
<名城探訪(4)>
伊予松山城
2002年11月2日午後に伊予松山城(愛媛県松山市)で撮った写真です。
インデックス
| @本丸南曲輪 | A本丸南部 | B天守曲輪 | C本丸北曲輪 | D坂道 | E二之丸史跡庭園 | F三の丸水堀 |
| 伊予松山城探訪マップ |
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| B天守曲輪詳細図 |
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| 戸無門(現存)と太鼓櫓(復元) | 筒井門(復元) |
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| 隠門(現存) | 本丸南曲輪より見た筒井門(復元) |
伊予松山城の探訪は、東雲口から城山ロープーウエイ・リフト(大人片道260円・往復500円)に乗って行きたい。長者ヶ平まで、ロープーウエイなら2分、リフトなら5分で運んでくれる。駅から歩きはじめると、揚木戸門跡を過ぎたところから、右手に本丸の高い石垣が続いている。そこを大きく回り込んで、大手門跡から右手に石段を登っていくと、前方にみごとな高石垣があらわれ、その上にある太鼓櫓とが美しい構図をなしている。その後方に天守群が姿を見せ始める。そこを、ヘアピンカーブのように折り返して上っていくと、国指定重要文化財の戸無門がある。まさに、名前のごとく戸がなく、敵を誘い込むための作為と言われている。高麗門形式で、軒は一重、本瓦葺となっている。建築年代ははっきりしないが、寛永〜正保年間(1624〜1647年)の建立ではないかとのこと。門をくぐって左手に曲がると、そこが筒井門前腰曲輪だ。この筒井門は、脇戸附の櫓門で、慶長年間、松山城築城に際し正木城(伊予郡松前町)から移されたとの伝承がある。1935年(昭和10)、旧国宝に指定されたが、1949年(昭和24)2月に、放火で焼失した。しかし、1967年(昭和42)から翌年にかけて石垣の修復を行い、1971年(昭和46)3月に櫓門も復元されたのだ。実は、この門の右手石垣裏に隠門と続櫓(国指定重要文化財)がある。これは、埋門(うずみもん)形式の櫓門で、戸無門を通過して筒井門前に殺到する敵の背後を突く策謀のもとに造られたものだ。ほんとうに、防御に工夫の凝らされた城だ。筒井門を越えると、本丸南曲輪へと入っていくことになる。
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| 巽櫓(復元) | 本丸南曲輪より見た太鼓門(復元) | |
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| 本丸内側より見た太鼓門(復元) | 太鼓櫓(復元) | |
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| 本丸井戸 | 本丸南部から望む天守閣群 | |
次に待ち受けているのは、太鼓櫓・太鼓門・巽櫓の防衛線で、カギの手のように曲がりながら敵を迎え入れる。巽櫓は、この防衛線の東を固める二層櫓で、本丸石垣上に佇立している。その脇に開口する太鼓門は、脇戸附の櫓門で、そこをくぐると正面に二層の太鼓櫓が見える。この櫓は、最初大手門跡から曲がったときに石垣上に美しく立っていた。これらの櫓や門は、1935年(昭和10)、旧国宝に指定されたが、1945年(昭和20)7月、松山空襲で焼失してしまった。しかし、1972年(昭和47)2月に古い資料に基づいて復元されたものだ。このラインを突破すると正面に、松山城天守群が美しい姿を現してくる。そこへ向かう途中右手に、井戸がある。直径は2m、深さ44.2m、城内の飲料水として使用されていたものだが、南北二つの峰を埋め立てて本丸の敷地をつくった時、この地にあった泉を井戸として残したとの伝承がある。この井戸の上葺も、1945年(昭和20)7月の松山空襲で焼失し、1952年(昭和27)3月に再建されたものだ。
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| 天守曲輪入口から望む大天守(現存)南面 | 天守曲輪入口から望む小天守(復元)南東面 |
