モッコウバラ 第十二話

作:蒼馬要


 コンクールから一月も経っていない十二月の始め、美歌はピアノ専攻の四年生による卒業試験の公開演奏会を聞きに行った。昼休みにホールを出ると、見知らぬ男子学生が自分に向って親しげに手を振っているのだ。
「美―歌さーん」
 ボストンタイプのセルフレーム眼鏡をかけ、黒のタートルネックセーターに紺色のダッフルコート、下はジーンズにコインローファー。バイオリンのケースを片手に持った姿は一応音大生風だが何かが変なのだ。見知らぬとはいえ、確かに以前どこかで見たことのある顔だ。それがあの不躾なカメラマンだと数秒後に思い出した美歌はツカツカと歩み寄った。
「何してるのよ、天麩羅学生っ!」
 小さい声で鋭く言うと、治樹は舌を出した。
「やっぱりバレたか」
 編集長から片桐なつめの恋人を捜して来いという指令があり、カメラマンの中でも一番若い治樹が学生を装って潜入することになったのだという。大学の敷地内には美術館など一般の人も入れる施設があるので、余程怪しくなければ出入りは自由なのだ。
「カメラは?」
「とりあえず今日は敵情視察だから」
 胸ポケットからコンパクトカメラをチラリと見せられた。
「呆れた…」
 その場を立ち去ろうとすると、
「佐倉さん、お昼まだなんでしょ?」
「え、ええ…」
「おごったげるから行こ。さっき片桐さん入ってったよ」
 治樹は美歌の腕を掴んで会館内の食堂に入った。

 二人はなつめが座っている席の近くに座った。なつめの近くにいるそれらしき男たちを隠し撮りするつもりらしい。
「何でなつめさんに恋人がいるって分かったの?」
 美歌の向い側で治樹は平然と大盛りカレーを食べている。
「コンクールの取材をした時ね、“恋人は居るんですか”ってうちの記者が聞いたのよ。音楽専門誌と違って、そういう質問になっちゃうんだけどさ。で、あれ、“忍ぶれど色に出にけり”ってヤツ」
 治樹はニヤリと笑う。
「“居ません”て即座に否定されたけど、居ないわけないじゃん」
 カレーを食べ終わると、治樹は後ろのテーブルに置かれたお茶の入ったポットを取るために振り返った。なつめの居る位置をさりげなく確認すると、脇の下からカメラを構え、なつめの座っているテーブルの方をさりげなく撮り始めた。そんなアバウトな撮り方で大丈夫なのだろうかと思いながら、治樹の様子となつめの方を交互に見ていると、なつめと目が合ってしまった。なつめは美歌が男性と一緒に居ることに気付くとにっこり笑い、手を振って合図をした。
「ちょっと、なつめさんこっち見てるわよ!」
 小声で治樹に注意すると、既に撮り終えたのか、胸の内側でフィルムが自動で巻き戻っている音がしている。
「佐倉さんてさぁ、片桐さんと知り合いなんでしょ?知らない、片桐さんの彼氏」
 コンクールの後も、なつめは相変わらず美歌に親しくしてくれていた。吾妻はなつめに何も話さなかったようだが、美歌は何となく気まずくて、吾妻の家からも足が遠退いていた。
 しばらくすると、なつめは同席している男子学生たちよりも早く席を立って、トレイを下げ、二人の方に近付いて来た。治樹に黙礼すると、美歌の肩にそっと手を遣った。
「美歌ちゃん、ジャムの頂き物があったの、近いうちにお茶を飲みにいらっしゃいね」
「は、はい…」
 治樹のことがバレれやしないかと美歌はドキドキしていたが、なつめはもう一度治樹にお辞儀をすると、そのまま食堂を出て行ってしまった。
「…気付かれなかった…」
 確かに治樹はコンクール会場で会った時とはかなり違った恰好をしてはいるのだが、よく見れば気付くはずなのに。
「取材される人ってね、記者の顔はしっかり見ているけど、カメラマンの顔はほとんど見てないもんなんだよ。こんなに男前なのにちっとも覚えてもらえない」
 美歌は思わずくすっと笑った。
「あ、笑った」
 かなり厚かましい態度なのだが、何故か憎めないところがある。
「このお茶美味しいね。いつも編集部で飲んでるのよりいいのなんだな、きっと…」
 治樹はニコニコ笑いながらお茶を飲んでいる。
「そうかしら、濃く淹れてるくらいで、それほどでもないわよ…」
 美歌がそう答えると、治樹はポケットから煙草を取り出した。
「ここ禁煙よ。吸いたかったらあっち行って」
「ああ、そうなの。ごめんごめん」
 治樹は諦めてまたお茶を飲む。相当のヘビースモーカーらしい。
「今撮った中に本命が居れば、すぐ現像に回して来週のスクープなんだけど…ねぇ、ヒントでもいいから教えてくれない?」
「…ヒントって…」
 美歌はまるで誘導尋問をされているような気分になった。こんな方法で強引に調べられていたら、遅かれ早かれ見つかってしまうだろう。今自分が教えたって、少し早いだけなのかも知れない…。
「…知ってる…けど…」
 治樹の目が輝いた。
「ホント?誰々?」
「…あの中には居ないわよ…」
 治樹は舌打ちをする。
「なーんだ…フィルム無駄遣いした。で、どこに行けば会えるの?」
 片想いではあるが、ずっと想いを寄せていた初恋の人と、人生最強のライバルが恋人であることを認め、なおかつ他人に打ち明けるのは、正直かなり癪なことであったし、本人たちが秘密にしていることを勝手に教えてしまうのはどうだろうかという後ろめたさもあった。しかし黙っていてくれと頼まれたわけでもない。
「…わたしが言ったってことは内緒にしてくれる?」
「します、します、口が裂けても言いません!」
 美歌は声を潜めた。
「…大学院の器楽専攻でチェロをやっている…吾妻柊平って人…」
「大学院のあがつま…しゅうへい…と…へえ、チェリストなんだ…」
 治樹は手帳にメモをすると、すぐに席を立った。
「ありがとう、またね!」
「あ…」

