モッコウバラ 最終話
作:蒼馬要
「ただ、一つだけ分からないことがあるんです」
治樹もずっと引っ掛かっていたことを切り出した。
「吾妻さん、片桐さんは木曜の晩にも来たそうですが…」
「あの晩来たのも、美歌ちゃんだったのですね」
「いいえ、木曜の晩、あなたの前に現れたのは、美歌ではないんです」
木曜日、美歌は元の柑橘系の香水に戻っていた。
「美歌ちゃんじゃない…?」
「その晩、美歌はわたしとずっと一緒にいました」
治樹にそう言われて、吾妻は治樹と美歌の関係に気付いた。
「梨優は片桐さんがあなたの夢枕に立ったのだと言っています」
「夢枕…ですか…」
「片桐さんが一番会いたいと思っていたのが、あなただったからだそうです。そしてあなたも片桐さんに会いたいと思っていたから…」
煙草を揉み消して治樹は立ちあがった。
「わたしはそういう非科学的なことは信じられませんが…心というのは、そうやって通じ合うものなのかもしれません」
木曜日の夜、吾妻の元を訪れたなつめはチェロに合わせて歌を歌わせてくれとせがみ、プッチーニの『トスカ』のアリア『歌に生き、愛に生き』を練習部屋で歌った。
日々真の信仰によって、わが祈りを捧げてまいりました。
日々真の信仰によって、祭壇に花を捧げてまいりました。
悪しき事は何一つせず、貧しき者にも手を差し伸べてまいりました。
わが宝石である歌を、マドンナの御衣を飾るために捧げて参りました。
御衣を飾った宝石が空の星星となって輝くようにと捧げて参りましたのに、
なのに、主よなぜこのような、悲しく辛い責め苦にて報うのですか…
なつめの歌声は吾妻の胸に深く響いた。
僕の喜びも希望も、君がいるから生まれるんだ。
熱が炎から生じるように、別れるのはのは辛い…
君は僕の羅針盤なのだから…
処刑を間近に控え、悲嘆に暮れる恋人のカヴァラドッシを救うため、トスカは自分に横恋慕をしていた警視総監スカルピアを騙し討ちにする。再会した二人が手を取り合って歌う『この優しい手』は、吾妻の本心であった。
あなたを救うのは愛の力、
地上では道案内をし、海では舵を取り、
世界を美しいものにしてくれる…
処刑は空砲で行われる筈だった。しかし執行人は実弾を撃ち、カヴァラドッシは死んでしまう。恋人を亡くしたトスカはスカルピアを殺したことが露見し、牢獄のサン・アンジェロ城の城壁を逃げる。しかし屋上に追い詰められ、逃げ場を失ってしまい、遂には飛び降りて自ら命を絶ってしまう。
「わたしはトスカのような死に方は嫌…」
そう言ってなつめは吾妻の額に自分の顔を寄せた。
「…なつめ…」
柔らかいけれども、とても冷たい頬と唇が額に触れ、吾妻は身震いをした。自分の肩に乗せている手も氷のように冷たい。
「何て冷たい手なんだ…」
吾妻が手を握り締めると、なつめは吾妻の前に跪き、『ラ・ボエーム』の二重唱『みんな行ってしまったのね』を歌い始めた。
話したいことがたくさんあるの
わたしが初めて入って来た時のこと覚えてる?
吾妻はなつめの歌に呼応するようにチェロを弾いた。
音楽教室のドアをためらいがちにノックして入ってきたなつめのことを思い出しながら。
わたし真っ赤だったのよ
あなたには見えなかったでしょうけれど…
「知っていたよ…」
吾妻がそう言うと、なつめは嬉しそうに部屋の中をクルクルと歌いながら踊っている。
眠くなったわ…
やがて歌い終えると、なつめは吾妻の膝にそっと寄り添い、そのまま眠ってしまった。
昼間の仕事で疲れているのだろうと思った吾妻はなつめをソファに寝かせると、ヘッドフォンをしてチェロを弾き続けた。
朝、いつの間にか眠り込んでいた吾妻が目を覚ますと、なつめはもういなかった。また来るわ、という囁き声だけが耳の奥に残っていた。
「そうだ、これを…」
治樹は鞄からCDを取り出した。
「片桐さんがトリノのレッジオ劇場で最後に出演した舞台のCDです。今日はこれをお渡ししに来たんです」
吾妻はすぐにディスクをセットした。
…妙なる調和だ、恋人のトスカは黒髪で黒い瞳の情熱的な美人…
カヴァラドッシ役のテノールが『妙なる調和』を歌い始める。
「プッチーニの『トスカ』です」
ジャケットを見ながら治樹が呟いた。
「萱嶋さん…」
治樹が吾妻を見ると、頬を涙が伝っていた。
「あなたが自分の目で見たものしか信じないように、わたしも自分の耳で聞いたものを信じようと思います」
部屋は梨優が活けた咲き残りのモッコウバラの匂いで満ちていた。
梨優はなつめがモッコウバラを選んだのには、その花言葉に意味があると思っているらしいが、一番の理由はその香りにあった。なつめはこのモッコウバラにそっくりな甘い匂いの香水をいつも使っていた。
毎年春になり、モッコウバラが咲く度に、自分はなつめのことを思い出してしまうのだろう。
梨優も窓の外の薔薇を眺めながら考えていた。
あの薔薇は吾妻さんとなつめさんのものなのだ。どんなに頑張っても、自分はなつめさんの代わりにはなれないのだと思うと、鼻の奥がツンとして涙がこぼれそうになった。
「梨優さん?」
梨優が黙り込んでしまったのに気付いた吾妻が声を掛ける。
「わたし、来週旧古河庭園に行くんです」
「西ケ原の?」
以前、学生時代の友人の結婚式が旧古河庭園の洋館で行なわれたことがあった。
招待された吾妻はチェロを弾いた。あの時に弾いたのは何の曲だったろう…
「はい、薔薇が沢山咲いている西洋庭園があって、夕方からライトアップがあるんですって」
梨優は努めて明るい声で答えた。
「そうですか、楽しんできてください」
吾妻は弓を構えると、チェロを弾き始めた。
結婚式で弾いた、エルガーの『愛の挨拶』がゆったりと流れた。