天守曲輪に入るのは有料で、受付で城閣入場料(大人500円)を払って、石段を登っていくと天守曲輪の入口に到する。正面に3層の大天守、左に2層の小天守、そして、右手には一の門南櫓を見ながらその高い石垣の間をカギの手に曲がりながら進んでいく。三方から攻められて、侵入する敵は容易ではなく、守り堅固なのだ。
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| 一の門(現存) | 一の門南櫓(現存) |
天守曲輪の入口から石垣の間を右手に曲がったところに一の門がある。天守曲輪(本壇)入口にある高麗門で、重要な位置を占める。この門の南側に一の門南櫓が聳えているが、紫竹門東塀と呼応して本壇入口を固める単層櫓で、本壇の石垣上に佇立している。大きさは、桁行3間、梁間2間で、屋根は入母屋造の本瓦葺となっていて、建物は嘉永期に再建されたものであり、いずれも国指定重要文化財となっている。一の門を入ると一の門南櫓、一の門東櫓、一の門東塀、二の門、二の門南櫓、三の門南櫓などによって、桝形が構成され、二の門へと登っていく。
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| 二の門(現存) | 二の門南櫓(現存) |
桝形を左に折れ石垣を登ると、二の門がある。脇戸付薬医門で、屋根は本瓦葺、これも嘉永期に再建されたものである。この門の南に続くのが二の門南櫓で、天守曲輪(本壇)の南東角を固める単層の隅櫓だ。大きさは、桁行6間、梁間3間で、一の門南櫓と同じ構造をしている。これも嘉永期に再建されたものであり、2つとも国指定重要文化財である。
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| 外庭から望む大天守(現存)東面 | 外庭から望む大天守(現存)北面 |
二の門をくぐると、左手に3層の大天守(現存)がそびえ、右手は天神櫓(復元)へと塀が続いている。ここから、見上げる大天守東面は、千鳥破風や格子窓を配し、どっしりとしている。
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| 三の門(現存) | 三の門南櫓(現存) |
二の門を入った左手の天守閣穴蔵石垣添いに、三の門がある。脇戸を持たない高麗門で、屋根は本瓦葺となっている。構造は一の門と同様で、嘉永期に再建されたものである。この三の門を過ぎた奥に単層櫓があるが、これが、三の門南櫓で、大きさは、桁行5間、梁間2間だが、構造様式は一の門南櫓と同じであり、やはり嘉永期の再建になるもので、いずれも国指定重要文化財である。
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| 筋鉄門(現存)と小天守(復元)東面 |
三の門を過ぎて、天守石垣下を右折すると、筋鉄門(内庭入口)に達する。この門の2階は右手の大天守と左手の小天守をつなぐ渡櫓となっている。
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| 内庭から望む大天守(現存)西面 | |
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| 内庭から望む小天守(復元)北面 | 内庭から望む南櫓(復元)北東面 |
筋鉄門をくぐると、内庭(天守内曲輪)に至るが、この長方形の空間は、大天守(現存)、小天守(復元)、南櫓(復元)、北櫓(復元)を四隅に配し、ぐるりと多聞櫓、渡櫓でつないでいる。連立式天守の構造を把握する上では、ここから四囲を眺めてみるのが良いだろう。北側の北櫓脇に正規の玄関口があるが、見学者は、大天守下の石垣から入ることになる。
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| 大天守より艮門(東方向)を望む | 大天守より本丸(南方向)を望む |
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| 大天守より伊予灘(西方向)を望む | 大天守より高縄山(北方向)を望む |
