水曜祈り会 9月19日 『サムソンは士師』

士師記 15章9節〜20節

● 御言葉から受ける最初の印象を分かち合ってみましょう。

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● 理解の手掛かりとして

14章においてサムソンはペリシテの女性と結婚しましたが、その祝宴の席で、ペリシテ人との関係を悪くしてしまいました。それで、一旦自分の町へ引き上げます。それにより彼の妻は結婚式の付添人の友人のものとされました。

しばらくしてサムソンは、妻のことを思い出して再び彼女の家に向かいます(15:1)。しかし時すでに遅く、妻は別の男性のもとに嫁いでおり、父親は妹の方をあらためて嫁にしてはどうかと提案します(15:2)が、サムソンは、このことに納得がいかず、それをペリシテ人の悪意と捉えて、復讐心を燃やすのです。

サムソンは三百匹ものジャッカル(山犬)を捕らえ、一組ずつ尾と尾を結び合わせ、その結び目に火のついた松明を挟んで、ペリシテ人たちの畑に放ちました(15:4)。時は「小麦の収穫のころ」(15:1)、畑という畑が燃えてしまいました(15:5)。

これによってサムソンとペリシテ人の関係はさらに悪化します。焼き討ちにあったペリシテ人は、犯人のサムソンを怒らせたティムナの父親に罪があるとみなして、元妻と父親を家ごと焼き払って報復を果たしました(15:6)。

すると今度はサムソンがこれに報復を誓って(15:7)、蛮行に及んだ者たちを徹底的に打ちのめします。これによりサムソンはペリシテとの対決姿勢を決定的にしてしまいましたので、もはや人里には住まず、エタム(特定場所は不明だが、ユダの領域)の岩の裂け目に住むのです(15:8)。

「我々がペリシテ人の支配下にある」(15:11)とあるように、ペリシテに主権を奪われている時期のこと、ユダの人々から、「なんということをしてくれた」(同)というクレームが生じます。するとサムソンは自らユダの人々の手に身柄を委ねて、ペリシテのもとに送られます。「新しい縄二本」(15:13)で縛った、という記述は、サムソンの怪力を封じ込める意味でしょう。

レヒ(あご骨)と呼ばれる場所で身柄の引き渡しがなされ、ペリシテ人は歓声をあげます(15:14)。ところが、そこで「主の霊」を激しく受けたサムソンは、新しい縄二本をものともせずに引きちぎり、足元にあった「真新しいろばのあご骨」(15:15)を拾い上げ、それを武器にしてペリシテ人の兵千人を倒したのです。この事件は、そのまま「ラマト・レヒ」(あご骨の高台)という地名として人々の間で語り継がれることになります。

ここまで読むと、人間の身勝手、そこから生じる暴力と暴力、そして最終的に勝利する最たる暴力(サムソンの怪力ぶり)が印象に残ります。

しかしそれに続く17-19節の記事を通して、読む私たちに、全く異なる印象が与えられます。それは「まことの力は主にある」ということです。サムソンは、レヒでの奇跡的な勝利の後、その余韻に浸る間もなく、ある行為を取りました。それは「祈り」です。

その祈りは、戦勝への感謝というよりも、渇いた喉を潤すための水を求めての祈りでした。神が岩場を砕いて水を吹き出させた出来事は聖書に何カ所か記されています。それによって命が救われていくのです。サムソンの怪力ぶりが甚だしければ甚だしいほど、ここで見せる弱々しさは印象的です。

ここに、一人で千人を打ち倒すほどの怪力サムソンであってさえも、屈服すべき主がおられること、命の源、救いの源を指し示すメッセージがあります。驚くべきは、主の力です。

「疲れた者に力を与え、勢いを失っている者に大きな力を与えられる。・・・主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。」(イザヤ40:29、31)

「わたしは疲れた魂を潤し、衰えた魂に力を満たす。」(エレミヤ31:25)

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