<名城探訪(2)>

松本城

2002年4月7日午前に松本城(長野県松本市)で撮った写真です。

インデックス

@太鼓門枡形 A二の丸御殿跡 B黒門枡形 C本丸御殿跡 D天守閣 E月見櫓 F埋の橋 G内堀前 H日本民俗資料館

松本城探訪マップ

@太鼓門枡形

太鼓門枡形と二の門(高麗門) 一の門(櫓門)

 松本城探訪の最初は、1999年(平成11)3月に復元された太鼓門からはじめたい。松本市役所前から、外堀を渡るとまだ新しい二の門(高麗門)がある。それをくぐると太鼓門枡形に入り、正面石垣に高さ約4m、周囲約7m、の巨石が組み込まれているのがわかる。これが、玄蕃(げんば)石で築城工事の際、あまりの巨石(重量22.5トン)のため運搬人が不平を訴えたところ、玄蕃頭康長は、その運搬人の首をはね、首を槍先に刺し、叱咤激励して運ばせたので、玄蕃石と名前がついたという。その上に、石垣をまたいで建つ一の門(櫓門)は、総間口約10m、桁行9間、梁間5間の堂々としたもので、屋根は本瓦葺きとなっている。櫓門の右手の北石垣の上には太鼓楼があり、太鼓と半鐘が置かれ、様々な合図が打ち鳴らされていたので、この門の名称になったとのこと。しかし、1871年(明治4)12月末に取り壊され、石垣までもが崩されていたのを、松本城の保全と史実に基づく復元整備の一貫として、太鼓門跡の発掘調査と石垣の改修から着手された。それが、1970年頃から徐々に整備され、128年の時を越えて、みごとに蘇ったのだ。


A二の丸御殿跡

二の丸御殿跡から天守閣東面を望む

 太鼓門をくぐり、右手に進むとそこが二の丸御殿跡で、1978年(昭和53)までは松本地方裁判所の堂々とした建物が建っていた。それが、郊外に移転してからは、全面発掘が行われ、公園化されて平面標示による建物位置が示されている。ここにあった二の丸御殿は、城主の居館と正庁だった本丸御殿が、1727年(享保12)に焼失してから機能が移されたもので、以後、明治維新まで藩の正庁だった。廃藩置県後もここが県庁となり、筑摩県の中心官庁となったものの、1876年(明治9)6月19日の不審火によって焼失したとのこと。ここから見る天守閣も北アルプスを背景にしてなかなかすばらしい。


B黒門枡形

黒門枡形前から天守閣を望む

 二之丸御殿跡を後ろにして、内堀沿いに大きく回り込むと、黒門が見えてくる。さらに、内堀を渡って二の門(高麗門)をくぐり枡形にはいるとそこに、料金所があり、これより内側は有料となる。ここは、本丸の正門で、松本藩では本丸御殿が奥書院(黒書院)であり、その入口にあたるので黒門と称したという。この枡形門は一の門(櫓門)とニの門(高麗門)から構成され、明治以降に取り壊されていたものの、一の門は1960年(昭和3)に復興され、二の門と袖塀は1989年(平成元)12月1日に復元され、黒門枡形として蘇った。この前から見る天守閣は、内堀と北アルプスを撮し込み、絶好の撮影ポイントである。


C本丸御殿跡

本丸御殿跡から天守閣東面を望む

 黒門をくぐると、左手に天守群が林立し、広々とした芝生空間がある。ここが本丸御殿跡で、二の丸御殿、古山寺御殿とともに石川数正・康長父子時代に造営されたと考えられている。総坪数905坪(約3,000u)、総畳数1,560畳の広大な本丸御殿は、1727年(享保12)閏正月元旦焼失し、機能は二の丸御殿に移され、再建されることなく明治維新を迎えた。その後、農事試験場、松本中学校の校庭などいろいろと利用されてきたが、今日では芝生の庭園となり、御殿跡の輪郭が平面復元標示されていて、その大きさを知ることができる。そこには、清正公駒つなぎの桜というのがあるが、加藤清正が松本城に立ち寄った際、城主石川康長が二頭の駿馬のうち良いほうを進呈するといったところ、清正は二頭とも貰い受け、その時に馬をつないだのがこの桜の木だと伝えられている。また、一角には小笠原牡丹が植えられているが、こんな言い伝えが残されている。「武田信玄に追われた小笠原長時はこよなく牡丹の花を愛し、花が敵兵に踏み荒らされるのを憂いて近くの寺に託して城を去った。」それをもとに、約400年余後の1957年(昭和32)年に月見櫓の前に株が移され、毎年5月末には白い大輪の花が咲いているという。しかし、ここから見る天守群の眺めは実にすばらしい。5層6階の大天守を中心に、3層の乾小天守を渡櫓で連結し、さらに2層の辰巳附櫓と1層2階の月見櫓を複合している。そして、バックに北アルプスの山々が連なり、その均整のとれた美しい姿を引き立てている。天守閣の外壁は各層とも上部は白漆喰で、下部は黒漆塗りの下見板で覆われていることから、別名「烏城」とも称されている。これらのみごとな天守群は、国宝に指定されている4天守閣の一つである。