現存天守は、創建時の天守が1784年(天明4)に落雷によって焼失した後、1853年(安政5)に再建されたもので、当時の城主は12代松平勝善だった。3層3階の天守は、層塔型の連立式で、大小天守と2基の隅櫓が長方形の中庭を造っている。この城は、1602年(慶長7)に加藤嘉明によって創築され、工事は25年を費やし、完成をみたのは1627年(寛永4)のことで、この時には嘉明は国替えになっていた。その後を継いだ、蒲生氏も無嗣断絶となり、松平(久松)氏が城主となってからは廃藩置県まで続いたのだ。しかし、1933年(昭和8)7月怪火によって小天守、南櫓、北櫓、多聞櫓などを焼失してしまったが、1966年(昭和41)より始められた復元工事によって、本丸の小天守、隅櫓2基が木造で復元されて、連立式天守の偉容を回復した。大天守最上階に登ると、西に瀬戸内海伊予灘や諸島を眺め、北に石鎚山、東に道後温泉、南に市街地中心部を一望できてすばらしい。大天守を下りてきて、筋鉄門渡櫓から小天守へ、さらに多聞櫓を経て、南櫓、北櫓、そして、内門渡櫓と巡って連立式天守を一周することが出来る。
内門をくぐって、右に折れると仕切門がある。脇戸付高麗門で、本瓦葺となっているが、これも嘉永期の再建であり、国指定重要文化財となっている。この門を過ぎると正面に天神櫓があり、その手前で右折すると二の門へと続いて、天守曲輪(本壇)の周回を終えて外へ出ていくことが出来る。
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| 本丸北曲輪より望む北櫓(復元) | 本丸北曲輪より望む南櫓(復元) | |
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| 野原櫓(現存) | 野原櫓(現存)内部の小屋組 | |
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| 乾櫓(現存) | 乾門(復元) | |
本丸曲輪を出て、紫竹門(国指定重要文化財)をくぐって、西の方へ進むと、そこが本丸北曲輪だ。ここから見る天守群もまたすばらしい。特に、北櫓と南櫓、それを結ぶ十軒廊下多聞櫓(復元)が、高い石垣の上に、石落としと狭間を並べて、敵の侵入を防ぎつつ、美しい姿を現出している。この曲輪は、搦手口を固めていて、西に開く乾門(復元)を、乾門東続櫓(復元)と乾櫓(国指定重要文化財)で守っている。ちょうど訪れたときに、普段は非公開となっている乾櫓とその東にある野原櫓(国指定重要文化財)が特別公開されていたので、中に入ってみることにした。乾櫓は二層の隅櫓で、正木城から移建されたと伝えられている。梁や貫も太く、がっしりと屋根を支えている。格子窓や狭間、石落としは搦手から迫る敵に向けられていて、実戦的だ。野原櫓も二層だが、古式な望楼型の造りをしていて、本城最古の建造物とのことで、興味深かった。
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| 本丸から二の丸に至る坂道 | |
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| 二之丸史跡庭園奥御殿跡 | 二之丸史跡庭園林泉庭 |
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| 二之丸史跡庭園観恒亭 | 二之丸史跡庭園大井戸遺構 |
大手門跡から坂道を下ってくると、二の丸へと至る。1602年(慶長7)に加藤嘉明によって、本丸・二の丸・三の丸の位置が決められ、築城が開始されたのだが、二の丸は、初代城主加藤嘉明が会津に転封になったのち、次の城主、蒲生忠友の時代になってから完成したとのこと。その後、藩主の邸としての使われてきたが、1687年(貞享4)に三の丸に新邸が造営されると、その機能は、三の丸に移ってしまったとのこと。しかし、1871年(明治3)の火事で三の丸が焼失し、一時機能が戻ったものの、二の丸も1874年(明治5)の火災で焼失してしまった。その後、この土地は、勝山中学校として使用されていたが、廃校に伴い1984年(昭和59)から3年をかけて、松山市が発掘調査したという。さらに、1989年(平成元)から3年をかけて「二之丸史跡庭園」として復元整備したものだ。周囲は土塀と多聞櫓(復元)で囲われ、入園料(一般100円)を払って中へはいると、西南部にある奥御殿跡は「流水園」として、水と砂利と芝生で昔の部屋の間取りを表現している。