モッコウバラ 第九話
作:蒼馬要
吾妻は片桐なつめが本当にこの家にやってきたかのように話す。イタリアで事故死し、先週ニューヨークで葬儀が執り行われたと聞かされてもまだ、なつめの死が信じられないのだろうか。しかしあの晩、片桐なつめは吾妻の前に現れたのであろう。
「もう、会うつもりはなかったのに…僕は彼女を家に入れてしまった。婚約していることも知っていましたが、台風が近付いていましたから、そのまま帰すのは心配だった。だから、朝になるまで一緒にいました…」
吾妻は憮然としている。
「片桐さんがいらしたのは、月曜と火曜の夜ですか」
吾妻は首を横に振る。
「あなたと梨優さんがいらした前夜、木曜にも来ました…」
木曜…片桐なつめが息を引き取った日だ。
「庭のモッコウバラは、片桐さんが植えられたのですか?」
「はい、一昨年。僕も仕事の都合で家を留守にしがちですから、庭の手入れは無理だと言ったのですが…丈夫な花だと店で教えられたそうで、毎年必ず見に来ると言っていました」
片桐なつめは死の間際にも約束を守ってこの家に来たのだろうか。
「…萱嶋さんは、現在も週刊誌のカメラマンをなさっているのですか?」
「いいえ、独立して今は広告写真の会社をやっています」
「では、今日は…」
吾妻は意外そうな顔をした。
「仕事とは全く関係ありません。個人的な関心です。奇遇ですが、梨優がお世話になっていることもあったので、改めてお伺いしました」
「そうでしたか…」
治樹は吾妻に名刺を渡した。
「アーティストのジャケットや写真集の撮影も手掛けています」
帰り際、治樹は吾妻に言った。
「あなたはやっぱり片桐さんを愛していらっしゃる。愛しているからこそ、身を引いたんでしょう。そして恋愛感情がもう無くなったのだと信じ込もうとした。そのためにあなたは片桐さんに嫉妬をしているのだと思うようになった」
吾妻は溜息をついた。
「萱嶋さん…どうしてそこまで…」
「僕は、あなたなんかよりもずっと、片桐なつめに嫉妬している人を知っているからですよ」
吾妻は治樹の確固とした言葉に一瞬顔色を曇らせたが、いつもの内面を伺わせない表情に戻った。
玄関の外には梨優が立っていた。治樹が入って行くのを見てずっと待っていたのだ。
「吾妻さんに何の用?」
「個人的な事。梨優には関係無い」
治樹は家と反対の駅の方に歩き出す。
「…家に来ないの?」
「今日は吾妻さんに用があったから来たの」
駅の方に向かう治樹の後を梨優は自転車を曳いて付いてくる。
「コンビニに行くから、ついでに駅まで送ってあげるわよ」
「そう、そりゃどうも」
二人はしばらく黙ったまま歩いた。
「…お前、さっき俺が亡くなった人や、悲しんでいる人にカメラを向けることに、何も感じないのかって聞いたよな?」
梨優は黙っていた。
「確かに俺は仕事や趣味で色んな所に色んなモノを撮りに行ってる。怖い思いや、後ろめたい気持ちになることだって数えきれないくらい味わってきた。でも撮らないで後悔することの方が俺にとってはずっと屈辱なんだよ」
「…撮られる人の気持ちはどうなのよ…」
治樹は先刻の吾妻となつめのことを思い出した。
「カメラを向けないのが思い遣りか?俺はカメラマンだからそうは思わない。目の前にある事実を撮るのに、被写体の気持ちを一々考え込んでいたら撮りそびれちまう」
治樹の言い分も分からなくはないのだ。ジャーナリストというのは皆そういう気概とプライドを持って仕事に携わっているのだろう。治樹の話を聞いていると、自分が現実から目を背けているだけの意気地無しなのかも知れないと悔しくなってくる。しかし治樹の態度はあまりにもデリカシーが無さ過ぎる。誰もが治樹のように強い人間ではないのだ。
「お兄ちゃん、そんなことしてたら、まともな死に方しないよ」
治樹は笑った。
「覚悟の上でござんす」
「もう、ホントに心配してるんだからっ!」
治樹は梨優の頭にポンと手を載せた。
「ありがとな」
梨優はくすぐったくなって、プイとそっぽを向いた。
「そうだ、梨優、お前台風の晩、片桐なつめの声は聞いたけど、姿は見ていないんだろ?」
「うん、あと玄関にパンプスが脱いであったのは見た…」
「…そうか、じゃあな」
治樹は手を振ると、早足で駅への階段を降りていった。
十月の末、学園祭を来月始めに控え、梨優は専攻科目の美術作品と、美術部の作品の仕上げに追われ、帰りの遅い日が続いていた。
吾妻の家の前を通ると一階は雨戸が締まり、電気が消え、留守の日が続いていた。
「コンサートだって言ってたもんね…」
日曜日の夕方、買い物からの帰り、吾妻の家の前にワゴンタクシーが停まっていた。運転手がハッチバックを開いて鞄を取り出し玄関の中に運んでいた。
「吾妻さん!」
梨優が中を覗くと、チェロのケースを抱えた吾妻がちょうど玄関に上がろうとしていた。
「梨優さん…」
「おかえりなさい」
梨優は精一杯の笑顔で笑った。
「今度の土日、学園祭があるんです。わたし吾妻さんをモデルに描いた油絵を展示するんですよ」
「そうですか」
吾妻はにこにこ笑っている。
