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日頃、僕の心に浮かんだ事柄を徒然なるままに・・・・
○引っ越し
僕が生まれたのは、両親が仙台市向山に住んでいた時で、病院は木町にある東北大学病院であった。その後、物心付かない頃に同心丁(現在の上杉)に引っ越した。
その後我家は引っ越しを繰り返す。
僕が小学校一年生の時に、支倉町に移り住んだ。支倉町には大学を卒業し、社会人となって東京に移り住むまで約17年間をそこで過ごした。
住宅は借家だったが、その家は既に取り壊されて現在は残っていない。
東京には、3年間住んだが、仙台に帰ってきた時は、我家は仙台市旭ヶ丘に引っ越していた。
昭和57年に結婚した僕らは、仙台市萩ヶ丘の宿舎に新居を構えた。平成6年に宿舎を取り壊すことが決まり、現在の住まいに移り住み今に至っている。その頃、僕の長男が丁度小学校に入る時期で、長女はまだ1歳半の頃だったので、幸い二人とも転校を経験していない。僕としては、なるべく二人に転校を経験させたくない。
ところで、僕のホームページのタイトルは、愛子(LOVE
CHILD)に由来している。一太郎で有名なジャストネットと初めてプロバイダー契約を結んだ時、イーメイルアドレスを何にしようかと考えて、浮かんだのが当時住居表示の中にあった下愛子(しもあやし)で単にそれを英訳したものだった。
今、僕の息子も中学3年生で、愛子駅の北側の中学校に仙山線で列車通学している。愛子駅は「愛子様」の誕生で新聞等で脚光を浴び、今もその人気が衰えないらしい。
僕のホームページは、今年の4月から全然更新しておらず、相互リンクしている土橋通り迷宮案内のS氏から「病気ではないでしょうね。」と指摘されて、今回のメインページのデザイン変更となった。作業は11月末の二日間程度で終わったが、更新日は丁度12月1日が良いと思い更新した。
12月1日、朝目覚めて朝刊に目を通した時、今日が「愛子様」の1歳の誕生日だと初めて分かった。
2002.12.01
○広瀬川
僕がかつて住んでいた支倉町は、広瀬川の段丘の直ぐそばに位置する町で、僕の家の2階からは、川内の東北大学のキャンパスや青葉山一帯が望めた。また、広瀬川のせせらぎの音が始終聞こえていた。
支倉町から歩いて5分ぐらいの距離の広瀬川添いに西公園というのがある。公園の北側の入口には、展示された蒸気機関車と大きなこけし塔があり、小学生の頃は、中央のグランドでよく友達と野球をして遊んだ。その頃、野球のチームみたいなものはなかったが、土曜日の午後か日曜日の早朝が僕らの練習時間だった。
また、広瀬川の仲ノ瀬橋と澱橋の間で、ちょうど西公園の真下あたりにはボート屋さんがあって、僕も何度かボート漕ぎを楽しんだ。僕の記憶では、最後に乗ったのは確か中学三年生の最後の春休み(昭和45年)だったと思う。高校受験も終わり、のんびりした気持ちでボートを漕いだ印象と温んだ川面の水をすくった記憶がある。ボート屋さんの営業も、河川法の改正或いは屋台の一代限りの営業許可のようなものの関係で営業を続けることが出来なくなってしまったのか定かではない。
ところで、僕らの現在のアパートの東側の開放廊下の真下には、広瀬川が流れている。耳を澄ますと広瀬川のせせらぎの音が聞こえてくる。また、ヒートアイランド現象で都市部の夏の気温が上昇している時でも、広瀬川からの川風で家の中は非常に涼しい。広瀬川のおかげである。
2002.12.05
○仙台市電
昭和51年に廃止されるまで、仙台市内にはかつて市電が走っていた。何故廃止に至ったかというと、路上に次第に車が溢れ始め、市電の軌道上に車がはみ出し、市電の進行を遮るケースが多くなったというのが理由だったと思う。秋になると市電の軌道上の落ち葉が原因でスリップし、市電が動けなくなるケースもあった。
市電は東は原ノ町、西は八幡町、北は北仙台、南は長町までのネットワークだったと思う。僕の記憶にある運賃は一回乗車で、小人10円、大人20円である。現在、支倉町に仙台市交通局があるが、そこが市電の基地だったかどうか記憶でははっきりしない。今の大学病院の交差点には、鉄筋コンクリート造の2階建ての市電管理塔があった。一階部分は、キノコのような支柱だけだった。
僕の母親の実家が染師町(現在:五橋)にあったので、行くときはいつも市電を利用したのと思う。その当時、市営バスが走っていたかどうか記憶の中にはない。ただ、仙南交通(後に宮城交通と合併)というバスが走っていた記憶はある。支倉町の通りは現在一方交通であるが、当時は一方交通ではなく、僕の家の前を仙南交通のバスが走っていた。
今、その市電が見直されている。いわゆる自動車の排気ガスの弊害を考えると、地球にやさしい乗り物という事実だろう。ヨーロッパ等でも見直しの機運があると聞いた。パーク・エンド・ライド方式のように、都市の中心部には車両を一切入れないという都市政策を取っているヨーロッパに自治体もある。日本でも、広島市、長崎市等市電がまだ走っている街がある。地下鉄がある仙台市内をまた市電が走ることは多分もう無いだろう。
最近、長崎市を走っていた市電が里帰りし、その保管場所を探していた所、一級建築士の早坂淳氏が自分のアトリエがある敷地の一部を提供することを申し出たという新聞記事を読んだ。ちなみにその場所は、確かかつて秋保電鉄の駅があった所だと思う。
僕も一度おじゃましたことがある。
2002.12.08
○川内の建物
僕が通っていた仙台市立第二中学校には、川内の国家公務員宿舎に住んでいた家族の子供が少なからずいた。学区的には、仙台市立立町小学校に通っていた子供が、第二中学校に進学した。
親が国家公務員ということで、中学校3年間の途中で、遠く他県に引っ越していく友達もいて、お別れの挨拶のたびにかわいそうに思った。そんな中に僕が気になる女の子が一人いた。彼女は結局3年間中学校にいたが、高校生になってから千葉県に引っ越したと聞いた。
そんなこともあって、中学生の頃は川内にはよく自転車で行った。当時(昭和42年〜44年)の川内には、まだアメリカの進駐軍が使用していた建物がまだ幾つか残っており、現在の川内記念講堂の前の一角には、白い板壁の住宅が幾つか残っていたし、白壁の家、芝生や歩道を見ると、まるでアメリカにいるような感じがして胸がわくわくした。人が住んでる様子はなかったので、ある日中をのぞいて見ると、白い大きな米国製のバスタブが見えた。また、現在の扇坂の登り口には、川内キャンプに当時熱源を供給した大きな煙突と大きなボイラー用の建物がまだ残っていた。
僕が大学生の頃(昭和48年頃)サークル活動でESSに所属したが、その部室は進駐軍が使用した建物の一室であった。
そのほとんどが今では取り壊されているが、いまだ2,3の建物が残っていることは驚きである。
2002.12.11
○東京物語―その1(昭和30年代後半の頃)
僕が初めて東京を訪れたのは、学年ははっきり覚えていないが、小学生3,4年生の頃だと思う。東京には僕の父の妹夫婦がいて、品川区の北品川に住んでいた。丁度何らかの理由で叔父が仙台に来て帰る際に、僕の姉と僕が一緒に東京に行くことになった。確かお正月の頃ではなかったと思う。北品川の商店街の歳末セールみたいなものの印象が残っているからである。つまり、学校の冬休みを利用しての旅行になったと思う。
