モッコウバラ 第十一話
作:蒼馬要
大学受験のために上京した美歌は、ホテルに荷物を置くと真っ先に吾妻の家に行った。
「柊平さん、おる?」
「美歌ちゃん、いらっしゃい」
練習部屋のドアを開けると、吾妻は笑顔で迎えてくれたが、その隣りに女の人が立っていたので、美歌は表情を硬くした。
「あ、あの…」
「この人は君の先輩になる片桐さんだよ」
吾妻は美歌になつめを紹介した。
「初めまして、片桐なつめです」
一歳しか違わないのに、随分と大人っぽい雰囲気であった。
「…佐倉美歌です…よろしく…」
吾妻と話していると、なつめが美歌の好きなロシアンティーを運んできた。
「柊平からいつもあなたのことを聞かされているのよ。苺と苔桃のジャムを半分ずつ入れるのがお気に入りなのよね?」
吾妻の名前を呼び捨てにし、自分の好みもよく知っている。親しげに接してくれてはいたが、美歌はなつめのことを何も知らないのだから、その打ち解けた態度が返って不愉快に感じられた。
「もうすぐコンクールの発表会があるから、柊平に協力してもらって練習をしているの」
昨年の全日本学生音楽コンクール関東地区の声楽部門でなつめは優勝していた。
吾妻の弾くチェロを伴奏にして、なつめは『ラ・ボエーム』のミミのアリア『さようなら』を歌った。
あなたの愛の呼び声に幸せを感じて出てきた
あの寂しい部屋にわたしは戻ります
また再び見せかけの作り物の花を作るために…
さようなら、恨みっこなしにしましょうね…
この時、美歌はなつめの歌の上手さに驚かされた。そして直感的に二人が恋人なのだと気付いた。
吾妻となつめは専攻が違っていたので、学校では殆ど会う機会は無く、なつめは同じ科の美歌と一緒にいることが多かった。そのため二人が恋人であることを知っていたのは、美歌も含めてごく近しい僅かな友人だけだった。
なつめは忙しい合間を縫って吾妻の家に通い、甲斐甲斐しく身の回りの世話をしていた。決して外泊はせず、必ず帰宅していたのは、なつめの性格でもあったが、それは二人の関係がなつめの両親には内緒であることが一番大きかった。
美歌はそのことを後になって知った。
新しい生活に美歌が慣れてきた六月頃のことだった。その日、なつめはまだ来ていなかった。美歌は自分で紅茶を淹れた。
後期の定期演奏会、学内演奏会を前後して学生音楽コンクールの予選と本選がある。関西地区のコンクールで、美歌は毎年優勝していて、今年初めて関東地区大会に参加する。
「柊平さん、うち九月の予選で自由曲は『トゥーランドット』の『氷のような姫君の心も』を歌うんや」
「リュウのアリアだね。なつめも前に歌ったことがあるから、教えてもらうといい」
美歌はムッとした。なつめは一年先輩ではあるが、高校生まではピアノとバイオリンしかやっていなかったという。歌の経歴では美歌の方がずっと長い。レパートリーだって美歌の方が断然多いのだ。それなのに何故吾妻はそんなことを言うのか。
本当は美歌も分かっていた。なつめは確かに歌が上手いのだ。しかしそれを素直に認めることが出来ずにいた。
「柊平さん、なつめさんにあって、うちに足りひんものって何やの?」
美歌の真剣な言葉に、吾妻は少し戸惑った。
「…僕は声楽のことは、よく分からないから…」
「ほな何で柊平さんはなつめさんに教えてもらえなんて言うんや」
吾妻は言葉に詰まった。
「うちの方がずっと昔から歌歌うてるのに、うちの方が昔から柊平さんのことよう知ってるのに…何でやの?なつめさんがうちより歌が上手やからか?」
「美歌ちゃん…」
美歌の食って掛かってくるような反発に吾妻は言い返すことが出来なかった。