 治樹は弦楽器合奏室のある館に行き、他の学生から聞いて吾妻を見つけると、帰宅する後を尾行し、自宅を突きとめた。姉の家が近所にあり、家の前を何度も通っていたから土地鑑もある。昼間は二人とも大学にいるし、張り込む時間も夕方から夜に限られる。
 その日はなつめが来る様子が無かった。

 数日後の夕方、治樹は吾妻の家近くに止めた車の中にいた。帰宅した吾妻を確認して張り込んでいると、間も無くして何も知らないなつめが家の中に入って行った。芸能人と違って出入りにも全く警戒している様子がない。
「ちょろいな…」
 スクープ写真というと盗撮まがいのものと勘違いされがちだが、例え隠し撮りをするにしても、私道や私有地内を勝手に撮ることは出来ない。撮影が出来るのはあくまで公道や公共施設に限られている。
 煙草を吸ったりして時間を潰し、腕時計を見ると間も無く九時。治樹は車の外に出た。なつめだけでも撮れればよしとしていたが、吾妻も一緒に出てきたので、二人が門を出た瞬間を写真に収めた。
 名刺を渡して誌名と名前を言うと、なつめは困惑した顔を見せた。食堂で美歌と一緒にいた男子学生とは繋がっていないようだが、コンクールの時の取材で渡した名刺の名前を思い出したのだろう。
「なつめ…」
 心配そうにしている吾妻に向って、なつめは小声で何か言い、家の中に帰すと、
「今後の取材はわたしが全て受けますから、ここにはもう絶対来ないでください」
 と厳しい表情で言った。治樹が頷くと、なつめは自宅の住所と電話番号を告げ、駅の方に走って行ってしまった。
 治樹はそのまま編集部に戻った。写真はうまく撮れていた。あとは事後報告を兼ねた取材をするだけ。新星歌姫と盲目のチェリストの秘めたる恋。誌面を飾るのには十分だ。編集長も部数が伸びればボーナスを出すと約束してくれたので楽しみにしていた。
 掲載差し止めの通達が編集部に来たのは、それから二日後のことだった。

 なつめは二人の写真が週刊誌に載っても構わないと思っていた。吾妻と別れる気がなかったからだ。
 しかし写真を撮られた翌日、娘から突然恋人の存在と、写真週刊誌にスクープされたことを知らされた父親は、娘の将来を心配し、二人の交際を強く反対した。そして掲載を差し止めるよう、なつめの意志を無視して出版社に手を回してしまったのだ。
 父親は吾妻の所へも乗り込み、娘のために関係を清算してくれと迫った。吾妻がまだ大学院生であるということが理由だった。翌年から非常勤講師としてチェロの指導にあたることが決まっていたが、生活力も無く、今後の保証も出来ない吾妻との交際が娘にはマイナスにしかならないと考えたのだ。吾妻もなつめのために別れることを了承した。

 なつめは吾妻と会えなくなってから、しばらく精神的な理由で歌が歌えなくなってしまった。そのため年が明けてすぐに行なわれた入賞者発表会にも出場できなかった。美歌は二位入賞ながら最後に『ハバネラ』を歌い絶賛された。