その頃仙台と上野間には「特急ひばり」、盛岡と上野間には「特急やまびこ」、青森と上野間には「特急はつかり」が運行していて、仙台と上野間の所要時間は4時間15分ぐらいだったかと思う。列車には、食堂車が付属しており、そこで僕の姉と僕はジュースとケーキ、叔父はビールとセロリを食べた。
当時、叔父夫婦は北品川の2階建の木造アパートの2階の狭い一室に住んでいて、そこには専用の風呂場はなく、風呂というと近所の銭湯に行った。便所も確か共同であったと思う。叔母と一緒に行ったせいか、何故か銭湯では女湯に入ったはずかしい記憶がある。東京の名所では、羽田空港、東京タワーとモノレールのあった上野動物園に行った記憶がある。また、千葉県の津田沼に叔父の親戚がいたので、そこを訪ねた記憶も残っている。
東京のテレビは当時の仙台と異なりテレビ局の数が多く、そのことに驚いた記憶がある。
2002.12.13
○東京物語―その2(昭和44年)
次に東京を訪れたのは、中学生の修学旅行の時だった。当時一般的であった修学旅行専用列車で仙台を立ち、まずは宇都宮まで行った。そこから専用バスに乗り換え、高い杉木立を横目に見ながら日光を目指した。日光では、「金桝旅館」という所に一泊した。
その後、東京では確か本郷の旅館に一泊し、後楽園遊園地に行った。その時後楽園では、白雪姫を上演していたのか、僕たちを外人の美しい白雪姫が迎えてくれた。
その後、横浜に移動し、横浜ドリームランド近くのホテルに宿泊した。結局、当時の修学旅行は3泊4日だったことになる。
横浜では、横浜ドリームランド(遊園地)で遊び、確か昼食は中華街の中華飯店で大皿にてんこ盛りになったチャーハンを銘々がよそって食べた記憶がある。
その当時丁度「いしだあゆみ」の「ブルーライト・よこはま」が流行っていて、バスの中でみんなで合唱した記憶がある。
2002.12.13
○東京物語―その3(昭和47年の頃)
第3回目の東京訪問は、高校2年生の時だと思う。また、僕の姉と一緒だった。何泊したかは定かではない。当時、北品川から南品川に引っ越して住んでいた叔父夫婦の家に何泊か宿泊したと思う。叔父夫婦の家は狭い路地の奥にある木造2階建であり、今度は風呂場もあった。
あとの一泊は、横浜市鶴見区に住んでいた僕の母親の弟夫婦の社宅アパートに泊まった。僕の母親の弟は、当初仙台に住んでいたが僕が小学生の頃に結婚して、五橋のアパート、その後仙台の燕沢という所に引っ越した。会社の仕事の転勤で、横浜に転勤したのだった。
記憶にあるのは、中華街に連れて行ってもらうということになっていたのだが、その日の前の晩に叔父は飲み会があり、その日の朝は二日酔いらしく、叔母から時間をずらして欲しいという電話があり、待ち合わせ時刻をずらすことなった。どこかの中華飯店に連れていってもらい、五目焼きそばをごちそうになった。
不思議なことに、この時の記憶が昭和44年頃の記憶よりも薄らいでしまっている。
2002.12.13
○東京物語―その4(昭和53年4月〜56年3月)
昭和53年に大学を卒業した僕は、豊島区雑司が谷にあったある建築設計事務所に就職するために仙台を離れ、品川区東品川の鉄骨造3階建アパートに引っ越した。そのアパートを父が選んだのは、多分近くに父の妹夫妻が住んでいるので安心だという理由からではなかったかと思う。
アパートは京浜急行の青物横丁駅から南に歩いて5分ぐらいの所にあって、1階が運送業の会社を経営している大家の業務用トラックの車庫と大家の家になっていた。間取りは6帖一間と便所、そして踏込みには小さな流しとコンロ台があった。家賃は月額27,000円だった。
ところで、昭和53年は、宮城県にとって忘れられない年になった。僕が仙台を離れる際に周りからは、関東・東海近辺で大地震が起きるかもしれないと驚かされていたのだが、その年の6月に宮城県沖地震が発生し、宮城県が大被害を受けたのだ。その地震が発生した瞬間、僕は東京の事務所の3階にいたが、地震を感じ、事務所と階段室の間のエキスパンション・ジョイントに注目すると、それがわなわなと振動していた。まさか僕は、宮城県沖が震源の地震だとは夢にも思わず、揺れがおさまるのを静かに待っていた。その当時事務所内にはテレビがなく、それが宮城県沖地震だと分かったのは多分しばらくたってからだったと思う。その後自宅に電話しても、全然繋がらなかった。
もう一つの今度はうれしいニュースは、佐藤宗幸が歌った「青葉城恋歌」が全国的に大ヒットし、その年の暮れの紅白歌合戦に初出場したことであった。僕にとっても宮城県にとっても、どちらにしても印象的な年になった。
僕のアパートには風呂がなかったので、風呂に入りたければ、近くの銭湯に通わなければならなかった。アパートには内階段と外階段があったが、初めてプラスティック製の桶とタオルを腕に抱え銭湯に向かおうと外階段に一歩出た時、何故かせつない気持ちになった。銭湯は近所に2軒程あったが、一番近い銭湯は旧東海道である通りの商店街の一角にあった。確か1回250円ぐらいではなかったと思う。また、洗濯物は歩いて10分程度の距離にあるコイン・ランドリーを利用した。
僕の会社は、豊島区雑司が谷にあったが近くには、名士の墓地がある有名な「雑司ヶ谷霊園」や事務所の裏にはススキミミズクで有名な「鬼子母神」があった。通勤は、京浜急行で品川駅まで行き、山手線に乗り換えて目白駅まで行き、そこから学習院の前の通りを北に歩いて事務所に向かうのだが、アパートを出て事務所に着くまで丁度1時間かかった。また、通勤途中の路地には、阪神タイガースの田淵幸一氏の実家があった。
さて、書き始めたこのテーマも、この3年間はあまりにも色んな事が有りすぎました。結局、頭の中の整理がつかない状態になってしまったので、後日テーマを絞ってエッセイにしたいと思います。
2002.12.14
○冬の青葉城趾
久しぶりに青葉城趾を訪れた。2年ぶりだろうか。現在、青葉城趾は石垣の修復工事の真っ最中で、工事のための仮囲いが張りめぐらされていて、ちょっと景観を害している。それでも朝早くから多数の観光客が訪れ、にぎわっていた。雲の隙間から時折日差しが差し込むまずまずの天気で風もない。
ところで、仙台のS氏と松島町のY氏から、「エイブラハム・リンカーンの仙台ファンクラブ」(名称未定)みたいなものを作ってはどうかというお誘いがあり、12月15日(日)の午前10時半に「昭忠碑」の前に集合しましょうとなったのである。今回は、S氏の提案で仙台の「松川だるま」をリンカーンに贈呈してはということで、全員が昭忠碑の前で写真を撮り、だるまと一緒に送るというものであった。
集合したのは、河北新報のA氏、S氏、S氏の奥さん、Y氏、W氏、E氏、M氏と僕の計8名であった。第一回めのミーティングは、僕は都合が悪く参加出来なかったので今回が僕には全員皆初対面であった。リンカーンのウェッブサイトを通じて、全然見知らぬ人々が一同に会するのは、ちょっと不思議な感じがしたし、これも何かの縁かと思った。全員の集合写真を何枚か撮影した後、場所を八木山動物公園近くのファミリーレストラン「ココス」に移して、コーヒーを飲みながらの雑談になった。まずは、全員が一通り自己紹介をした後に、色々お話しましょうということであったが、めいめいの自己紹介の最中も質問が途中で投げかけられたり、話題が様々な方向に移ったりして、非常に盛り上がった話合いになり、午前中という当初の予定を50分上回ってしまった。
これから、この会がどのように発展していくのか非常に楽しみである。
2002.12.15
○仙台の街並み
ちょっと昭和30年から40年代の仙台市内の建物の位置関係を振り返ってみると、それは次のとおりだったと思う。
