薔薇園〜under the rose〜第五話

作:蒼馬要


 本郷通りを駒込まで歩き、萱嶋さんの行きつけという居酒屋に向かった。
 道すがら、梨優さんに自己紹介された。彼女は高校二年生で、僕よりも三つ年下だった。だから"梨優ちゃん"と呼んで、タメ口になっても良かったんだけど、最初に丁寧語で話していたのが尾を引いていた。
「いらっしゃい」
 お店に入ると、奥の小さな座敷でまた薔薇の話が始まった。梨優さんがバイオと人工交配の違いについてよく分からないと言うと、萱嶋さんは取材に行った育種家や企業の研究員の話をしてくれた。
「人工交配っていうのは、開花前の蕾を開いて、別の薔薇の花粉を受精させて、新しい品種を作るという昔から行われてきた方法。人間が意図的に交配を始めるずっと前から、蜜を吸う虫や風によって花粉が運ばれて、自然に交配が行われ様々な薔薇が生まれてきたことを考えれば、ある物同士をくっつける、言わばお見合いの仲人のようなものだよね」
「ううん、政略結婚だわ」
 梨優さんのユニークな解釈に、僕は思わず吹き出してしまった。
「元々ある赤紫色の薔薇から、掛け合わせによって徐々に赤色を抜いていくという方法で青薔薇を作ろうとしているそうだよ」
「紫引く赤は青っていう引き算ね」
 萱嶋さんは苦笑いする。
「本当はもっと複雑なんだけど、簡単に言えばそうなるかな。薔薇はいくら交配を繰り返しても、青いものが出来ないことから、青色の遺伝子が無いのだと言われてきたけれど、分子構造の研究が進んで、青くなる遺伝子は持っているけれど、青く発色させるのが難しい花なのだってことが分かった」
 濃い水色に咲く紫陽花と同じ、アントシアン系の遺伝子が薔薇にも存在するけれど、薔薇では赤や赤紫色に発色してしまうのだそうだ。またアントシアン系の色素は酸性では赤く、アルカリ性で青く発色する性質を持っているものの、アルカリ性での色の安定性がとても弱いのだそうだ。
「だからバイオテクノロジーによって、安定した青色遺伝子を組み込もうっていうことなんですね」
「うん、本来薔薇には無い種類の青色遺伝子を組み込むための研究をしている。青色遺伝子は薔薇に限らず、とても不安定な構造をしているそうでね、青く咲く花からも取り出すのは難しいそうなんだ。でもペチュニアという花から取り出した遺伝子、ペチュニジンを組み込んで青いカーネーション作りに成功した。しかし薔薇ではまだ成功していない。薔薇にはまだその青色遺伝子を組み込めないそうなんだ」
「薔薇って気難しいのよ、きっと」
 梨優さんはニコニコしている。青薔薇はやはり不可能なものであって欲しいようだ。

 梨優さんは食事が済むと、友達と約束があるからと帰ってしまった。
「もう少し飲んでこうか?」
「あ、はい…」
 ビールを日本酒にかえて、僕と萱嶋さんは寛ぎながら話をした。
「梨優には、ああ言ったけどね…」
「ええ」
「青い薔薇、見たことあるんだ」
 萱嶋さんは声を低くする。
「本当ですか?」
 つられて僕も小声になり、店内を見回した。客は僕と萱嶋さんだけ。お店の親父さんはさっきからカウンターの中でテレビのプロ野球中継を見ている。
「煙草、いいかな」
「はい」
 萱嶋さんは首に掛けた紐を手繰り、上着の内ポケットに入っていたシガレットケースの蓋を開けて、煙草を一本取り出し、ライターで火を点けると、首から紐を取って、ケースをテーブルに置いた。生成りの粗く織った布地に青い糸で細かな刺繍がしてある。
「去年の秋、撮影旅行の途中だった。ある村で食料調達とトイレに行くのでバスを降りた。次のバスを待つ間の暇潰しに、鄙びた土産物屋を覗いたら、店の奥に青い花の柄が織り込まれた壁掛けや、青い花の刺繍されたテーブルクロスが売られているのが目に止まったんだ。このコインケースも並んでいた。店の者は片言の英語で薔薇の花だと言う。誰が作ったものかと聞くと、さらに高地にある、歩いて半日程掛かる小さな村の者が作っていると言うから俄然興味が湧いた。先の予定を変更して、その村に行ってみることにしたんだ」
 萱嶋さんは村に一軒だけあったレストラン兼ホテルに滞在した翌日、大きな荷物を預けると、カメラと最小限に必要なものだけをリュックに詰めて、その薔薇が咲くという村に向かったそうだ。
「半日掛かると言われたが、昼を過ぎるとすぐに日が暮れた。道は一本だけしかなかったから、ペンライトで足下を照らしながら、ようやく村の入り口に着いた頃には既に真っ暗になっていた。明かりの灯った家を見つけてドアを叩くと、初老の男性が出てきた。その手にライフルが握られているのを見て、身体が強張ったよ」
 英語が通じない様子なので、土産物屋で買ったコインケースとカメラを見せて、身振り手振りで日本人のカメラマンであることを必死に説明すると、男性はライフルをドアの脇に立て掛け、とりあえず中に入れと手招きされたそうだ。
「後で分かったことだが、夜になると森の中から狼や熊が出てくるらしくてね、自分たちが身を守るための銃なんだそうだ。もう少し遅かったら、熊に遭遇してたかも知れないって脅されたよ」
 萱嶋さんは他人事みたいに笑う。僕は呆れてしまった。
「…無茶なことをしますねぇ…」
 この様子じゃ、危ない目に遭っているのは、きっとそこでだけじゃないはずだ。そんな大変なことをしてきた人が、今こうして僕の目の前でちびりちびりと熱燗を呑んでいるということが何よりも不思議だった。
「このケースやクロスの刺繍をしたのは、その男性の奥さんで、隣の部屋で、旦那さんとわたしの様子を聞いていたらしいが、要領を得ない遣り取りに、どうにも堪えられなくなって顔を出した。旦那さんと今夜泊めてやろうと相談が決まったらしく、食事とベッドを用意してくれたんだ。わたしも疲れていたから、お礼もそこそこにすぐに眠ってしまった」


第六話につづく