを撮るために何日も張り込みをしたり、事件現場へ飛んで行ったりしていた。撮った写真が話題になると名前も知られ、時には脅迫紛いの電話や手紙を送りつけられたりしたこともあったという。梨優はまだ小さかったので知らなかったが、当時は母がひどく心配していたらしい。
次第に広告写真の仕事依頼が多くなってきたため、出版社を辞めて現在に至るのだが、報道写真が嫌いで辞めたわけではないので今でも頼まれれば、また興味があればこのように頼み込んで写真を撮りに行くこともあった。
「この棺の中の薔薇、イヴォンヌ・ラヴィエールって名前でね、教会の祭壇も全部この花で飾られてたんだ。生前片桐なつめが好きだった花で、手を尽くして色んな所からかき集めたらしい。それにしてもさすが舞台監督っていう葬儀だったよ。まるで芝居を観てるみたいだったなぁ」
治樹が感心まじりに楽しそうな口ぶりで話すので、梨優はますます気分が悪くなった。
「…亡くなった人の写真を撮るの、お兄ちゃんは抵抗無いの?」
治樹は前を向いたまま呟く梨優をチラリと見た。
「…無いよ。それで飯食ってんだもん。ま、今は副業だけど」
「…そうよね…仕事だもんね…」
梨優は投げやりに言い返した。
「何だよ、その言い方」
治樹の声が厳しい口調に変わった。
「だってお葬式なんだよ。亡くなった人や悲しんでる人たちにカメラ向けて、写真撮って、お兄ちゃんはそういうことして何とも思わないの?」
梨優はそう言ったつもりだったが、悔し涙がこみ上げてきて後半は殆ど泣きじゃくっていた。
「おい、梨優…」
梨優は週刊誌を置くと本屋を出て、自転車に乗って走り出した。
「梨優!」
治樹は困った顔をして溜息をついた。
梨優も少し言いすぎてしまったと反省していた。しかし治樹が仕事という理由で無遠慮にカメラを他人に向けるのだと思うとやりきれなかった。撮られる人の気持ちを少しは気遣って欲しかった。
一度家に帰ったが、吾妻のことが気に掛かっていた。今日は薔薇の世話にも行っていない。今頃どうしているのだろう。
「あら、出掛けるの」
着替えて階段を降りて行くと、母親に声を掛けられた。
「うん、ちょっと…」
治樹は来ていない。
「夕飯までには帰ってきなさいよ」
「はーい」
治樹は吾妻の家を訪ねていた。カーテンが引かれていたが、明かりがついていたのでドアをノックした。
「ごめんください」
「…どなたですか」
しばらくするとドアの向こうで声がした。
「萱嶋です、萱嶋治樹です」
ドアが開いた。
「どうぞ」
吾妻は治樹を部屋に入れた。
「先日は突然だったので、きちんとご挨拶も出来ませんでしたが、お久しぶりです」
「…こちらこそ…」
今から十年以上前、数々のコンクールで優勝し、新進の美人オペラ歌手として注目され始めていた片桐なつめの恋人として、治樹は吾妻をスクープしていた。
吾妻の家に通うなつめを追い続けて、二人が一緒にいる所を何枚か写真に撮った。
しかしこのスクープが週刊誌に載ることは無かった。なつめの祖父が出版社の社主と旧友で、裏から手を回して掲載を差し止めたのである。
「梨優さんは、萱嶋さんの姪御さんだったのですね。苗字が違うから分かりませんでした」
「姉の子です」
治樹はアメリカでのなつめの葬儀の様子を話した。吾妻は黙って話に耳を傾けていたが、治樹が話し終えると、ポツリポツリと語り始めた。
「…なつめは、僕が学生時代に音楽教室でバイトをするようになった頃、バイオリンを習いに通って来ていた生徒でした。彼女は当時高校生でしたから、ちょうど今の梨優さんくらいの年頃でした。僕は隣りの部屋から聞こえてくる彼女のバイオリンの音色を聞くのが楽しみでした。ある日、僕の担当している生徒が急に休むことになり、僕は隣りでレッスンをしている彼女のバイオリンを聞きながら、チェロを弾いていました。レッスンを終えた彼女が僕のいる部屋に来てくれました」
「それがお二人の出会いですか」
吾妻は頷いた。
「その後、バイオリンは競争率が高いからと、彼女は声楽の道に進み、僕の卒業と入れ違いに大学に入学しました。僕は院生の修士課程に進み、その後も非常勤講師として大学にしばらく残っていました」