 吾妻となつめがその関係を清算せざるを得なくなったことを、美歌はなつめから知らされた。美歌は知らなかったこととはいえ、取り返しのつかないことをしてしまったのだとひどく後悔した。
 しかし内心、二人が別れたのなら、吾妻は自分のことを思ってくれるのではないだろうかとも考えた。

 久しぶりに美歌が吾妻の家に行くと、練習部屋からチェロの旋律が流れていた。以前この部屋でなつめが歌っていた『ラ・ボエーム』だった。
 結核で胸を病むミミのために、愛し合いながらも別れることを選んだ詩人のロドルフォは、同様に恋人ムゼッタと別れた仲間の画家マルチェロと、屋根裏部屋で仕事も手につかずにいる。二人は思い思いに互いの幸せだった頃を懐かしみ合う。その二重唱を弾いていた。

 なつめと別れてからも、吾妻は美歌に対して態度を変えることはなかった。美歌は改めて自分が吾妻の恋人にはなれないのだと思い知らされた。

 美歌はなつめに吾妻が『ラ・ボエーム』を弾いていることを話した。関係を清算させられても、互いの気持ちに変わりが無いと確信したなつめはやっと歌声を取り戻した。

 なつめは、三年になってオペラコースに進んだ。その声量と歌唱力には以前には無かった凄まじさを湛えていた。
 大学を卒業し、イタリアに留学した後も、なつめは日本に帰ってくる度に、両親には内緒で必ず吾妻の家を訪れていた。
 二人が恋人でなくなっても、他者が決して立ち入ることの出来ない深い関係で結ばれ続けていることを美歌は誰よりも知っていた。

 一方、美歌は治樹と親しくなったことがきっかけで、新しい交友範囲が開けた。二十歳になり、治樹の行き付けのジャズバーやライブハウスにも行くようになった。歌を聞くうちに自分でも歌いたくなり、学校では習わない曲を覚え始めた。幼い頃から慣れ親しんでいたクラシックも好きだったが、ジャズには新鮮な魅力があった。それまで世間知らずな深窓の令嬢といったイメージで、思い詰めやすい性格だった美歌に、別の生き方もあるのだと、気付かせたのは治樹だった。

 グラビアモデルをやってみないかと治樹に誘われたのは四年生の時だった。学生音楽コンクールで初めて優勝した年の暮れのことだ。
 治樹が専属カメラマンをしている写真週刊誌『ショット』で創刊当時から連載されている“美女百景”というグラビアコーナーに推薦してくれたのだ。
 しかし学校に無許可で撮ったセミヌードの写真が掲載されたのが問題となり、卒業は出来たものの、成績は優秀だったが首席から外されてしまった。
 美歌はプロの道に進むことをやめ、独立を考えていた治樹と一緒に会社を興した。美歌の父親が出資してくれたのである。

 イタリアのホテルで見たなつめの通話記録の最後に記されていた番号は、治樹のオフィスのものだった。イタリアの早朝、日本時間で午後、オフィスには美歌しかいない時刻だ。
 撮影旅行から帰国した治樹はすぐに美歌に問い質した。
「あの日、台風が近付いていると美歌に聞かされた片桐さんは、薔薇の様子を見に行ってくれないかと頼んだそうです。それで美歌は仕事帰りにここに来た。…煙草を吸っても、構いませんか?」
「どうぞ…」
 治樹は庭に面した窓を開け、腰をおろすと煙草に火をつけた。
「あなたが家から出てきた時には、とても驚いたと言っていました。留守だと思っていたそうですから」
 美歌は咄嗟になつめになりすました。
「でも、もしあなたが居てくれたら、出てきてくれることを期待してもいたのでしょう。片桐さんの使っていた香水を付けて来たのも、あなたに見つかった時には、片桐さんになりすまそうと思ってのことだったようですから」
 携帯灰皿に灰を落とし、治樹は夕空を見上げ溜息をついた。
「今でも美歌は、あなたのことが好きなんです」
 治樹に言われて吾妻は昔のことを思い出した。吾妻にとって美歌はいつまでたっても妹のような存在なのだ。

 しばらく使っていなかった薔薇の香水を美歌が付けているのに治樹が気付いたのは火曜日の朝だった。どうしたのだろうと疑問に思っていたが、海外での仕事の支度に追われていたため聞く機会がなかった。
「片桐さんが事故に遭われたという連絡は、美歌の元にもすぐ入ったそうです。そのことを伝えるために、美歌は火曜日の夜またここを訪れた。しかし自分を片桐さんだと信じて疑わないあなたの様子を見て、結局名乗ることも出来ず、片桐さんが重態であることも言い出せないまま翌朝帰ったそうです」
 梨優が見た玄関にあったパンプスと部屋から聞こえてきた声は美歌のものだった。


最終話につづく