東側の「林泉庭」は、露岩を背景にした池や滝を配置して「わび」「さび」を表現しているという。さらに、北半分にある表御殿跡は「柑橘・草花園」で、各地のカンキツ類や草花で昔の部屋の間取りを表現しているとのこと。それらの庭園内には、有料施設として、茶会・句会などの文化的な催しに利用することができる「観恒亭」「聚楽亭」「勝山亭」が配されている。ここで、ひときわ注目するのは、大井戸遺構で、規模は、東西18m、南北13m、深さ9mで、石積みは段積になっているとても大規模なものだ。大井戸の東半分は、井戸の中に三列各三本の柱が縦横に貫を通して組まれ、その上に邸がせり出して建てられていたという。また、抜け穴ではないかという地下通路も確認されていて興味を引く。
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| 三の丸水堀 | |
二之丸史跡庭園から下りてきて、南へ進むと三の丸の水堀に出る。この内側にはかつて、三の丸御殿や重臣の屋敷が建っていたのだが、1871年(明治3)の火事で焼失し、廃藩後は、1877年(明治10)6月に松山分屯大隊がおかれ、1884年(明治17)年に、歩兵第二十二連隊となり、昭和20年の終戦まで続いた。その間、1929年(昭和4)に堀の一部が埋め立てられたという。1949年(昭和24)には、アメリカ占領軍の指令に基づき松山市が三の丸の堀の埋め立てに着手するが、松山市民の猛反対に遭い断念したという。現在でも、水堀の大部分は残されていて、満々と水を湛えている。その内側の三の丸のスペースには、野球場、プール、競輪場、市民会館、博物館、美術館等の公共施設が密集している。
| 松山市の公式ホームページの中の松山城紹介へ |
☆松山城関係の指定文化財一覧
| 指定文化財 | 指定 | 員数 | 指定年月日 |
| 松山城天守 | 重要文化財 | 1棟 | 1935年(昭和10)5月13日 |
| 松山城三の門南櫓 | 重要文化財 | 1棟 | 1935年(昭和10)5月13日 |
| 松山城二の門南櫓 | 重要文化財 | 1棟 | 1935年(昭和10)5月13日 |
| 松山城一の門南櫓 | 重要文化財 | 1棟 | 1935年(昭和10)5月13日 |
| 松山城乾櫓 | 重要文化財 | 1棟 | 1935年(昭和10)5月13日 |
| 松山城野原櫓 | 重要文化財 | 1棟 | 1935年(昭和10)5月13日 |
| 松山城仕切門 | 重要文化財 | 1棟 | 1935年(昭和10)5月13日 |
| 松山城三の門 | 重要文化財 | 1棟 | 1935年(昭和10)5月13日 |
| 松山城二の門 | 重要文化財 | 1棟 | 1935年(昭和10)5月13日 |
| 松山城一の門 | 重要文化財 | 1棟 | 1935年(昭和10)5月13日 |
| 松山城紫竹門 | 重要文化財 | 1棟 | 1935年(昭和10)5月13日 |
| 松山城隠門 | 重要文化財 | 1棟 | 1935年(昭和10)5月13日 |
| 松山城隠門続櫓 | 重要文化財 | 1棟 | 1935年(昭和10)5月13日 |
| 松山城戸無門 | 重要文化財 | 1棟 | 1935年(昭和10)5月13日 |
| 松山城仕切門内塀 | 重要文化財 | 1棟 | 1935年(昭和10)5月13日 |
| 松山城三の門東塀 | 重要文化財 | 1棟 | 1935年(昭和10)5月13日 |
| 松山城鉄筋門東塀 | 重要文化財 | 1棟 | 1935年(昭和10)5月13日 |
| 松山城二の門東塀 | 重要文化財 | 1棟 | 1935年(昭和10)5月13日 |
| 松山城一の門東塀 | 重要文化財 | 1棟 | 1935年(昭和10)5月13日 |
| 松山城紫竹門東塀 | 重要文化財 | 1棟 | 1935年(昭和10)5月13日 |
| 松山城紫竹門西塀 | 重要文化財 | 1棟 | 1935年(昭和10)5月13日 |
| 松山城跡 | 史跡 | 1件 | 1952年(昭和27)3月29日 |
| 松山城山樹叢 | 県天然記念物 | 1件 | 1949年(昭和24)9月17日 |
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