D天守閣の眺望

天守閣から北アルプス(西方向)を望む 天守閣から本丸御殿跡と美ヶ原(東方向)を望む

 天守群へは、本丸御殿跡を真っ直ぐ西へ突き進んで、渡櫓の下から入る。この天守の完成年代は諸説あってはっきりしないが、1597(慶長2)年頃、石川康長によるものと考えられている。5層6階の大天守は二重の渡櫓によって、3層の乾小天守と連結され、東に2層の巽附櫓と月見櫓を伴う、見事なL字型の連結複合式天守だ。屋根は寄棟づくりで、各層に千鳥破風や唐破風が見られ、窓は少な目となっている。城としては、1504年(永正元)、島立貞永が築いた深志城がそのはじまりだったが、1550年(天文19)、武田信玄によって落城している。その後、武田氏がこの城に城代を置いていたが、1582年(天正10)、勝頼の代になって織田信長に滅ぼされた。それからの深志城は信長の城代がおかれていたが、本能寺の変によって信長が倒れてからは小笠原氏が入り、小笠原貞慶のとき城の名を松本城と改めた。豊臣秀吉の時代になって、石川数正が入封し、現在の松本城の築城にとりかかり、1598年(慶長3)、主要部分が完成した。関ヶ原合戦以降は、小笠原秀政が入封し、江戸時代になって戸田氏、松平氏、堀田氏、水野氏と城主が変遷した。しかし、1726年(享保11)、戸田氏が入封して以後は安定し、廃藩置県を迎えたのだ。その後、売却・破壊や倒壊の危機を市川量造、小林有也などの先達の尽力によって守られ、戦後の昭和の大修理により、天守群は解体修理されて蘇った。以降、城跡の復元工事が順次進められている。天守閣内部に入れば矢狭間や鉄砲狭間、石落し、武者走などの実践的な造りが注目される。天井の小屋組も太く、柱は釿(ちょうな)削りで荒々しく、格子窓から射し入る外光が明と暗を演出し、400年前の戦乱の時代の雰囲気が感じ取れる。天守は、階を登るに従って、急勾配の階段となってくるのは、防御を考えてのことか...。4階に上ると御座所があるが、有事の際に城主の居所として設けられたものという。最上階(5階)は後世の天守閣のように廻り縁がなく、防御を考えて、窓も小さくなっている。観光的には眺望するのに不便だが、これも戦乱の世の時代を反映したものだ。大天守最上階から西方向には、内堀越しに北アルプス連山、東方向には、本丸御殿跡のバックに美ヶ原等のすばらしい山並みが眺望でき、しばし、一国一城の主の気分に浸ることは出来る。


E月見櫓の眺望

月見櫓から内堀と北アルプスを望む 月見櫓から本丸御殿跡と美ヶ原を望む

 大天守から下りてきて、巽附櫓を通り抜けると月見櫓だ。寛永年間(松平直政時代)に、3代将軍徳川家光の善光寺参詣が計画され、将軍を迎えるために松本城を増築したと伝えられている。そのおりに月見櫓が造られたとのことだが、将軍の訪問は実現しなかったと聞く。開放的な造りで、三方が吹き抜けとなっていて、眺望が良い。大天守や小天守の造りに比べて、防御性がなく、戦乱の収まった安定した時代の建築様式だ。朱塗りの回縁や、刎(はね)高欄を巡らすなどの意匠を凝らし、天守群の姿に、美的ポイントを加えている。ここから眺める月はすばらしいとのことだ。


F埋の橋

埋の橋から望む天守閣

 

 天守群を出て、北へ進み、埋門の跡を抜けると、内堀に朱塗りの橋が架かっている。この橋は、昭和25年から30年にかけて行なわれた昭和の大修理完成の際、昔の絵図にあった位置に架橋したもので、1955年(昭和30)9月末に完工したとのこと。埋門の名に因んで、埋の橋と命名されている。ここから、内堀と埋の橋を撮し込んだ天守閣の姿は美しく、絶好の撮影ポイントともなっている。


G内堀前

天守閣西面 天守閣南西面
天守閣南面 内堀前から望む北アルプス

 埋の橋を渡って、内堀に沿い、松本城の二の丸西側にあたる一帯が、松本城公園だ。園内には、松や桜、藤等の各種木々が植栽され、内堀には鯉が泳ぎ、白鳥や鴨なども遊んでいる。花見の時期や紅葉の季節は多くの人でにぎわうという。ここから、内堀越しに眺望する天守群の勇姿は、白と黒のコントラストがすばらしく、月見櫓の朱塗りの回縁が色を添えていて、実に美しい!西面、南面と角度を変えて、その美を堪能してみたい。また、内堀越しに北アルプスを眺めてみても良い。


H日本民俗資料館

日本民俗資料館前から望む天守閣 日本民俗資料館

 松本城公園から東へ歩くと、日本民俗資料館(松本市立博物館)に突き当たる。パンフレットによると、ここの前身は1906年(明治39)に松本尋常高等小学校(現在の重文旧開智学校)内に設けられた戦役紀念館にさかのぼるとのこと。1952年(昭和27)に、県下初の博物館法による登録を受け、1968年(昭和43)に「日本民俗資料館」として開館、今日に至っているという。民俗・歴史・美術・自然(山岳)・時計の5つの展示部門から構成される総合博物館として約92,000点の資料を収蔵し、約1,500点の資料を常設展示しているとある。中に入ってみると、かなり大きな展示スペースを持っていて、1階の歴史コーナーには、松本城下町の復元模型や松本藩関係の資料、武器や武具、絵図なども展示してあり、松本城探訪の参考にもなる。2階には、信州の自然や本田コレクション(古時計)、地階には松本とゆかりの深い作家の美術品展示、企画展示コーナーもあって充分楽しめる施設だし、松本城見学との共通券となっているので、立ち寄ってみない手はないだろう。

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