「柊平さんはなつめさんのことしか考えておへんのや。うちのことなんか…どうでもええと思うとるんや…」
「そんなことない…美歌ちゃんのことだって…」
「うそや」
美歌は吾妻に抱き付いた。
「…美歌ちゃん…」
吾妻は身体を強張らせた。動揺しているのが美歌の腕に伝わってくる。もし抱き締めてくれれば、自分にもまだ望みがあるのかも知れないと信じられた。しかし吾妻は無言で美歌を拒絶した。拒絶する相手に縋り付くというのは何と情け無く、屈辱的なことなのだろう。
「…ごめんなさい…」
美歌は腕を解いて立ち上がった。
「うち、もう柊平さんを困らせるようなことは、しません…」
美歌は吾妻の家を飛び出した。
十一月、コンクールの本選には美歌もなつめも残っていた。二人は課題曲をほぼ完璧に歌いこなした。二人が同点に並んだため、審査は自由曲に注目された。
美歌はビゼーの『カルメン』で、カルメンがホセを誘惑する場面の名曲『ハバネラ』を蠱惑的に歌い上げた。一方なつめはプッチーニの『ジャンニ・スキッキ』の有名なアリア『わたしのお父さま』を澄みきったソプラノで歌った。
審査員は減点方式で優劣をつけることにした。ソプラノ部門であることから、メゾソプラノの曲『ハバネラ』はやや不利となり、結果は僅差でなつめの優勝となった。
入賞者は年明けの発表演奏会で表彰される。
優勝したなつめは取材を受けられるようにと楽屋の隣りに別室が与えられていた。
美歌が楽屋の外に出ると廊下は多数のマスコミ関係者が犇いていた。美歌は人ごみで塞がれた楽屋脇の出口を諦め、別の出口を探そうと会場のロビーの方に歩き出した。
「あ、あなた、佐倉美歌さんですよね?」
ソファーに座り煙草を吸っている男に声を掛けられた。
スーツ姿、片手に今日のプログラム、首からカメラを提げ、足元にはジュラルミン製の大きなケースが置かれている。カメラマンか…
「そうですけど…」
男は近付いて来て一礼すると、名刺を差し出した。大手出版社の写真週刊誌の名前が肩書きにある。美歌は受け取ってすぐにコートのポケットに滑り込ませた。
「何ですか?」
息が煙草臭い…すぐにマスクをしたかったが、それはさすがに失礼だろうと思い我慢した。
「写真よろしいですか?ステージの上での写真は撮ったんですけど、お一人のを一枚」
いきなりカメラを構えられたので、美歌は慌てて手で遮った。
「やめてください!」
「どうして?」
「優勝したのは片桐さんです。まだ楽屋にいますから、そちらに行けばよろしいでしょ」
「ああ…」
男は笑った。
「取材の順番を待ってるんですよ。うち一番後だから、まだ時間があるんだ」
自分はついでか…そんなものだとは分かっていたが、余計に悔しさがこみ上げてきた。
「でもさ、君だって二位に入賞したんだよ。まだ一年生なのにすごいじゃない」
美歌はクッと顔を顰めた。
「…優勝しなきゃ…意味が無いんです…優勝じゃなきゃ…」
男は切羽詰った表情で声を震わせる美歌の様子をじっと見ている。
「じゃあ、優勝したら撮らせてくれる?」
美歌は男の言葉にカッと血が昇って思わず睨みつけた。
「てんごう口言わんといてください!」
つい関西弁が出てしまい、美歌はハッと口を押さえた。
「本気だよ、優勝したら必ず撮らせてよ、ね?」
男はペコリと頭を下げると、また屈託無く笑って、灰皿に置きっぱなしていた煙草を一服吸うとすぐに揉み消して、荷物を担ぐと楽屋の方に行ってしまった。
美歌は会場を出て、小走りで駅に向った。
「何よ…何よ…失礼なヤツ…」
電車の中でコートのポケットに入れた名刺を取り出して、もう一度見た。
「萱嶋…治樹…」