二胡世界

二胡の作曲家

劉天華 1895〜1932

劉天華は二胡の革新者です。それまで戯曲の伴奏が主体であった二胡に、独立した器楽楽器としての不動の地位を与えた人です。

劉天華は江蘇省の田舎に生まれました。家が貧しかったこと、辛亥革命前夜の激動の時代に人と為ったこととで、いわゆる高等教育は受けられませんでした。十五、六歳の頃に参加した青年団の軍楽隊で初めて音楽教育を受けたといいます。その後、上海へ出て劇団へ勤めた頃から、急速に音楽の才能を開花させました。二胡や琵琶などの民族楽器を習得したのは二十代を過ぎてからのことですが、その練習ぶりは凄まじいものであったそうです。研鑚の傍ら、二十三歳の頃、早くも傑作「空山鳥語」の原曲を書いています

生涯、教職にあった人で、故郷の小学校や中学校で音楽を教え、その後、北京へ出て大学や師範学校でも教鞭を取りました。北京では西洋の音楽家についてバイオリンも習得しています。およそ音楽に関することなら知らないことはなかったほどで、古楽や京劇や昆劇などの戯曲音楽、仏教音楽なども精力的に勉強し、西洋音楽の作曲や和声も学んでいます。著名な京劇役者の梅蘭芳の舞台を記譜し、編集したりもしています

三十代となり「閑居吟」「良宵」「空山鳥語」(視聴のページ)「光明行」等の中国音楽史上に残る傑作を次々と発表し、充実した創作活動期に入った矢先、猩紅熱で急逝しました。わずか三十七歳でした

彼の残した数々の傑作は、いずれも民族音楽の卓越した力量と西洋音楽への深い造詣とが生み出したものです。劉天華の二胡独奏曲は十曲ありますが、どれも作風は清潔で独自の風格があり、いかにも中国音楽らしい叙情性に富んでいます。彼以後も二胡の曲は数多く作られましたが、劉天華の曲の境地にまで達した曲は見当たりません。死後七十年経っても少しも人気が衰えない秘密は、曲のテクニックよりも、作品の音楽性が衰えないからだと思います。

阿炳(華彦鈞) 1893〜1950

最も著名な民族音楽家である阿炳は、幼い頃からすでに音楽の天才を発揮していました。歌もよく歌い、楽器も得意で、演奏できない楽器など一つもなかったと言われるほどです。作曲においてもずば抜けた才能のあった人です。中国民族音楽の代表曲が何曲もあり、たとえば「昭君出塞」は琵琶の代表曲ですし、「二泉映月」「聴松」は二胡の代表曲です。

数奇な人生を生きた人でもありました。  江蘇省・無錫の道教寺院の道士の一人息子として生まれました。母親は召使の身分であり、その上、再婚でもあったため周囲の嫌がらせや迫害により家を追い出されて若死にしました。阿炳がわずか3歳の頃のことです。

20歳を過ぎた頃、父親を亡くしました。同じ頃から眼病を患い数年後に片目を失明します。父親の後を継いで道教寺院の道士をしていたのですが、盲目の道士など縁起でもないと、檀家が次々に離れて行ってしまいました。そこで彼は道士をやめ、芸人として生きる道を選びました。そうして35歳の頃、かろうじて見えていたもう片方の目も失明しました。

「河原乞食」と日本でも言うように、同時の中国社会でも芸人は物乞い同様の者としかみなされていませんでした。しかしそれでも阿炳は喜々として歌を歌い、琵琶や二胡を奏でたのです。ユーモアのある人で、町で起こったことや新聞に載った事件などを面白おかしく歌にしたといいます。また、当時の混乱した中国の社会悪を憎み、権力者や軍人を風刺する歌をいくつも作り、庶民の喝采を浴びたともいいます。

二胡の名人であった阿炳は、あらゆる音を表現できたということです。人の話し声や笑い声、泣き声、犬猫や鳥の声を自由自在に出してみせて周りの人々を驚かせたそうです。しかし自分の音楽には非常に厳しい人で、決して自分の演奏に満足をしたことがなかったといいます。

天才の霊感は、新しい音楽のためのいろいろな創意工夫を生み出しました。「ニ泉映月」(視聴のページ)で道教音楽を取り入れて、従来よりも太い弦を使用したのもその一つです。当時の弦は糸でしたから今の弦よりもずっと制御が難しく雑音も出やすいのです。それなのに、彼が弾いた太い糸の二胡は少しも雑音がなく、重厚で力のある音色だったといいます

新中国成立後まもなく、彼は急死しました。惜しまぬ人はなかったそうです。





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