日活アクションの栄光
山崎 巌
昭和34年
 日活映画は、石原裕次郎のムードアクションシリーズ、小林旭の「渡り鳥シリーズ」「流れ者シリーズ」、赤木圭一郎の「拳銃無頼帖シリーズ」を中心に、男性アクション路線が花ざかりだった。今では信じられないが、旭の封切作品は初日になると、劇場の前に早くも若い入場者の列が出来たものである。その大部分は、映画の中の旭同様、ウエスタンスタイルをしていた。

その年の秋
 月1本の割合で、それ等シリーズの脚本を書いていた僕は、プロデューサーから1通の少年の写真を見せられた。

 「ピアニスト和田肇の息子です……名前は和田浩治……16歳です……主演ものを考えて下さい……封切は12月です」

 僕は、頭を抱えてしまった。写真の少年は、いかにも育ちが良さそうで、たんせいな容貌だが、とに角、年が若すぎる。第一、演技も未知数な少年を支えるバイプレーヤー(敵役)は、裕次郎、旭、圭一郎達に対する御存知・日活ギャング(金子信雄達)と言う訳にはいかない。一人の少年に、大の中年ギャング達がキリキリ舞いをすれば、荒唐無けいに輪をかけてしまう。なんとか、他のシリーズには無い、新鮮なストーリイを設定しなければ……

 と、日夜考えたと言いたい処だが、他の仕事に追われて、うまい知恵が浮かばない。そのうち、タイムリミットが迫って来た。苦しまぎれに思いついたのが、非行少年もの、いわゆる少年鑑別所(ネリカン)ものである。これなら、仇役も少年で済むし、ストーリイもリアルになる。そう決定すると、スラスラ書けた。
 
 出来上がったシナリオの中に、和田が仇役の少年達と無言の乱斗をするシーンがあった。当時、日活の常務だった江守清樹郎氏は『無言の乱斗』と言う題名をつけた。少し無責任ではないか!

 とに角、映画はその年の暮れに封切られた。不敵の新人・和田浩治のデビューは、倖い好評で、引きつづき、次回作の注文が来た。

 僕は、つまった。第一作はなんとかでっち上げたが、二作目もネリカンものと言う訳にはいかない。やはり、仇役には御存知・日活ギャングを使わなければ、ストーリイが成り立たないのだ。それに、二作目は題名だけが決まっていた。

――六三制愚連隊
 僕は、その愚連隊と言うのを、相手の悪だと解釈した。僕は、ヒデ坊(和田浩治のニックネーム)を日本の高校に転校したアメリカの二世にした。そのヒデ坊にからむ日活ギャングには、機動性を持たせた。あげくの果てに、妙ちきりんな映画が出来上がった。

 何しろ主演は16歳の少年だから、日活ギャングが凄めば凄むほど、そんなバカな、と言うナンセンスな笑いが随所にある。かくして、僕達が意図しなかった劇画タッチのハッタリがそこはかとなく漂いこれも、ヒットしたのである。劇中、当時としては珍しいヘリの追跡やスタントをふんだんに取り入れたのも、若い客を引きつける要因になった。

 (――当時の日活は、常に時代を先どりしていた。僕達が意識した訳では無い。会社が好きな事をさせてくれたから、若いスタッフ達がのりにのって仕事をしていたのである。)

 この二作の成功で、会社はヒデ坊を第三の新人として売出す事に決定した。その矢先に、赤木圭一郎が事故で死亡。ヒデ坊は、新人どころか、裕次郎、旭、高橋英樹、二谷英明、宍戸錠に加え、ダイヤモンドラインなる名称で、一月一本の劇映画を連打しなければならなくなった。

 こうなると、書く方もヤケになる。まともな事は考えられない。ヒデ坊を、馬にのせて銀座のメインストリートを歩かせたり、拳銃の名手にしたり、ハチャメチャな設定をした。

 最初は、荒唐無けいになるのを極力さけた結果が、これである。だが逆にそう言う八方破れのストーリイが、若い客に増々うけた。デビュー作一年にして、ヒデ坊はおしもおされぬスターの座についたのである。

 いま数えてみると、ヒデ坊の作品を(助演も入れて)僕は20本書いている。日活時代、ヒデ坊が出演した84本のうちの20本だ。

 その中でも、もっとも記憶に残るのは、昭和36年の正月に封切られた『俺の故郷は大西部』である。僕は、ヒデ坊を、OK牧場でクライトン一家と決斗、皆殺しにした保安官、ワイアット・アープの子孫にした。

1880年 テキサス
 で始まるこのストーリイは、アープの子孫であるヒデ坊を、クライトン一家の子孫であるE・H・エリックが日本へ追って来て、宿命の対決をするのがクライマックスだった。場所はOK牧場ならぬ、大川牧場。シーンは全てジョン・スタージェスの『OK牧場の決斗』からいただいたパロディだった。ナンセンス無国籍もの、ここに極まれりと言ったこの映画もまた、若者達に爆笑で迎えられた。今でも僕は、この映画が、ヒデ坊の若さに一番マッチしたと思っている。

 だが、かんじんの日活が劇映画の制作を中止……にっかつロマンポルノに転向し多くのスタッフキャストが散って行った。 その後、テレビに仕事の場を移すようになってからも、僕はヒデ坊と時々会う。かつて16歳の美少年も、いまや36歳の中年小父さんだ。だが、36歳と言うのは年令だけで、相変らず若々しいその顔を見ると、僕自身の青春を見る。