その頃のことは治樹もよく知っている。スクープ写真を撮ったのはちょうどその当時のことだ。
「なつめは卒業後、さらに勉強を続けるためにイタリアに留学しました。帰国した彼女の公演を聞きに行って、僕は分かりました。彼女は僕が足元にも及ばないところへと駆け上って行ってしまったのだと」
「吾妻さんもその頃にはリサイタルを行なうようになって、高い評価を得ていたでしょう」
治樹はスクープ記事が差し止められた後も、機会を見つけては吾妻の演奏を聞きに行っていた。主に関東圏に限られた活動だったので、ごく一部の評論家にしか注目されていなかったが、吾妻の弾くチェロの音は心地好く、治樹は演奏中よく眠り込んでしまった。
最近ではヒーリングや胎教にも良いという口コミで噂が広まり、今年発売したアルバムもそういった経緯からリリースされたのだった。
「なつめの才能を認めることが、僕には苦痛でした。それまで僕は音楽の才能で他人を羨むということが無かった。他人を羨んで自分の演奏が上手くなるわけではありませんから。しかし僕は初めてなつめに嫉妬していた。上辺では彼女の成功を喜びながら、心の内に湧き上がる嫉妬の感情を表に出すまいと必死でした…」
治樹は納得しなかった。芸術家である以前に二人は恋人同士なのだ。吾妻にだって好きな女性を独占したいという欲求はあるはずだ。好きな女性が自分から離れて行こうとすれば尚更のこと、それがエゴであっても、どんな手を使ってでも引き止めようとするものだ。
「吾妻さん、あなたが言う嫉妬とは、片桐さんに傍にいて欲しいという願望がありながら叶わずにいるというものでしょう。それは嫉妬ではないと思いますよ」
吾妻は治樹の言葉にフッと微笑んだ。
「僕が、なつめに傍にいて欲しいと望んでいると?」
「ええ、違いますか?」
「違います。今年の五月、ここに来たなつめは以前一緒に仕事をした舞台監督にプロポーズされていると言いました。僕は祝福しました。彼女に相応しい相手ですからね」
片桐なつめは六月に婚約を発表していた。
「片桐さんは、反対してもらいたかったのではないですか?あなたも本当は反対したかった」
吾妻は真顔になった。
「僕の両親は僕が学生時代に亡くなりました。音楽教室でバイトを始めたのはそのためなのですが…僕が一人でこの家に暮らしているのを、なつめは心配してくれていました。ただそれだけなんです」
「失礼ですが、吾妻さんと片桐さんは…」
「萱嶋さん、僕はあなたになつめとの関係をスクープされた後、なつめの父親から二人の関係を清算するよう言われたのです」
吾妻は怒る様子もなく、静かに話した。
「恋人同士だったのはそれまでです。なつめは帰国すると、必ずこの家に来てくれていましたが…以前のような関係では無くなったのです」
治樹は下唇を噛み締めた。自分の撮ったスクープ写真が二人の仲を裂いてしまったようなものだ。しかし、清算しろと言われて、それであっさり身を退けるものだろうか。
「そう言っても、世間的には信じてもらえないでしょうけれど、僕たちの間にはもう恋愛感情のようなものは無くなっていました」
吾妻は治樹の気持ちを察したのか、そう付け加えた。
「なつめに相応しい人がいるのなら…あの日も僕は言ったのです。いつまでもこのような関係が続くわけにはいかないだろうと」
梨優が立ち聞きしてしまった口論はこの時のものだった。
「彼女は有名人だ。しかも大事な時です。根も葉もないスキャンダルを書き立てられでもしたら、彼女の将来に傷が付いてしまう」
かつて、なつめの父親からそう言われて、吾妻は別れることを決意したのだろうか。
「なつめも、もうここには来ないと言いました。以来、彼女とは連絡を取っていません」
「でもあの晩、片桐さんはいらっしゃったのですね?」
片桐なつめがこの家に来たという月曜の深夜、それは彼女がイタリアで事故に遭った時刻である。
「なつめが来ても、会うつもりはなかった…しかし…あの晩、僕はどうかしていました…」
吾妻は俯いて呟いた。
「なつめは、薔薇が気になって来たと言っていました。僕が気付かなければ、なつめは薔薇の様子だけ見て、そのまま帰るつもりだったのでしょう」