現在の仙台市立病院が建っているところには学校法人三島学園が、仙台市青葉区役所の所には高い火の見櫓を持った仙台市消防署、住友生命仙台中央ビルSS30の所には学校法人宮城学院、仙台第一生命タワービルディングの所には仙台市立病院、仙台市福祉プラザの所には仙台赤十字病院、朝日生命仙台本町ビルの所には七十七銀行本店、そして、仙台市民会館の建ってる所には仙台市公会堂があった。また、一番町の入口の141ビルや仙台駅前のアムス西武のビルが建つ前は、どちらも2〜3階建の低層店舗群があった。この様に仙台市内の建物や街並みは徐々に変化してきたのである。
さて、僕の母校である仙台市立木町通小学校では校舎の改築工事が進行中である。1995年1月17日に発生した阪神・淡路大震災によって学校施設も大きな被害を受けたことを受けて、その後、文部科学省の指導の下、学校施設の耐震診断・耐震補強が推進されてきた。木町通小学校は耐震診断の結果、昭和46年以前の建築のため耐震補強が不可能という結論になり、今回の改築工事になったと思われる。僕が入学した当時まぶしく、誇りに思った鉄筋コンクリート造の建物が解体されるのは何か悲しかった。また、仙台の街並みの一風景が変わろうとしている。
ところで、先日、仙台街並み写真のウェッブサイト「SENDAIPHOTO」のM氏とお会いし、お話する機会があったが、仙台の街並み風景写真は将来50年、100年後に大きな評価を受けるでしょうとの僕の考えを話した。
2002.12.19
○息子
僕の息子は昭和62年の生まれである。昭和62年という年は結構話題性のある年で、仙台市地下鉄が開業した年でもある。息子が生まれるのがきっかけで買ったビデオカメラで撮影した仙台市地下鉄の試乗日のビデオには、おなかの大きな妻が写っている。僕の息子は今年15歳になったので、仙台市地下鉄は開業15周年ということになる。
この年NHK大河ドラマで「独眼竜政宗」が放映されたことにより、伊達政宗が全国的に脚光を浴び、仙台を訪れる観光客がどっと増えた年でもあった。偶然の話になるが、伊達政宗が死去したのが1636年5月24日、僕の息子の出産予定日も5月24日であった。結局、陣痛促進剤を使うことになり、彼が生まれたのは翌日の25日の夜。
また、この年はJR東日本が発足した年でもある。JR東日本というと、現在の駅舎が完成したのは僕が仙台を離れる前の年の昭和52年で、僕はこの駅から東京に向かい、仙台を離れた。 この駅が完成する前の駅のことはよく覚えている。昭和29年当時エイブラハム・リンカーンが撮影した駅舎で、印象的に思ったのは駅の入口の上部にあった大きな壁時計。前の駅舎が完全に解体されたけれど、この時計だけがまだひっそりと保存されていることを御存知だろうか。
僕が以前住んでいた太白区萩が丘の裏に宮城県中央児童館というのがあって、素晴らしい環境もあって、息子が小さい頃は妻と彼は一緒にそこでよく遊んだ。中央児童館の前にはちょっとした広場があって、息子に自転車乗りを教え、彼が覚えたのもそこである。その広場に面した建物の壁に、その時計が掲げてある。
その息子もクラブ活動はブラスバンドを選び、結局三年間やり通し、昨年は宮城国体の開会式と閉会式にも演技参加した。ブラスバンドの練習は大変である。朝早くからの練習、夕方遅くまでの練習、そして祝日、土日も関係ない練習。そのせいもあって、息子の現在の成績は芳しくない。来年3月の高校入試を控え、現在は塾の冬季特別講習に通い、土日の午後は僕が彼に過去の入試問題を使って、数学と英語をワンツーマンで特訓している。両科目とも全般的に基礎的事項の理解が欠落しているので、基礎的事項は自習でやるようにと言ってある。
来年5月、16歳の誕生日を息子がどういう状況で迎えるのか、誰にも分からない。
2002.12.27
○誕生日
誰も自分で自分の誕生日を選べないが、僕は4月1日に生まれた。
ところで、小学校に入学する際に、3月31日生まれの人が最後ではなく、4月1日生まれの人が最後であるということを御存知だろうか。その理由は法律上何か難しいことらしいが、詳しくは、網際情報館というサイトを読んで頂ければお分かりになる。当然、生まれ順で作成される出席簿の名簿順では一番最後となる。自分の子供が小学校に入学する際に思ったのだが、この時期は知能的にも肉体的にも1年間のハンディは大きい。しかし、当時僕は自分自身ではその認識が特にあった訳ではないと思う。
以前に、僕が生まれたその日にエイブラハム・リンカーンが彼の奥さんのパットにプロポーズをし、婚約したということを書いたことがある。彼の新しいウェッブサイト(現在鋭意制作中)の中に、二人が仲良く芝生の上にすわっているその当日の写真(April Fools Day)がある。そう日本では、エイプリル・フール、直訳すれば「馬鹿の日」と言われ、肩身の狭い思いをしたことがなかったとは言えない。
ある日、誕生日データベースという面白いサイトを見つけた。その中で4月1日に生まれた有名人を探してみると、以外にもこんな人が4月1日生まれということが分かった。
男性:●三船敏郎 ●倉石 功 ●桑田真澄 等
女性:●林 真理子 ●鷲尾いさ子 ●今井陽子 ●八木沼純子 等
ちなみに、息子の誕生日に生まれた有名人には、ケント・ギルバート、江川 卓。
最後の落ちは、最近分かったことなのだが、妻が藤原紀香。娘は梅宮アンナと同じ誕生日である。
話がちょっと出来すぎかもしれない。
2002.12.27
○中華そば・ラーメン
今や日本国中、大のラーメンブームで、ラーメン屋があちらこちらに乱立してきているが、僕が小学生の頃(昭和30年代)には仙台にそれ程多くのラーメン屋はなかったと思う。「ラーメン」というよりも、赤いのれんに白文字で中華そばと書いてある店が多かったので、「中華そば」と呼んだ。
僕の記憶にある中華そばの値段は、住んでいた支倉町から北に上った支倉通りの北三番丁と北四番丁の間の西側にあった中華そば屋の値段であるが、一杯70円で、子供向けに40円のもあったかと思う。ちなみに、当時の物の値段といえば、タクシー初乗運賃が100円、コーヒーが一杯80円、コッペパン一個が5円などなど。
僕が幼稚園児か小学校低学年の頃の我家の外食と言えば、現在も一番町にある「味一番」(当時は、単独店舗だったと思う。)に連れて行ってもらい、中華そばを食べることだった。多分メニューの中には、五目中華みたいなものもあったと思うが、家計の関係なのか、我家は何故かいつもレンゲの付かない中華そばだった。何故レンゲが付かないのか不思議に思ったりもした。また、割り箸が子供の僕には長過ぎるので、半分に折ってもらってから使った。
小学生の頃、母親が家にいない土曜日の僕の昼食は、近所の菊花長商店まで行って、コッペパンを選び、中にジャムを塗ってもらって食べることが多かった。
その後、中学生になる頃には、その食習慣も大きく変化する。
インスタントラーメンの登場である。昭和33年に最初に発売されたインスタントラーメン「日清チキンラーメン」は当時食べた記憶はあるが、その数は少なかったかと思う。昭和35年頃から日清食品以外のメーカーも参入し始めた。
昭和37年に”ブタブタ子ブタ、おなかが空いた、ブー”のテーマソングで人気の出た「エースコックのワンタンメン」、昭和41年9月に明星食品の「明星チャルメラ」、昭和43年2月に日清食品の「出前一丁」と相次いで発売されたが、昭和46年9月に日清食品から発売されるまで、カップラーメンは当時まだ無かった。
