祈り会・金曜集会 2018年11月7日・11月9日『良い知らせは苦しむ人々にこそ』

イザヤ書61編1~11節

担当:吉田真司牧師

☆ 御言葉から受ける最初の印象を分かち合ってみましょう。

 

 

 

 

 

☆ 理解の手掛かりとして

本日の箇所を理解するために、第三イザヤ(56-66章)の歴史的背景についてもう少し詳しく触れていきましょう。

第三イザヤの預言が語られた時代は、紀元前539年のペルシャによるバビロニア捕囚解放後の時代に属します。ユダヤ人の祖国帰還と神殿再建を許可するペルシャ王キュロスの勅令が出され、第一回帰還民が祖国に向かったのは翌538年のことでした。しかし多くのユダヤ人は、半世紀を超えるバビロニアでの生活を捨て、荒れ野をよぎって荒廃の祖国に戻ることをいとい、むしろバビロニア・ペルシャ領内に留まることを選びました。

それに対して少数の帰還民は、帰還後神殿再建の事業に着手しますが、生活の逼迫と、ユダヤ残留民との対立、そしてユダヤを属国としていたサマリヤ人の妨害にあって、いったんこの事業の中断を余儀なくされました。

これに再び着手したのが、ゼルバベル(かつてのユダ王国のヨヤキム王の孫)と、大祭司ヨシュアであり、紀元前520年のことでした。またこの再建事業を預言によって背後から推進したのが、ハガイ、ゼカリヤの両預言者でした。そして、こういった人たちの指導に基づいて五年の歳月を経て紀元前515年、待望の第二神殿は完成するに至りました。

ここに祖国復興の精神的礎はなったはずでしたが、ゼルバベルによるメシア王国の到来というハガイ・ゼカリヤの預言(ハガイ2:20以下、ゼカリヤ4:1以下)は結局成就せず、神殿を中心とする新しい救済の時代は到来しませんでした。ゼルバベルはその後歴史の表から姿を消します。ユダヤの系統を引く彼は、ペルシャの政策変更によって地位を退いたものと考えられています。

そうして夢破れたユダヤの民は、政治的にサマリアその他の近隣地域に依存しつつ、細々と生き延びて行くだけでした。第三イザヤの預言は、このような神殿再建をめぐる熱い期待、そして反動としての深い失望を背景として語られていきます。

さて、今課テキストの1-3節は第三イザヤの預言者としての召命記事です。この61章は第二神殿完成の515年あたりに語られた預言のようです。

第三イザヤは、捕囚の地から荒廃の祖国に帰還したイスラエルの民すべてに向けて〈救済の希望〉を告知します(60章)。60章では救済を告げられるのは「あなた」という一人称。それはあたかも「イスラエルの民全て」を一人の人格として、「すべてが救われる」と言っているかのようです。

しかし「既に第二イザヤの許で同種の救済預言が語られ、しかしそれが成就しないという失望を味わっていた民は、半信半疑の反応しか示さなかった。・・・民の多くが半信半疑の反応しか示さない情況にあって、・・・救済預言はなかんずく《貧しい人》・《打ち砕かれた心》云々に宛てられている。・・・不毛な懐疑に低迷する帰還民に、信仰への決断を促す迫りでもあった」(『新共同訳 旧約聖書注解Ⅱ』)との指摘は、なぜ主イエスがこの箇所を引用なさったのか、その理由が分かる気がします。

《ルカ福音書4章16-30節を読む》

福音書が記す多くの場面にて、主イエスの言動は理解されず、排斥されました。一方で、主イエスの言葉に救われていったのは、貧しき者、罪人たちでした。まさに「心の貧しい人々」(マタイ5:3)「悲しむ人々」(5:4)「義に飢え渇く人々」(5:6)でした。そして彼らの救いを通して、「不毛な懐疑に低迷する『ユダヤ人』に、信仰への決断を促す迫り」をなさったのだと思います。

以上の考察や、「かつては感動と喜びでもって聞くことができた神さまの約束の言葉も、時が経つ内にそんなふうに聞くことができなくなったのだと思います」(青年成人科「『おはなし』を受けて」)を読み、私たち自身が、み言葉への感動を日常とし、心の芯から主の救い(助け)に揺るぎない信頼を置き、期待しているか、つまり真実な信仰に生きているか、と問われる思いがします。

そういう意味で、神殿の再建とは、信仰の再建なのです。パウロはこう言っています。「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか」(Ⅰコリント3:16)と。主イエス・キリストによって成就する「今日」(4:21)の救い(自由と解放、慰めと喜び)を共に賛美しましょう。

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