「学園祭が終わったら、その絵をコンクールにも出品するので、しばらく戻ってこないから…吾妻さんにも見て貰いたいんです。お忙しいとは思うんですけど…」
しどろもどろになりながら、言うべきことは言った。
「梨優さん」
「はい」
「僕は、目が悪いんです。だから絵は見られない」
梨優はハッとして顔を上げた。吾妻がいつも薄い色のサングラスをかけていることを、別段不思議には思わなかった。
「子供の頃に海外で飲んだ薬の副作用で見えなくなりました」
吾妻はいつも梨優の顔を見ながら話をしていたし、家の中ではごく普通に動いていた。
「ここは祖父母の家で、日本に帰ってきてからは、ずっとこの家で暮らしていましたから、家の中にいる限りは目が見えなくても何も不自由はありません」
そうか、テレビが無いのも、新聞を取っていないのも、目が見えなかったからなのだ…
「…気付きませんでした…ごめんなさい…」
梨優は謝った。
「どうして謝るんです?」
「だってわたし、気付かないで失礼なことを言ってしまった…」
「いいえ、そんなことありません。僕は、梨優さんと会えるのをいつも楽しみにしているんです」
帰り道、近所に出来た百円均一ショップで、梨優は紙粘土を沢山買ってきた。
部屋で捏ねていると、治樹がやってきた。
「何してるの?」
「個人的な事。お兄ちゃんには関係無い」
治樹はしばらく粘土と格闘している梨優を見ていたが、
「お前さぁ、粘土だけでそんな複雑な姿勢のモデルを作るの無理だよ。土台にワイヤーか何かで芯を付けなきゃ。フィギュアじゃないんだから」
「もう、あっち行っててよっ!」
「へいへい」
梨優はすぐに針金を買いに行った。
梨優の描いた油絵は入選しなかった。
「素敵に描き過ぎたんじゃないの?」
環の愛ある辛口批評は当たっていた。美術の教師にも部活の先輩にもイラストみたいだと言われ、もっとリアルに描くように言われたが、梨優は頑として描き直さなかった。
「芸術に正しいとか間違いなんて無いと思うんだけどなあ…」
返ってきた絵と一緒に、粘土で作った塑像を持って吾妻の家に行くと来客中だった。前にも何度か来ているのを見掛けたことのあるレコード会社の人で、確か度会という名前だ。梨優が頭を下げると、度会も軽く会釈した。
「わたし、出直します」
「いえ、梨優さん、すぐ終わりますから、ちょっと待っていてくれますか」
「じゃあ、薔薇の手入れをしています」
「すみません」
薔薇の落ち葉を掃いて水を撒いていると、少し開いた部屋の窓から話し声が聞こえてくるが小声でよくは聞き取れない。
「では、考えておいてください」
しばらくして玄関から度会が帰っていった。
「梨優さん、失礼しました」
カラカラと窓が開いて吾妻が顔を出した。
苦心して作った塑像を吾妻は注意深く触っている。
「絵に描いたのと同じポーズで作ってみたんです。初めて作ったから、思うようには出来なかったんですが…」
「ありがとうございます。これは部屋に飾らせてください。絵は梨優さんが持っていて下さい」
それから二人でコーヒーを飲みながら取り止めの無い話をした。
「…じゃあ、絵の方にはモッコウバラも描いてあるんですか?」
「先生や友達には薔薇をバックになんて、少女漫画みたいだって言われたんですけど、わたしが初めて吾妻さんを見掛けた時、モッコウバラの香りと一緒だったから、どうしても描き入れたかったんです」
吾妻は嬉しそうに頷いている。
「さっきの方、度会さん、どんなご用だったんですか?」
話が途切れたので、梨優は話題を替えた。
「来年もコンサートツアーを組みたいと言っていました。それと…」
オーディオの上に置かれたCDを手に取った。
「なつめが録音していた未発表曲が見つかって、レコーディングをしてみないかと誘われました」
コピーと書かれたディスクをデッキにセットしスタートすると、スピーカーからソプラノの柔らかな歌声が流れてきた。梨優も知っている『アヴェ・マリア』だ。
「死んだ人の歌声を聞いて妙な気分になるなんてことは無かったけれど…知っている人だから、こんな妙な気持ちになるのかも知れないですね」
二曲目の途中で、吾妻はCDを止めた。
「…なつめさんは、イヴォンヌ・ラビエールという薔薇がお好きだったそうですね」
「どうしてそれを?」
「音楽雑誌に載っているお写真に必ず一緒に写っている薔薇があって、叔父が教えてくれたんです」
梨優は治樹が薔薇の花に詳しいことを説明した。
「イヴォンヌ・ラビエールは昔この庭に咲いていた薔薇で、母が育てていました。母が亡くなってから二・三年は手入れをしなくても自然に咲いていましたが、やがて枯れてしまいました」
「なつめさんは御覧になったんですか?」
「初めて家に来た日に、何という名前か聞かれたので教えました」
なつめがイヴォンヌ・ラビエールを好きな理由が分かった。彼女の吾妻との思い出にあった薔薇なのだ。
イヴォンヌ・ラビエールは枯れてしまったが、なつめは再びこの庭にモッコウバラを植え、吾妻との思い出を作ろうとしていたのかもしれない。