カップラーメンも初めのうちは、日本人が馴染まず苦戦したらしいが、昭和47年2月に起きた浅間山荘事件の際に、激寒の状況下で暖かい食事を欲しがった機動隊の隊員達がこのカップヌードルをすすり、それをマスコミが取り上げたことにより認知され始めたと聞いている。
僕が中学生から大学生になるまでの間、昼食にインスタントラーメンを大いに食べたが、その中でも特に、胡麻ラー油でお馴染みの「出前一丁」はよく食べた。
ところで、ラーメンは人により好みがあって、どれをおいしい、普通、まずいと感じるかは、人それぞれの舌による。ちなみに、僕の好きなラーメンは次の通りである。
○タンメン系:寿や(岩出山町駅前)・寿や(古川市李埣)
○味噌ラーメン系:味よし(仙台市向山店・上杉分店・愛子分店)
醤油系は、徐州楼(仙台市国分町)、藤屋(NHK仙台局向い側)そして、店の暖簾がなく一見普通の民家で、初心者にはちょっと見つけるのが難しい「花月食堂」である。僕は特にそこのモヤシラーメンが好きだ。
その店の一人息子が何故か、去年の4月から僕の隣の部屋に住んでいる。
2003.01.07
○瑞鳳殿
久しぶりに瑞鳳殿を訪れた。エイブラハム・リンカーン氏が仙台に駐留していた頃撮影した石段や石灯籠が瑞鳳殿のものではないかと思い、写真を撮りに家族と訪れたのが平成11年(1999年)であるから、4年振りとなる。前回は6月の青葉が香るシーズンであったが、冬の季節の瑞鳳殿も寂しいがそれなりの風情がある。長い石段を考えると雪が降った際には来ようとは思わないが、雪景色の瑞鳳殿も趣があるかもしれないと思った。
僕が初めてここを訪れたのは、確か僕が大学生の頃で、昭和51〜52年だと思う。その頃、杉木立と長い石段が印象的だったが、まだ、政宗の瑞鳳殿、忠宗の感仙殿や綱宗の善応殿らの建物は全くなく、それぞれの場所に木の墓標が立っているだけであった。戦前、国宝の指定を受けた瑞鳳殿等の建物は、昭和20年7月10日の仙台大空襲で残念ながら焼失してしまい、当時の姿は観光絵葉書の写真で伺い知るしかなかった。昭和49年から昭和60年にかけて、これらの建物が発掘調査の後に復元されたことになるが、多分僕が訪れた時は発掘調査の前後の時期であったのかもしれない。
前回は家族連れであったので子供が途中で飽きてしまい、資料館の展示物を十分に見学出来なかったが、今回は一人なのでゆっくり見学し、発掘調査の記録ビデオも興味を持って見た。資料館には、発掘された品々や発掘された頭蓋骨から復元された二代目忠宗と三代目綱宗の蝋人形の頭部や伊達政宗の等身大の鎧姿の蝋人形があり、政宗の身長が159cmであったことや血液型はB型であったことが分かった。来館者名簿の記帳者の住所を見ると、大阪府や山口県等西日本の方々が多いことが分かった。
今日2月10日は冬だというのに、気温が10度前後あって3月中旬から下旬の天候であるため、途中で資料館を見ていないことに気付いて石段を何度か登り下りした僕はすっかり汗ばんでしまった。
また、昼食を既に済ませていた僕だが、歩いたせいかお腹が空いてしまった。ラーメンぐらいであれば入るだろうと、丁度ループルバス停の真向かいにある「千代ラーメン瑞園」に入ることにした。ここにラーメン屋があるのは前から気付いていたが、前を車で通るだけで機会がなかった。
特別な期待を持って入った訳ではないので無難なものを選び、支那ラーメン(550円)を注文した。具は、半熟のまるまる1個のゆで卵、海苔、たくさんの細いメンマ、チャシュウー、多めのネギ。あっさりしているが何故かこくのあるスープと細い麺の相性が良く、全体のバランスが絶妙で、すっかり気に入ってしまった。
仙台に来て瑞鳳殿を訪れる方は、一度ためしてみることをお勧めする。
2003.02.11
○仙山線
以前、僕は仙山線の陸前落合駅から列車に乗り、北仙台駅で仙台市地下鉄に乗り換えて通勤していた。仙山線は文字通り仙台と山形を結ぶ単線の鉄道である。そのため、上りと下りがすれ違う際にその通過を待つ停車時間が生じる。
仙台駅の開業は、明治20年12月と古いが、宮城県内の仙山線の各駅の開業は、昭和になってからである。昭和4年9月に北仙台駅、陸前落合駅と愛子駅の3駅が最初に開業している。ということは、この年鉄道が仙台駅と愛子駅間に開業したと考えていいのだろう。これらの3駅は仙台駅と比較すると非常に小さな駅である。一日平均の乗降客が、仙台駅の約40分の1ということを考えればやむを得ないかもしれない。昭和59年2月に北仙台駅と陸前落合駅の間に北山駅と国見駅が開業されるまでは、北仙台駅を出発した列車の次の駅は陸前落合駅であったことになる。その後、昭和63年に東照宮駅が、平成3年に葛岡駅が開業したことにより、宮城県内の仙山線は通勤・通学路線と変わった。また、陸前落合駅と陸前白沢駅だけが陸前という頭文字が付いているが、これは旧国鉄時代に国内に同じ名称の駅があるために、それらを区別する意味で付けたものであると本で読んだことがある。
陸前落合駅の前には、以前農学寮の広大な敷地が広がっていた。農学寮が無くなった後には、昭和50年代後半に県営宮城広瀬住宅が、昭和61年に宮城県宮城広瀬高等学校が建築されている。その後、中小企業大学校が立地した。
上記の3駅が完成した昭和4年という年は、奇しくもエイブラハム・リンカーンも撮影した旧宮城県庁の建築工事が始まった年でもある。
この同じ年、僕の母も生まれた。今年74歳になる。
2003.02.14
○一枚のCD
僕の手元に一枚のCDがある。このCDは僕のホームページでも取り上げているリンカーン氏からの贈り物で、今月の初めに届いた。CDのラベルには彼が撮影した木造校舎のカラー写真が使われている。この写真は、昭和29〜30年頃の宮城教育大学附属小学校のもので、現在の宮城県第一女子高等学校の敷地に当時建っていた。その頃、コダック社製のカラーフィルムで撮影しても、日本には現像所はなく、全てハワイの現像所に送らなければならなかったようだ。
このCDには、昭和28年から31年までの仙台を初め、札幌、松島、山形、東京、横浜、鎌倉等日本各地の写真も納められている。彼が撮影した写真の数は400枚以上にも上り、大多数がモノクロ写真であるが、非常に鮮やかなカラー写真も少なくない。当時、カラー写真がまだ一般に普及していない日本においては、カラー写真は非常に貴重なものだったに違いない。
CDは、各テーマ毎に解説付きの写真がスライドショー形式でながめることが出来、川内のキャンプ施設、青葉城趾周辺、広瀬川の橋、仙台の商店、人々の生活等の写真が含まれている。そのうち、評定河原の断崖、青葉城趾の鳥居、澱橋や八木山橋等はモノクロ写真とカラー写真を交えて数回撮られていることから、彼が特に気に入った風景だったのかもしれない。これだけの膨大な枚数の写真を分類、整理するのは、大変な作業だったに違いない。彼に敬意を表したい。
このCDは県内に9枚存在する。最初に彼を仙台の人々に紹介するきっかけとなった河北新報整理本部副部長の相田さん、リンカーン氏が撮影した松島パークホテルの復元運動をしている松島在住の大和さん、クリスマスに彼に「松川ダルマ」を送ることを提案したSさん、仙台街並み写真の三河さん、郷土史家のWさん、スケープデザイン鰍フ遠藤さん、そして僕の7名のリンカーンファンクラブのメンバーにそれぞれ1枚ずつ送られた。残り2枚は仙台市にも贈呈されたと聞く。
