祈り会・金曜集会 11月8日・10日『キュロスを用いる神』

イザヤ書44章24節-45章1節

担当:吉田真司牧師

☆ 御言葉から受ける最初の印象を分かち合ってみましょう。

 

 

 

☆ 理解の手掛かりとして

今課の『聖書教育』の主題は「キュロスを用いる神」です。確かに、この部分はバビロンを退け台頭したペルシャの王キュロスによる解放(エルサレムへの帰還と神殿再建)の預言です。

関心としては「キュロスとは何ものか」という点に向くかもしれませんが、大切なのはその背後にあってキュロスを動かし事を成される「神」ご自身であり、そのお力です。

今回私が注目したのは、<主の言葉と実現>です。今課のテキスト最初(44:24)と最後(45:1)の両節に「主はこう言われる」と出てきます。この言い回しは旧約聖書の預言書の中で実に191回も頻出します。中でもエレミヤ書が最も多く131回です。そしてこのイザヤ書でも19回出てきます。

その内の二回が今テキストにあるのですが、しかしそれに挟まれた部分を読むと別の言い方で、すなわち「・・・と言い」(44:26、27、28)「・・・と言う」(44:26、27、28×2回)という表現が繰り返されています。そしてそれらの主語は当然に<主>です。

当たり前のことですが、預言者とは彼自身の言葉を語るものではなくて、主なる神の言葉を預かり告げる者です。エレミヤ書の中に「主はこう言われる」という言い回しが191回も頻出することを確認し、その頻出度合いに驚き、またあらためて預言者としてのエレミヤの信仰を確認させられましたが、その信仰はイザヤ書全体、もちろんこの第二イザヤ書においても同様です。そしてそれが故に<預言書>であるのです。

「預言」とは「予言」とは異なります。「予言」が未来のことを指すのに対して、「預言」は未来も含みつつ現在そして過去の出来事も含みます。つまりは歴史を一貫して支配しておられる神の御業について告げるのが預言者の仕事です。

そしてそれは同時に、神ならぬ者に対する「否!」を明らかにすることです。25節にある「むなしいしるしを告げる者」とか「占い師」、あるいは「知者」とは、神ならぬ者たちです。いずれも「バビロンの占星術者たち」(『聖書教育』解釈のポイント)を指しています。彼らの賢さや巧みな弁舌に惑わされること多かったのでしょう。しかし彼らの言葉は主によって退けられ、そして主の言葉のみが成っていくのです。

そもそも、その歴史の初めはどの様にして成ったか、今ある世界の大前提について24節後半でこう言っています。「主はこう言われる。わたしは主、万物の造り主。自ら天を延べ、独り地を踏み広げた」と。その天地万物の創造主なる神が、何を成し得ないことがあろうか、そのような前提に立って、これから起こされることに関する<主の言葉>を告げるのです。

その内容に触れる前に、今テキストの前にある44章6~8節を読んでおきましょう。☞44章6~8節。

ここにある「わたしをおいて神はない」(44:6)「わたしをおいて神があろうか」(44:8)との言葉が、当時のイスラエルの民の置かれていた状況、他の神々(偶像)に心引っ張られる危機たる状況を表わしています。そしてそれは彼ら/彼女らの心に、主なる神に対する信頼が弱まっていた裏返しでもあります。

しかし考えれば半世紀(50)にも渡り異国で囚われの身だった彼らです。信仰の拠り所たるエルサレム神殿、そのユダの町々の廃墟ぶりは、彼ら/彼女らから神への期待を弱め、また失わせたとしても不思議ではありません。

しかしそんな「誰もがあきらめていたその間」(『聖書教育』解釈のポイント)に、第二イザヤは雄々しく主の言葉を告げるのです。「エルサレムに向かって、人が住み着く」(44:26)「ユダの町々に向かって、再建される」(同)「わたしは廃墟を再び興す」(同)「エルサレムには、再建される」(44:28)「神殿には基が置かれる」(同)と。

「そんなことあるものか!」という内心の声がイスラエルの民から聞えて来そうですが、しかしそう言われる主は、あの出エジプトにおいて海を二つに分けなさったお方でした。「イスラエルの人々は海の中の乾いた所を進んだが、そのとき、水は彼らの右と左に壁となった」(出エジプト14:29)とある通りです。今テキストの27節はその歴史的出来事を想起させられます。☞イザヤ44:27

その主エジプトならぬ<出バビロン>の計画が起こされようとしている、その大いなる預言です。そして主なる神は、その言葉を歴史になさるため、つまり実現・成就なさるために、キュロス王を用いなさるのです。彼は「わたしの牧者」(44:28)「主が油注がれた者」(45:1)と呼ばれています。いずれも尊称です。異邦の王をそのように呼ばれるのが不思議に思いますが、しかしそれも主の御心、そして主の御計画のために用いられる人物なのです。

最後に、今テキストのはじめの24節にある「あなたの贖い主」について触れます。贖いとは、文字通りには、借財の完済、そして元の所有者に戻されることです。つまり罪ゆえに、他の所有となっていたイスラエルの民が、元の所有者(主人)たる神のもとに連れ戻されること、です。そしてそのことを成すのは、他でもなく主ご自身なのです。

この「贖い主」への待望、キリストの誕生を待ち望むアドベント(待降節)を前にして、この第二イザヤ書を学ぶ意味がここにもあります。

Copyright (C) 2017 Japan Baptist Sagami Chuo Christ Church. All Rights Reserved.