1998年2月17日 作成
クロム公害問題の経緯
<第一期>
1915〜1974年、日本化学工業が操業してから60年間、六価クロム鉱さいを有害と知りながら投棄しつづける。この間、従業員には、肺ガンによる死者や鼻中隔穿孔などの労働災害が発生し、地域住民の中にも健康
被害を訴える人も多く、死亡者も出た。
1972年
都の都市計画局と交通局は、再開発事業用地および地下鉄用地を大島9丁目の日本化学工業所有地27,343u
を購入した。(現「わんさか広場」)
1973年
地下鉄工事のボウリング調査で地下鉄用地に六価クロム鉱さいがあることが判明。
1974年
日本化学工業、小松川工場を山口県徳山に移転。
1975年
住民の調査により、再開発事業用地にクロム鉱さいがあることが判明し、社会問題となる。連日、クロム問
題が新聞で報道される。都は、小松川工場跡地と知りながら買収。日本化学工業は、韓国の蔚山に工場を移
転。
1977年
クロム問題をきっかけに「廃棄物の処理と清掃に関する法律」が改正される。
六価クロム鉱さいは、1.5PPM以上は遮断型の処分場へ、それ以下は管理型の処分場へ処分することが法律で義務づけられる。
1979年
「鉱さいの土壌処理等に関する協定」が都と日本化学工業の間で成立する。
内容:日本化学工業小松川工場跡地(風の広場)に1000PPM以上の鉱さいを運び、1000PPM以下は「汚染土」として還元剤と混ぜ、現地で処理する。
1986年
都は、日本化学工業とグランド跡地(わんさか広場)について争っていたが、この年、和解。
1986〜1990年
小松川工場跡地(風の広場)の処分工事が進む。しかし、満杯になり、第2処分場を探すが、見つからず、13600m3をグランド跡地に盛り土し、現地処理を始める。
<第二期>
1991年10月、風の広場オープン」
1992年
6月、「風の広場」の側溝から高濃度の六価クロム汚染水が検出され問題となる。
10月、「公園のクロムを考える会」結成。「廃棄物処理法」に基づく処理を要求。
1993年
10月、大島9丁目の中学校予定地を急に公園予定地に変更し、クロム鉱さいの新処分場とすることを決定。
住民の反対があっても着工すると明言。住民には寝耳に水で住民説明会が紛糾。11月16日と1月6日と再度の説明会が住民の要求で開かれるが納得できる説明はない。
1994年
2月、住民の反対の中、工事着工される。
4月、住民86名が原告となり工事差し止めと、違法な廃棄物処分場の建設に訴訟を起こす。
1994年江東区東砂障害者施設建設予定地より、新たなクロム鉱さいが発見される。
1995年江東区は、溶融還元して福島県会津の管理型処分場に処分。その費用は区民の税金で支払われる。
1996年
7月、江東区東砂のマンション建設現場から千葉県に運ばれた建設残土から六価クロム鉱さいが発見され、新たな汚染を引き起こしていることが発覚。知らないうちに汚染がさらに拡大していることが懸念され、放置した都、区(区民)の責任は重大。
1996年
大島新処理地の地裁判決が出る。正規の手続きはなかったが実質的な許可があった。とか、有害廃棄物であるクロム鉱さいが処分場の工事で土壌中と一体化し、都の所有物となったとか不可解な判断で不当な判決が下されました。現在、控訴中。
1996年
クロム鉱さいを汚染者負担により処理するシステムを作らないと汚染が闇の中で拡大することを心配し、汚染した企業が知らないふりを決め込み、住民に尻拭いを押しつけることに怒りを感じて、「東砂障害者施設六価クロム処理費用返還訴訟」を76名の住民が提訴。
1996年8月、風の広場の表面土壌からとうとうクロムが検出(都の調査)。いまだに対策がたてられず、公園は子供たちが利用しつづけている。今後、さらに漏出が進むと考えられ、不安が広がる。