個人的には、将来このCDを息子に託すつもりでいる。今から50年後、それを手にした僕のひ孫が100年前の仙台の姿を見て、どんな感想をもらすのだろうか。
今年2月14日の河北新報朝刊の記事「デスク日誌」で、相田さんがこのCDと僕らのことについて紹介してくれた。早速、僕と大和さんがこれを英訳してリンカーン氏に送った。
この記事は、リンカーン氏と僕らにとって、最良のバレンタイン・ギフトになったと思う。
2003.02.21
○エイブラハム・リンカーンと仙台
何故リンカーン氏は当時の仙台の写真をこれ程撮影したのか。
これは誰もが思う疑問であるが、彼から受け取った多数のイーメイルや彼を話題とした雑誌記事の内容から推察して、これに対する僕なりの考えを述べてみたい。
彼は昭和28年に来日し、最初は横浜に、次に同じ年の11月に北海道の札幌の基地に配属となった。翌年、昭和29年4月に仙台の川内にあったキャンプ仙台に所属換えとなり、昭和30年4月に苦竹の基地に移る。そして、昭和31年4月にアメリカ本土に帰国している。つまり、彼は19歳から21歳までの3年間を日本で過ごしたことになる。彼の仙台の回想エッセイにも書いてある通り、仙台大空襲で多大な被害を受け、その復興途中にある仙台には大きな建物はあまり無く、札幌と比較しても小さい印象を受けたようだ。札幌の基地や町中の風景を撮影した写真や旅行をした際の東京や鎌倉の写真も少なからずあるが、圧倒的に仙台の写真が多い。
まずは彼の生い立ちから話す必要があるかもしれない。実は彼の幼年期や十代の青年期は決して恵まれたものだったとは言えない。彼の両親は彼が幼い頃に離婚したため、一人っ子であった彼と母親は、母親の働きで生計を立てなければならなかった。しかし、母親の仕事もある一定の場所で一定のものではなく、引っ越しを繰り返すことを余儀なくされた。そのたびに彼は転校しなければならず、転校の挨拶で自分の名前を名乗るたびにいつも同級生に笑われたという。そういったことから引っ込み思案な性格になると共に、自分の名前に対して強い劣等感を持つようになっていった。
札幌にいた頃は単なる一兵士で、一人の人間として受け入れられたという印象がなかったが、仙台に来て初めて一人の人間として扱われているように感じたと回想で述べている。アメリカ本土で劣等感に悩まされていた彼が、それに打ち克つための土台を作ったのが仙台での2年間の生活だったのかもしれない。
当時の仙台の人々の生活は川内キャンプでの彼らの生活と比較して、決して豊かなものとは言えず非常に貧しかった。しかし、仙台の豊かな自然、青葉城趾や瑞鳳殿跡地に代表される長く培われた歴史と伝統、寺社と鳥居等に代表される日本建築の伝統美等が彼を魅了し、多くの写真を撮影したと想像出来る。仙台の人々はこれらのものに精神的に支えられて、必死に戦災から立ち上がろうとしていると彼の目には写ったに違いない。
彼はこれらの写真を将来、営利目的に使おうと思って撮影したものではないと思われるのは、1999年に初めて河北新報に自分の写真の存在を伝えるまでは何の動きもしなかったからである。彼がこれらの写真を営利目的に使おうと思えば、当の昔に使っていた筈である。また、滞在した当時の仙台の様子を考えると、彼も仙台市が100万都市としてこれ程発展しているとは露にも考えなかったようで、僕が現在の仙台の写真を撮影して送るたびに、別な意味で何か寂しいという感想をもらしたことがある。だから、仙台にはまだ変わっていない所も沢山あると伝えるつもりでそれらの写真も彼に送った。
彼はアメリカ本土に帰ってから、自分の家の裏庭に水の流れる池、小さな橋と石灯籠のある日本庭園や木造の板塀とくぐり門のようなものも自分で作っている。これらのことから、日本での生活と文化がどれ程彼に影響を与えたかが分かる。彼はその後、学校の先生やある民間会社での研究開発に携わり、後に自分でウェッブデザイン会社を経営するなどして成功を納めた。また、25冊以上の本の著者となっており、その内の一冊は百万部数以上の売り上げを記録した。
日本を離れた43年後の1999年(平成11年)に、彼は若い頃に日本で撮影した多数の写真の入った段ボールがあることに気付いた。
このことがその後の全ての物語の始まりとなった。
2003.02.21
○脳ドック
脳ドック。人間ドックではない。ある日、簡易脳ドック検診事業のお知らせ回覧が僕の所に回ってきたので興味半分に申し込んでみたら、定員80名でそれ以上の希望者がいれば抽選となるというが、その抽選に当たってしまった。今年の1月6日から2月28日までの間に、各自が自分の都合の良い検診日を予約することになっていたが、結局、僕の予約日は期限ぎりぎりの2月27日になってしまった。
脳ドックとは何かというと、MRI(脳断層撮影)、MRA(脳、頸部血管撮影)と身体・体重計測で、指定された病院は青葉区木町通二丁目にある医療法人仙台星陵クリニックである。午後12時30分の5分前までに受け付けを済ませ、自筆署名の申し込み書と健康質問表を提出した後更衣室で専用着に着替え、検査を待つこととなった。身長と体重測定後に、担当者から検査の最中、工事現場の中にいるような音がするので綿の耳栓をするように言われた。MRI機器のベッドに横たわると、体と首がベルトで固定された。その後は工事現場の中にいるようなガンガンという連続音がし、途中で「半分まで終わりました。」という担当者のアナウンス。「あと残り3分間で写真を撮影します。」という再度のアナウンスがあった。この20分間、身動きしないで目をじっと閉じているのは結構しんどかった。結果は2週間後に通知されるという。
今回はクリニックの駐車スペースに対する不安とこの周辺をデジカメで撮影したいという気持ちからバスで行くことにしたが、強く寒い北風のせいで、写真を撮る気がなくなっていた。予約の時間まで余裕があったので、この周辺を歩き回ることにした。木町通小学校の従前の校舎は約半分が解体され、新しい校舎が建築中だ。
ところで、僕が一番気に掛かっていたのは、やはり木町通商店街の衰退である。北一番丁から北四番丁までの木町通商店街を歩いてみたが、かつて通りに面して連続して立ち並んでいた活気のある商店街は今はその面影すら無く歯が抜けた状態で、空地はほとんどが駐車場になっている。中心市街地から郊外地への人口の流失で商店街の存在価値が薄れ、郊外地に立地した大型店との過当競争もあり、地盤沈下していった地元商店街。しかし、こういった空地の高度利用化により現在生まれているのが皮肉にもマンションであり、中心市街地への新たな人口流入を生んでいる。
ここには僕の気になる店があり、今日の昼食はここに決めていた。木町通と北三番丁の角のライオンズプラザ西公園通の一階にある蕎麦屋「揚次(あげじ)」である。この店は僕が小学生の頃は単独店で、何度かコロッケを買ったことがある。今日は天ぷら蕎麦を注文したが、この店は単なる蕎麦屋ではない。僕がこの店を意識した当時から店頭でコロッケを売っている。僕が蕎麦を食べている間も、店内の客がコロッケを追加注文したり、店頭にタクシーでコロッケを買いにきた客がいたりした。その後もコロッケを買い求めに来る年輩の客がひっきりなしだ。この光景を見ていて僕が思ったのは、衰退する商店街の中で生き残る力とは「この店は皆で残そう、残すべきだ。」という人々の意識を生み出すことではないかということだった。
