薔薇園〜under the rose〜第三話
作:蒼馬要
ここ何日か、梅雨の走りみたいな雨の日が続いて、昨日も夜遅くから雨が降っていたけれど、昼前には止んで雲間から日の光が差し始めた。撮影には絶好のタイミングだ。
改札を出て、駅の階段を上がっていくと、既に目的地が同じらしき人たちの一群と一緒になる。途中の小さなパン屋に寄って、短かめのフランスパン一本と牛乳を買って入園した。
洋館の手前の道を入ると薔薇園になる。三脚を束ねたベルトを外しながら、薔薇園を一巡りした。どの薔薇も花や葉が雨に洗われて艶やかだ。
花屋で売られている切花の薔薇と違い、地面から生えている枝に咲いた薔薇は、花の大きさや色に関係なく、堂々とした逞しさがある。
他の入園者の邪魔にならないよう注意しながら、通路の端に三脚を立て、カメラをセット。まずカラーフィルムで撮影することにした。自然と赤や黄色、オレンジ、ピンクといった華やかな色の薔薇を撮ってしまう。手帳のメモ欄に薔薇の名前や色、分かるデータを書き込んで、フィルムを一本撮り終えると、破いてフィルムケースに一緒に入れる。
「こりゃ、結構面倒だぞ…」
中腰やしゃがんだ姿勢で二時間くらい撮影を続けていたら、脚と腰がパンパンに張ってきた。
薔薇園の全種類の薔薇を撮るつもりではなかったけど、気が付けばカラーフィルムが最後の一本になってしまった。
「ブルームーンを撮る分は残しておかないと…」
日本庭園の方に降り、ちょっとした広場に出た。ベンチを見つけそこで少し休憩する。買ってきたパンをちぎって口に放り込み、牛乳を飲む。
腕時計を見ると、四時をまわったところ。西日も大分傾いてきたけれど、日没まではまだ時間があるし、ライトアップもまださらに先だろう。
土鳩が数羽、足元に近付いてきた。食べかけのパンを細かくちぎって放ると、争うようについばんでいる。食べ終わって、フィルムの整理を始めると、鳩はもう何も貰えないと分かったのか、他のベンチに座って休憩している人たちの方に寄って行って、食べているスナック菓子などを投げてもらっている。
きっちりと手入れされた西洋庭園と違って、日本庭園は自然の野草が伸び放題に伸びているという印象だ。大きな石灯篭の置かれた池の周りを巡り、石橋を渡る時、何気なく下を覗くと、とろりとよどんだ池の水面から鯉や亀が口や頭を覗かせている。
去年、あの写真を撮った場所に行った。
「これか…」
マリアカラス。濃いピンクの大輪の薔薇が甘い芳香を放っている。
「ブルームーンはどこだ?」
やっと見つけたブルームーンは、洋館の脇に植わっていた。淡い藤色をしている。あまり目立たない色だから通り過ぎてしまったらしい。
ブルームーンをもう一度、洋館をバックにして撮りたいと思っていたけれど、洋館と同じ高さに植わっているから、これだと洋館を見上げるアングルでは無理だ。
僕は薔薇園の隣にあるベコニア花壇の手前の通路にまわって三脚を置くと、カメラのレンズを望遠に付け替え、ファインダーを覗いた。石積みの壁と、白いペンキが塗られた窓枠。ほの暗い室内のカーテンがかろうじて見える。洋館をバックに満開のブルームーンは青白さを際立たせている。シャッターを押した瞬間、窓の奥に佇む人影が見えたような気がした。顔を上げ、窓に目を凝らしたけれど、誰も居なかった。
週末にはコンサートが開かれるという芝生の周囲に据えられたベンチに座って、鞄の中から水筒を取り出した。夕方になると冷えてくると思い、家で熱いコーヒーを作ってきたのだ。ナイス機転。
「ふう…」
日が暮れて、ぐんぐん気温が下がってきた。
「ここ、いいですか?」
「あ、はい」
慌ててベンチの上の荷物を脇に引き寄せると、空いた場所に座ったのは、僕と同じ位の年頃の女の子だった。小型のデジタルカメラを首から下げている。デジカメか。学校でもコンピュータを使って写真を加工する授業がある。デジカメで撮れば、一々スキャナーで取り込む必要も無くて便利なんだけど、画質のことを考えたら、断然フィルムカメラだよな。でもあっても困らないな。…結局欲しいんだよね…
「あの…」
女の子に声を掛けられた。
「はい!」
「ライトアップって、何時からか分かりますか?」
入場券を買った時に、入口に置かれていたチラシを一枚貰ったのがポケットに入ってたっけ。出して見てみる。
「ええと…僕も初めてなんですけど…日没後としか書かれてないですね」
「そうですか…」
女の子は腕時計を見ると、小さなトートバックから紅茶のペットボトルを取り出して口を付けたけれど、すぐに飲むのをやめてバックにしまっている。首や肩をちぢこませて、何だか寒そうだな…。
「あの…」
今度は僕が声を掛けた。
「熱いコーヒーがあるんですけど、飲みませんか?」
女の子は黙って僕を見ている。警戒されてるのかな…僕は水筒を持って見せて、
「インスタントじゃないんですよ。挽き売りの粉をドリップしたから、美味しいんですよ」
どこのコーヒーショップで買ったのかまで説明すると、女の子はにっこり笑った。
「ありがとう。じゃあ、一杯いただきます」
内蓋の使っていなかったカップに半分くらいコーヒーを入れて渡すと、女の子は両手でカップを包むように持ってゆっくり飲み始めた。
「美味しい」
僕もコーヒーを注ぎ足して飲んだ。
「日が暮れると、寒くなるだろうと思って、持ってきたんです」
女の子は飲みながら、コクコク頷く。
「そうなの、先月も友達とお花見に行った時、夕方になったら急に冷え込んできて、風邪をひきかけちゃったんだけど、五月も夜はまだこんなに冷えるのよね」
「お花見はどこに行ったんですか?」
「吉祥寺に住んでる友達がいるから、井の頭公園に行ったの」
「ああ、井の頭公園は池に張り出してる桜がきれいなんですよね」
女の子は僕の風体を遠慮がちに見ながら、
「写真家の人ですか?」
と聞いてきた。僕は首を横に振った。
「学生です。写真の学校に通ってます」
「へぇ…じゃあ課題とかで?」
「今日は違うんです」
僕は手帳に挟んであった、ブルームーンの写真を取り出した。
「これ、去年の秋に、ここで撮った写真」
「わあ…」
女の子は熱心に写真を見ている。
「後ろにあるの、あの洋館ね」
「ええ、薔薇が満開の時にまた撮りに来ようと思って、今日来たんです」
「そうなんだ…あ」
明かりが灯った。暖色系の照明に照らされた洋館と薔薇園は、昼間とはかなり違う雰囲気になった。
「コーヒーごちそうさま」
女の子はハンカチでカップの縁を拭いて返してくれた。
「どういたしまして」
僕が水筒をしまうまで、女の子はずっと写真を見ていた。
「この薔薇、何ていう名前ですか?」
「ブルームーンです」
「ブルームーン」
女の子は写真を返してくれながら繰り返し呟くと、立ちあがり、軽くお辞儀をして薔薇園の方に歩いていった。植えてある場所が変わったってこと、教えてあげれば良かったかな…