水曜祈り会 2月14日 『神は何でもできる』

ルカによる福音書 10章17節〜27節

● 御言葉から受ける最初の印象を分かち合ってみましょう。

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● 理解の手掛かりとして

「永遠の命」(10:17)について尋ねる者とイエス様が出会われるこの場面、共観福音書(マタ井、マルコ、ルカ)はいずれも記しています。マタイ書は尋ねる者を「青年」(19:20)と、ルカ書は「ある議員」(18:18)、そしてテキストのマルコ書では「ある人」(10:17)と記しています。

いずれにしても彼は「たくさんの財産を持っていた」(マタイ19:22、マルコ10:22)「大変な金持ちだった」(ルカ18:23)、すなわち「富める者」でした。

この「富める者」の関心は「永遠の命を受け継ぐ」ことにありました。これに関して「『永遠の命』は・・・共観福音書によくみられる用語『神の国』(15、25節)の同義語であり、また、『救われる』(26節)の同義語でもある」(『現代聖書注解 マルコによる福音書』296頁)とは、〈永遠の命〉の理解を深める指摘です。

そう考えると、テキストの前段落の「はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」(10:15)にある「子供のよう(な者)」とこの「富める者」とが対照的に映ります。

さて、この「富める者」に対するイエス様の応答は、まず「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない」(10:18)との言葉でした。これは先んじて彼が「善い先生」(10:17)とイエス様に呼びかけたからです。

「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない」・・・なぜイエス様はこう仰ったのでしょうか?・・・この質問に関する私なりの理解は末尾に記します。

イエス様はそれに続いてモーセの十戒から、その後半部分(第5戒〜第10戒)を示し、それが「永遠の命を受け継ぐ」秘訣であるかのように示されます。するとこの「富める者」はすぐさま応答します。「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました。」

この応答の仕方に、彼、すなわち「ある人」「青年」「ある議員」という存在を通して映す「選民イスラエル」の姿が見えます。彼(彼ら)イスラエルには律法を守ってきた自負があります。「そういうことはみな守ってきた」との自信、神との契約、律法を与えられた民としての誇りです。

この誇りは、往々にして傲慢さとなり、他の人々、すなわち律法を守れない「罪人」、それが故の社会的弱者、また異邦人に対する優越感となっていたのではないでしょうか。

「イエスは彼を見つめ、慈しんで」(10:21)とあります。このまなざしは、まさにアブラハムを祖として神がお選びになったイスラエルの民に対する「慈しみ」と重なります。御子イエス様のまなざしは父なる神様のまなざしだと思うからです。その「慈しみ」は、愛するが故のものであり、しかし同時にそれは「悲しみ」も含んでのお気持ちだと思います。

イエス様は言われます。「あなたに欠けているものが一つある」(10:21a)と。・・・その欠けているものとは、貧しい者、すなわち優越感の対象としていた人々に対する「施し」(10:21b)でした。「施し」と言っても、単に「財産」を分配する、という話に留まらず、それは自らを偉いものとなさしめている心を手放す、ということではないでしょうか。もっと言えば「心の貧しい者」(マタイ5:3)となる、ということです。また前の段落との関連で言えば「子供のように」(マルコ10:15)なる、ということです。

しかし、それが甚だ難しいのです。事実彼「富める者」は「悲しみながら立ち去った」(10:22)のでした。そしてその姿は、イエス様(神の国)の到来を拒絶するイスラエルの民の後ろ姿のように見えます。

その神の前に小さくなれないままの彼(彼ら)の問題は、自らの行いによって自らを救いうる、と考えたところにあります。だから「何をすればよいでしょうか」(10:17)という問いになるわけです。

しかし、そこに留まる限り、神の国は遠いのです。永遠の命、救いも遠いのです。「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」(10:25)のです。いわば、人間の力ではあり得ないのです。

イエス様は言われます。「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ」(10:27)と。ここに福音があります。人間の救いは、人間が引き寄せるものではなくて、ただただ神の御業なのです。

そこで、最初の質問に戻ります。「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない」・・・なぜイエス様はこう仰ったのでしょうか?・・・という質問です。私は、これに関して、イエス様がまさに「我こそ神の子なり。あなたはそれを知った上で、そう呼んでいるのか?」と問うておられるように思います。

さて、テキストの範囲を超えて少し先まで読むと、要約すると、イエス様が弟子たちに「すべてを捨ててわたしに従え」と仰っています。そして最後にこう言われるのです。「先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる」(10:31)と。

ここに至ったときに、先に展開した解釈の根拠を見いだします。これはすなわち「先にいる多くの者」とは選民イスラエルであり、「後にいる多くの者」とは「罪人」や異邦人たちだからです。そして実際に、イエス様の福音はそのようにして広まっていったのです。

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