仙台星陵クリニックを離れ、木町通と北四番丁交差点の横断歩道を渡り、西に大学病院前バス停に向かう途中の左側に、モデルルーム公開中というのぼりがあった。この新しいマンションが建った場所には、以前セントキャッスルというホテルが建っていた。しかし、僕が小学生の頃には「森末旅館」というのが建っていて、僕は通り沿いのガラス張りの作業場でシュウマイか肉饅頭を作っている職人を通りすがりよく見ていた。
この「森末旅館」、実は現在テレビで活躍中の森公美子さんが生まれ育った場所である。
2003.03.01
○タバコ
3月6日の息子の公立高校入試の日、願を掛けて突然禁煙することにした。タバコは昼食後の一服が最後となった。
僕が本格的にタバコを吸い始めたのは大学生になった頃なので、もう30年間もタバコを吸っていたことになる。最初に「セブンスター」、その後「ハイライト」、「ショートホープ」を経て、最終的に「チェリー」に落ち着いた。当時確か一箱の値段が150円前後だったと思う。
ところで、現在の職場も当然全面禁煙で、タバコを吸いたくなったら喫煙コーナーや湯沸室の脇まで歩いて行かなければならず、これも逆に運動になって良いと思っていた。しかし、喫煙コーナーといっても、壁には禁煙を呼び掛ける3枚のポスターが貼られており、禁煙の効用が次のとおりうたってある。
@肩こり、冷性、腰痛が改善する。
A肌のつやが良くなる。
B食事がおいしくなり、咳や痰が減る。
C病気が激減する。
D10年間で100万円を貯蓄出来る。
結果的にはこれらの効用が禁煙を始める動機の一部になったのだが、僕の場合、一年間の禁煙で約18万円の貯蓄となる。
3月12日の合格発表の日に息子から電話が入ったのは、発表開始時間の午後3時から1時間もたって半分諦めていた頃である。「桜咲く。」
さて禁煙も今日で丁度25日間続いたことになるが、当初予想していたほど煙草を吸いたいとは思わない。
息子の入学試験とその結果が、結局禁煙する良いきっかけになった訳である。
2003.03.31
○昭和30年当時の仙台
僕が当時住んでいた家から同心丁通りを南に歩いて下ると左手にアメリカ陸軍病院がある。当時錦丁の市電通りに面してあった映画館の名前は「錦映画館」で、位置は仙台市電の錦丁停留所の北側だ。また、その停留所の南側の角には「ナイトスポット蘇州」があり、これをエイブラハム・リンカーンは撮影した。それから、多分住職が出前を取った蕎麦屋は「家福そば」で、蘇州から西にしばらく行った角にある。
今度は、東一番丁通りを定禅寺通り側入口から、南に下ってみる。左に三越デパートを見て過ぎると左角に「味一番」がある。さらに下ると現在東映ビルがある場所には「新東宝映画劇場」が、その向かいのフォーラスのある場所には「日活映画劇場」がある。広瀬通りを渡り、しばらく歩くと右手に「キリンビアホール」が見えてきて、直ぐ左手に「井ヶ田茶舗」がある。さらに進むと右側に藤崎シルバーマートが見えてくるが、この間の東一番丁をエイブラハム・リンカーンは撮影した。「フタバ薬局」は、東一番丁通りを挟んで「藤崎デパート」の丁度西側にある。青葉通を渡り、右手に「大一楽器店」を見ながら進むと右手に「中央劇場」があり、さらに進むと松竹会館の場所には「文化劇場」がある。
国分町周辺に目を向けると、エイブラハム・リンカーンが生まれて初めてピザを食べたというレストランは、多分日本銀行仙台支店の北側ブロックにある「ステートサイド・レストラン」という所だろう。
木町通商店街の通りは両側にぎっしりと商店が立ち並んでいて、なつかしい洋菓子店、酒屋、美容院の名前に混じって「森末旅館」と「揚次そばや」の名前も見て取れる。
今こういった街並みを話せるのは、僕がタイムマシーンに乗って昭和30年当時の仙台に戻ってきたからではない。当時の仙台の住宅地図(手書)をたまたまネット上で見つけ、それを基に通りを巡ってみたのである。これは、当時の仙台市内の状況を知る上で非常に貴重な資料なのだが、サイトへのアクセス数は不思議なことにそれ程多いという訳ではない。
ところで、2000年8月に定禅寺通沿いに完成し、翌年1月に開館したガラス張の建物がある。建築家磯崎新氏が審査委員長をつとめた設計競技で最優秀案に選ばれ、伊東豊雄建築設計事務所が設計した「せんだいメディアテーク」である。スチールのチューブの集合体で床を支える独特の構造が斬新で世界からも注目を集めた。
この昭和30年当時の手書の住宅地図、実はこの斬新な「せんだいメディアテーク」のホームページの関連サイトの「せんだい時遊マップ」に存在する。
2003.04.20
○青葉城と荒城の月
滝廉太郎が作曲したあの名曲「荒城の月」の作詞は、仙台市出身の詩人土井晩翠(つちい・ばんすい後にどい・ばんすい)(1871‐1952)の手による。明治31年に誕生したこの曲は、滝廉太郎が故郷大分県竹田市の岡城を偲び作曲したと言われているが、一方の土井晩翠は福島県会津若松市の鶴ヶ城と仙台の青葉城を思い浮かべ作詞したと言われている。
思い起こしてみると僕が小学5,6年生の頃に、大分県竹田市内の小学校のある一人の生徒と木町通小学校の一人の小学生HK君がそれぞれの学校を訪問するという何かの記念事業があり、僕達は青葉城趾の「荒城の月」の歌碑の前に集合してこの歌を歌った記憶がある。
仙台市立木町通小学校の東側には晩翠通という南北に走る通りがあるが、僕が小学生の頃は細横丁と呼んでいた。それは今でも北四番町から北に延びて仙台市立第二中学校にぶつかる細い道があり、戦前はこの細い幅の通りが南北に走っていたからだと聞いていた。この通りと青葉通の交差点近くには、土井晩翠が晩年を過ごした家屋「晩翠草堂」があるので、彼の名にちなんで名付けられたのだろう。
ところで、僕の娘は今仙台市立栗生小学校に通っている。僕の息子は仙台市立栗生小学校、仙台市立広瀬中学校、そして今春宮城県宮城広瀬高等学校に入学した。僕の小学校、中学校、高等学校も含めてこれらの学校には一つの共通点がある。僕と子供達の全ての学校の校歌に「広瀬川」の字句が含まれていることだ。
青葉の山と広瀬川 高いほまれの藩祖公
三百年のおんかたみ 眺めて日々に励みましょう
これは僕の母校の仙台市立木町通小学校の校歌の二番の歌詞であるが、作詞者は実は土井晩翠である。
2003.05.02
○写真展
速報展「エイブラハム・リンカーン写真展」が仙台市宮城野区五輪にある仙台市歴史民俗資料館で開催された。4月8日の市長定例記者会見で4月25日から5月11日までの期間に写真展を開催する旨の発表があったので、地元の放送局や新聞は一斉にこのことを報道した。
リンカーンファンクラブのメンバーから4月26日(土)に一緒に見学しましょうという誘いがあったのだが、丁度その日は息子の高校の授業参観・PTA総会と重なり、結局僕が出席することになったために参加出来なかった。だが、丁度一週間後の5月3日(土)に家族で県立加瀬沼公園に行こうということになり、途中立ち寄り妻と娘の三人で一緒に見学した。
仙台市歴史民俗資料館は仙台市の東方に位置する「榴岡公園」という公園の一角にあり、仙台では西に位置する「西公園」と並んで桜の花見で有名な所である。この公園の南側には仙台市と石巻市を結ぶJR仙石線の「榴ヶ岡駅」があるが、リンカーンも立ち寄り多数の写真を撮った「松島海岸駅」もこの路線にある。この路線は以前全線地上を走っていたが、踏切による交通渋滞解消のために仙台市内の一部路線が地下化された。仙石線の終点駅である「あおば通駅」も青葉通の真下に作られることになり、工事期間中の青葉通のケヤキ並木が伐採か移植かの大論争を招いたことがある。この論争は、地下鉄東西線プロジェクトの際にも再度巻き起こっており、リンカーン氏も関心を持って見守っている。