 あの華やかで、活気に溢れていた日活時代の青春を……

山崎 巌(やまざき がん)〜1997(平成9年)
脚本家。「渡り鳥」「流れ者」「拳銃無頼帖」シリーズなどの脚本を手がける。著書に『夢のぬかるみ』(新潮社、1993年)


ヒデ坊(和田浩治)の思い出
西河克己
 和田浩治が15歳でいきなり抜擢されて主役の座についたのは『無言の乱斗』であったが、実はその前に、赤木圭一郎の抜擢問題と深い関係があった。

 昭和34年『若い傾斜』の製作に当たり、当時映画担当重役であった江守常務と私との間で「首をかける、かけない」の大論争があった。『若い傾斜』の主役は、当時の日活ではB級スターの「S」が予定されていた。私は、それを嫌って無名の大部屋俳優の赤木圭一郎を使いたいと言った。

 江守常務は烈火の如く怒って「そんなにやりたいなら、西河君、首をかけてやれ!」とケンカ別れになった。

 やがて『若い傾斜』が完成して試写が行われたときに、江守常務は「おい西河君、写真は面白くなかったが、凄いスターが生まれたなァ」と大声で言い放った。そして、「S」に予定されていた主演作品のすべてを、赤木圭一郎の主演に切り替えてしまった。

 私は江守常務の豹変ぶりに驚いたが、それをきっかけにして、新人俳優の売り込みがあると、江守常務はきまって「西河君に会わせろ、西河君がOKしたら、契約してもいいよ」という態度を固執するようになった。これには閉口した。
 その第一号が、和田浩治だったのである。

 当時はヒデ坊(本名ひでお)は15歳、身体も大きいが態度も大きかった。ただ当時大人気の石原裕次郎にどこか風貌が似ていること、物おじしない態度はいかにも日活らしく、得体の知れない面白さが感じられたので、私はOKを出した。

 和田浩治の最初の作品は『無言の乱斗』(昭和34年)であった。私はこの題名が嫌で、度々会社に抗議したが聞き入れられなかった。この作品は準備段階では『練鑑ブルース』であった。

 この哀歌はもともと兵隊仲間で歌われていたものの替え歌で、いつの頃からか、有線放送や、盛り場の流しの間で流行しだした、詠み人知らずの歌であった。従って、レコード化される時も数社の競作として発表された。

 コロムビアは、当時、「堀威夫とスイングウェスト」のバンドボーイをしていた守屋浩の歌で売出した。そのレコードを携えて堀威夫氏が私の家を訪れ、今度の作品にはぜひ守屋の歌を使って欲しいと言った。それが縁で、私は銀座のジャズ喫茶「ACB(アシベ)」に行った。

 守屋浩は「スイングウェスト」のメンバーの楽器をバスから降ろしたりしていたが、私が行ったので、堀威夫氏は、守屋浩をステージに上げて、「練鑑ブルース」を歌わせた。

 私はその時、守屋浩が予想したより、スラリとした青年であったので、堀威夫氏に、歌もさることながら、姿もサマになっているので、画面に出してみたらと言った。「それは結構なお話で……」ということで、守屋浩は、次回作の『六三制愚連隊』から和田浩治の相棒として出演することになった。

 これが、和田浩治の作品には必ず守屋浩が出るというパターンを作ることになった。

 こうして、私は和田浩治主演の映画を連続して8本も作ることになり、『ギターを持った渡り鳥』の後をついて歩く『ランドセルを背負った渡り鳥』のようなシリーズを日活ダイヤモンドラインに乗せることが出来、役目を終えた。

 ヒデ坊(撮影所内ではそう呼ばれていた)の主演作品は、「小僧シリーズ」などどれも他愛のない劇画のルーツのようなものであったが、私は結構楽しみ乍ら作っていた。

 その中には、批評家から「日本映画史に残る珍名作」と書かれるものも生まれた。
『俺の故郷は大西部』(昭和35年)である。

 私が大変気に入ったのは、こう云う場合「珍迷作」と書かれるのが普通であるが、これは正しく「珍名作」と書かれていたので、私は大満足であった。私の作品には外に名作と呼ばれたものは全く無かったのである。

 ここに、その「珍名作」のストオリイを紹介すると、いわゆる『OK牧場の決斗』(57)のワイアット・アープの子孫と、クラントン一家の子孫とが、東京の銀座で出会い、富士の裾野の「O・Kawa牧場」で決闘するというもので、はじめの一巻はテキサス(史実はアリゾナ州)の場面で、勿論英語の会話であり、画面横に日本語の字幕スーパーが出るという趣向であった。

 バカバカしい話であるが、私は内心この作品が気に入っていて、ビデオが発売されないか心待ちにしているのだが、和田浩治が若くして亡くなったので、多分、私の希望は入れられないだろうと、諦めている。

西河 克己(にしかわ かつみ) 1918(大正7)年〜
映画監督。鳥取県八頭郡智頭町生まれ。1952年、松竹『伊豆の艶歌師』で監督デビュー。1954年日活に移り『若い人』『青い山脈』『伊豆の踊子』『絶唱』『夕笛』『残雪』などの作品を監督。

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