祈り会 6月5日 『キリストが伝えられている喜び』

フィリピの信徒への手紙 1章12節〜30節

● 御言葉から受ける最初の印象を分かち合ってみましょう。

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● 理解の手掛かりとして

使徒パウロはその生涯において、劇的な回心を経験し、その後全く新たにされた自分を引っさげて、3回にわたる伝道旅行へと出掛けて行きました。彼は、全く一所に安住することをせず、福音を携えてアジア、ヨーロッパを旅したのです。

その使徒パウロのヨーロッパにおける最初の教会設立は、ギリシャ北部の東マケドニア地方の有力な都市であったフィリピにおいてなされました。そのフィリピ教会宛に、パウロは少なくとも二通以上の手紙を書き送ったと言われています。「フィリピの信徒への手紙」は、そのうちの2、3通の手紙がまとめられた形で聖書に収められている、と考えられます。

この手紙は読む者にとても大きな信仰的励ましを与えてくれます。使徒パウロは、果たして一人の人間がこれだけの苦労に耐えられるのだろうか、と思うほどの苦労をその人生で経験しました。その究極の苦労人パウロが語ってくれる、投げかけてくれる言葉、だからこそそれが力と感じるし、励ましとなるのです。

このフィリピの信徒への手紙、この手紙に一貫して流れているトーンは「喜び」です(『聖書教育』概論15頁参照)。パウロの心には常に喜びがありました。でも、彼は獄中、囚われの中で書いているのです(投獄先はローマが有力。近年ではエフェソ説もある)。そういう意味では大変不自由な身です。喜びどころか、苦しみに対する後ろ向きな言葉が出てきても、それが普通です。

でも、彼は喜んでいます。なぜ喜べるのでしょうか。それは、その肉なる苦しみが決して無駄でないことを知っているからです。その苦しみが、他でもなくキリスト・イエスに従う故に受け取る苦しみであって、それを通してキリスト・イエスの栄光が表わされることを知っているからです。

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです」(1テサロニケ5:16-18)・・・この「いつも」「絶えず」「どんなことにも」という言葉の意味について考えさせられます。

「兄弟たち、わたしの身に起こったことが、かえって福音の前進に役立ったと知ってほしい」(フィリピ1:12)――この「福音の前進」ということこそ、福音の使徒として召されたパウロにとって生涯のテーマでした。彼の生涯は、まさに「福音」にとらえられた生涯、そしてその「福音の前進」そのためにのみ捧げ尽くした生涯でした。

しかし彼を取り巻く状況は大変でした。おそらく、パウロが捕えられ投獄されたという情報は、フィリピの教会の人々にも、深い衝撃を与えたことでしょう。パウロの投獄の知らせは、教会の人々に「福音」の停滞、敗北、後退として受け止められても不思議はありません。そう受け取ったフィリピの教会の人々がいたことがこの「手紙」の書かれた理由の一つでもありました。

けれども「神の言はつながれていない」(第二テモテ2:9)―――たとえそれが投獄という悲観的な出来事を通してさえ福音(神のことば)は「前進」するのです。だから彼はいついかなる時も、喜ぶことが出来るのです。

「わたしが監禁されているのはキリストのためであると、兵営全体、その他のすべての人々に知れ渡り」(1:13)とあります。彼の経験全てが「キリストのため」、そしてそのキリストが知れ渡ること、ここに彼の喜びがありました。

パウロは、いま、獄中にあって、いつ刑場に引き出されるか分からない状況に置かれています。そしてその日、つまり「死」は、いつか、確実に、そして突然に訪れてくるであろうことも予感していたのではないでしょうか。「一方では、この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており、この方がはるかに望ましい」(1:23)とあります。それほど彼の現実の苦しみは大きく、辛いものだったのでしょう。

パウロの心は、そのキリストと共なる交わりと、なおこの地上にあり(福音の前進/信徒の信仰のために)「肉にとどまって働く」ことの必要との間で揺れ動いています。「この二つのことの間で、板挟みの状態です」(1:23)と言っています。

そしてパウロは、選択するのは自分ではなくて神であるのを知り、自分がやりたいことを言い表すのではなくて、神がして欲しいと望まれることを選びとっていくのです。この姿勢に学びたいと思います。パウロは徹底的に「自分本位」ではなく、「神(キリスト)本位」に生きるのです。

「ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい」(1:27)―――キリストの福音にふさわしい生活とは何でしょうか。それはパウロのように、いかなる反対者に遭おうともたじろがないこと、そしてそのために苦しむことがあっても、それも「恵み」として受け取っていくこと、・・・なかなか大変なことですが、「キリストのための苦しみは『恵み』」と言われると救われる思いもしませんか。

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