ところで、仙台市歴史民俗資料館は県内最古の洋風木造建築であり、これまでの歩みは次のとおりである。明治6年(1873)に仙台は日本における6鎮台の一つとなり軍都の性格を帯びることになるが、明治6年にこの公園一帯に歩兵第四連隊が設置され、兵舎が明治7年(1874)に竣工している。それらのほとんどが解体されたが、そのうちの一棟が現在地に移築、明治当時の外観に復元保存された。くしくも終戦後は一時米軍も駐留したという。もし、この地に仙台城が建っていたら仙台はどのようになっていたか。リンカーン氏も青葉山に登り仙台市街の写真を撮ることもなかっただろう。
この榴岡公園一帯は、実は伊達政宗が岩出山から仙台に移り住む際に城を築く第二の有力な候補地であった。
2003.05.15
○2003年の夏
5月26日の夕方に南三陸沖を震源とする地震が宮城県であり、県北の各地で震度6弱を記録したところもあったが、幸い特に大きな被害はなかった。その時点でその丁度2ヶ月後に地震がまた宮城県を襲うことなど誰も考えなかった。
今年の7月は気温が低く、雨や曇りがちの日々が続き梅雨明け宣言の遅れが気になっていた。そんな天候もあって、第85回全国高校野球選手権大会の宮城県代表を決める県予選も雨天延期と変更を繰り返し、関係者もやきもきしていた。そんな矢先の7月26日の真夜中、朝方、そして夕方と震度6クラスの地震が3度も宮城県の各地を襲った。被害は、震源に近い鹿島台町、南郷町、鳴瀬町、矢本町と河南町の5町が特に著しく、全壊、半壊そして一部破損の建物数は数千棟にものぼった。
8月2日に出された気象庁の南東北の梅雨明け宣言のあとの天候もぱっとしない状況であったが、今年の仙台七夕祭りは良い天候に恵まれ、例年通り3日間で210万人の見物客を集めた。僕は七夕祭りの最終日である8日に何とか都合を付けて家族と一緒に見物した。
エイブラハム・リンカーン氏のウェッブサイト「Sendai-Shi」の中に「Nikko」というコーナーがあり、その中に昭和29年(1954)に撮影された4枚の仙台七夕のカラー写真がある。これは、彼が撮影したものではなく、現在カリフォルニア州に住む彼の上司であった将校の奥さんジャネット・キャンベルさんから送られてきたものであり、彼女の了解を得て載せたようだ。このうち場所が判明したのは2枚で、1枚が三越デパート仙台店の七夕の飾り付け、もう1枚は現在も藤崎デパートの西側青葉通沿いにある「あさひそば本店」の前の歩道での七夕準備の風景である。当時の素朴な七夕飾りとその準備の様子がカラー写真を通して生き生きと伝わってくる。
仙台七夕祭りには「中央通」並びに「一番町通」を中心とした七夕の豪華な飾り付け以外に、定禅寺通で行われる動く七夕「七夕パレード」がある。これは、戦後復活した七夕祭りが他の2つの東北の祭りと比較して静かすぎて面白味に欠けるという批評に応えて僕がまだ子供の頃に考え出されたものである。当時は、市民が参加するタイプではなく、宮城ドレスメーカーの生徒達や自衛隊の隊員達が主にパレードの主役であった。この七夕パレードを見るのも、何十年か振りである。今年は僕の息子がパレードに参加するので見学することにした。
8月23日に全国高校野球選手権大会の決勝戦が行われ、結局東北高校は常総学院に不運にも敗れ、優勝旗はまたも白河越えをしなかった。過去の東北勢の活躍を思い返すと平成元年(1989)に仙台育英高校が決勝戦で帝京高校に敗れている。昭和44年(1969)にも青森県の三沢高校が決勝戦で松山商に敗れている。確かこの試合の当日、中学三年生の僕は西公園プールに来ていて、プールの屋外スピーカーから流れてくる試合の実況放送を聞いていた。
東北高校の準優勝は地震・冷夏と暗いニュースが続く宮城で一つの光明となった。
ところで、8月21日の夕方、急遽上司に呼ばれた。9月1日付けの異動の内示であった。
これは僕の2年5ヶ月間の単身赴任生活の終わりを意味することになった。
2003年の夏は本当に印象的な夏になった。
2003.08.31
○禁煙
煙草を止めてから昨日で丁度六ヶ月になる。全く苦しむことなくここまで来た。息子の高校入試の日に願をかけたことに始まる禁煙で結局9万円を貯蓄したことになる。当然人事異動で9月1日に赴任した現在の職場も事務室内は完全禁煙で、廊下の東西の端にある喫煙スペースにまで行って煙草を吸わなければならない。
禁煙から半年たった現在、煙草に対しては次のように感じている。今近くで煙草を吸われることは特に気にならないが、嗅覚が敏感になっているのか、喫煙スペースの残った臭いが非常に気に掛かる。また、煙草を吸っている人を見ると、子供の頃に感じたように無意味なことをしているように写ってしまう。さらには食堂等で食事を終えた人が一服して煙草の煙を周囲にばらまいている光景を見ると、食事をする場所はやはり禁煙にすべきだと思ってしまう。自分が長い間こういった事をしてきたことは事実であるが、事務室内で座って煙草を吸えない習慣から、食堂等の空間で煙草をふかすことに変な違和感を覚えていた事も確かである。
エイブラム・リンカーン氏も1996年(平成8年)3月11日の大動脈瑠の切除手術を受ける際に煙草を止めたと聞いている。確かに仙台に駐留していた頃の彼の写真の多くには、指に煙草を持った姿が写っている。1995年(平成7年)に何か違和感を覚えた彼が家族専属の医者に診察してもらったところ、大動脈瑠があり、風船を膨らますように日々腫れてきているという診断を受けた。その後、彼の凄まじい手術の経験から周囲に禁煙を薦めている。昨年末のエイブラハム・リンカーンのファンクラブの会合の一枚の写真に煙草を吸ってる僕の写真があり、彼から禁煙を薦められたことも煙草を止めるまでに至る要因の一つだ。僕は今まで一度だけ一人で海外旅行をしたことがあり、旅行先はアメリカのロサンゼルスだ。飛行時間10〜12時間の航空機内は当然完全禁煙で我慢に我慢を重ねたことがある。でも、これからは海外旅行で航空機で移動しても辛い思いはしないだろう。
1995年10月に僕はエイブラハム・リンカーン氏の祖国アメリカの地を初めて踏んだ。くしくも彼が大動脈瑠の宣告を受けたその年である。
2003.09.07
○当時の我が家
昭和36年に同心丁から引っ越した支倉町の家は借家だった。大家さんが古い家の奥に自宅を新築するので、古い家を誰かに貸したいということのようだった。引っ越しの当日も大家さんの家は工事中で、そこで働いていた大工さん同士の喧嘩で流れた鼻血は今でも脳裏に残っている。大家さんの家は木造で外壁はモルタルリシン吹付け仕上げであったが、僕の引っ越した家の外壁は下見板貼であった。2階建ての木造住宅であるが、前に住んでいた住宅は平家建だったので急な階段が印象的だった。その引越しの当日、2階で自分の学用品の整理をしていた僕は、何かを取ろうとして手をランドセルに突っ込んだ時に、中にあった鉛筆の芯が僕の爪の中に突き刺さってしまって、近くの渋谷外科病院まで行く羽目になってしまった。これも忘れられないエピソードの一つである。
その家の間取りは、1階が縁側付きの8畳の和室、6畳の居間、台所、便所、洗面所と風呂場で2階は8畳の和室一間であった。屋根は天然スレート葺きで、玄関の戸を始め窓は全て木製のガラス戸で他は障子や板戸であった。スキマ風か断熱材の無い壁のせいで、冬は非常に寒く、僕は蒲団の中で洋服をよく着替えた覚えがある。当時の我が家には個室はなく、ある意味でお互いにプライバシーの無い生活で、僕ら家族五人は1階の8畳間で一緒に寝起きした。2階は、借家にも拘わらず母が下宿を始めたので、東北大学の学生が二人も寝起きしていた。家には風呂場がなかったので、後から物置か何かを改造して風呂場にしたと思う。浴槽は当然木製で、石炭かコークスを熱源とし、最初は木か紙を燃やし火を起こした。家庭で出た紙くずで一杯になったクズ箱は夕方に風呂場に持っていかれ、風呂の熱源にと変わる。当時家庭で出た食事の残飯は、ブタ屋さんという養豚場の業者がドラムカンを積んだ小型トラックで各家庭を廻り回収していた。牛乳は牛乳瓶が毎朝、牛乳箱に配達され飲んだ後には回収された。典型的なリサイクルの時代で、家庭から出るゴミというものがあまりなかった。便所は汲み取り便所で、新聞紙の紙切れや黒っぽいソフト紙が紙受けに置かれていたと思う。エイブラハム・リンカーン氏の記憶にあるような農家の肥料としての回収はその頃は既に無くなっていたと思うし、仙台市の委託を受けたバキュームカーが定期的に汲み取りを行っていたと思う。その意味でのリサイクルは無くなっていた。
当時の家は、ガラスを除き殆ど全てが石、木、紙、藁という自然材料で作られていたのだ。このような材料が日本の調和された街並みの景観を形作っていたと言える。数種の風土に根ざした材料で作られていた日本の家屋をエイブラハム・リンカーン氏は美しいと言った。現在の住宅に使われている工業化された材料の材質、デザイン、色の種類の多さを考えると、調和された街並みの景観の実現はなかなか難しいと思ってしまう。
昭和40年代に欧米の住宅をまねて、子供室、勉強部屋という個室を作って子供に与えれば子供は勉強するだろうし、自立するだろうという妄想を日本人に抱かせてしまった責任は何処かにある。また、良いと考えられた工業化された建築材料と高気密化された住宅は、逆にシックハウス症候群を生んでしまった。
ただ、行政も手をこまねいている訳ではない。これからの住宅は、この逆を行って検証してみることも必要である。風土に根ざした材料を発掘してみる。子供室、勉強室というスペースを設けても扉を引戸にしたり、間仕切壁を無くして他の空間と一体性を持たせる。プライバシーをあえて無視してみる。家全体の部屋構成に壁とドアで閉じた空間を作らず、日本独特の連続性とフレキシビリティを持った空間にする。このことは、日本独特の夏の高温多湿という気候での「風通し」の良い間取り・空間へと結びついて行くことになるような気がするし、自然に思える。
ただ、一つの問題は、今の日本人が気持ち的に昔に帰れるかどうかということである。
男と女が出会い、結婚して家庭を持ち子供を作るが、子供は育て上げた後に離れて行き、家には老夫婦だけが残る。若い頃は誇りに思った広い庭の手入れや普段使用しない空室の掃除に閉口するという現在の日本の住宅・人生サイクルは何かおかしい。比較的流通しやすいマンションや極端なことを言うと賃貸アパートの方がまだ良いということになる。
支倉町の我が家の思い出は消えてしまった。僕の家も大家さんの家もさらにその奥の菊地さんの家も解体されて、今はその地に近代的なマンションが歴然と建っている。でも、僕の心の中にあるのは記憶の断片と居間の階段の脇にあった柱の声である。そこには鉛筆書きの僕の背丈の成長の記録があった。単なる一本の木材では無かった。
2003.10.06
○映画館
僕が住んでいた支倉町の北にある東北大学病院の前には、大学生の頃よく通ったパチンコ屋「タヌマ・ホール」や小学生の頃におもちゃを買った「丸金デパート」、そして、丸金デパートの裏には「コニー劇場」という映画館があって、「ゴジラ対モスラ」の総天然色映画や「鉄腕アトム」等の白黒アニメ映画をやっていた。
僕が痛烈な印象を持ち、今でも常に心に残っている映画というのは幾つかあって、それはその映画を見た映画館と不思議に繋がっている。「ウェストサイド・ストーリー」、「サウンド・オブ・ミュージック」、「エクソシスト」は確か当時現在の晩翠通にあった「東北劇場」で、「ある愛の詩」と「ジュラシックパーク」は仙台東宝劇場だったと思う。エイブラハム・リンカーン氏が仙台市に駐留していた昭和30年前後の頃、錦丁にあった錦映画館、東一番丁の中央劇場、文化劇場、日活劇場の他に「新東宝映画劇場」が現在の仙台東映ビルの所に建っていて、彼はそれを撮影した。先日仙台東映である映画を見たが、普通、ビデオ・レンタルショップで映画のDVDを借りて見て済ましている僕が映画館まで足を運ぶ気にさせる映画は多くない。
それは、トム・クルーズ主演の「ラスト・サムライ」である。
ハリウッド映画にしては、日本の自然美、建築美、季節の変化美や日本人の精神観念等の表現が不自然で無く、的確に捉えられており、魂が根底から揺さぶられる素晴らしい作品だった。また、画像表現は豪華さや華美な要素が無く地味でも、自然と調和した自己主張の無い色彩と形質には絶対的な実存感があった。
トム・クルーズの姿や気持ちの揺れ動きの中に、日本の自然観・人生観に身を任せた部分を見ているとエイブラハム・リンカーン氏が日本に来て抱いた気持ちと重なるようで、何か身近に感じてしまった。
また一つ、僕の心に永久に残る映画に出会った。
2003.12.19
○いとこの他界
今年の宮城県は5月と7月の二度にわたる大地震や十年振りの冷害等衝撃的な出来事が続いたが、僕も個人的には9月の人事異動や母親の乳癌の手術、叔母の骨折の手術がある等激動の年であった。しかし、年末に最後の衝撃的な出来事が待っていた。
入院していた6歳年下の従兄弟、僕の母の妹の長男が12月22日の深夜に42歳の若さで他界したのである。
平成12年になかなか直らない風邪を不審に思った彼が、医者の診察を受けたところ、肺のレントゲン写真の一部に影があり、精密検査をした結果、肺癌という診断を受けてしまった。摘出が非常に難しい場所にあった癌細胞ではあったが、10時間以上の手術で摘出に成功した。その後、一度だけ家族全員で見舞いに行ったが、彼は元気そうで、その後退院し、職場に復帰したと聞いていた。また、退院を祝して親族一同が仙台駅東口の中華飯店で会食をしたことがあった。叔母が息子が無事退院した後にこのような会食の場を設けることが夢だったと語ったこの一言が忘れられない。
今年の1月に体調不良を訴えた彼が、医者の診察を受けたところ、副腎に癌が再発、或いは転移していた。退院した後も数ヶ月毎の定期検査を受けていたにも拘わらず、途中で発見出来なかったのだろうか。
12月23日の通夜の席で、叔父が生まれてからこれまでの彼の生涯を気丈な口調で淀みなく語った。その途中、僕の脳裏に彼の子供時代が浮かんできて、上を向いてじっと目を閉じた。まだ若くして亡くなった彼も可哀想だが、残された年老いた夫婦も別な意味で可哀想だ。叔父・叔母には、仕事の関係で福岡県に住んでいる次男と首都圏に嫁いでいる長女がいるが、普段は遠く離れて住んでおり、向山の自宅には夫婦二人だけである。数年前に家の外装と内装の一部のリフォーム工事をし、僕がお手伝いした。一戸建ての家は、叔父の父が建てたと聞いている。3歳の頃に一時家族全員で岡山県に引っ越した彼だが、生まれたのはこの家である。
昭和36年からの彼と家族全員の様々な思い出が詰まったこの家で二人で暮らすのは辛い。
2003.12.27
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