ベトナム枯葉剤障害児医療支援と私の運動趣旨
(ベトナム戦争について)
米空軍によるベトナム戦争の枯葉作戦は1961年に始まりました。ベトナムのジャングル地帯や田畑に航空機から科学薬品を浴びせかけ、開放勢力食料現拠点の壊滅が狙いとされていました。 作戦は10年あまりの間休みなく続き1971年に終りました。
第2次世界大戦後に行わ れた最大の近代戦争でした。核以外のあらゆる新兵器が投入され枯葉剤も有効な新手段として採用されました。
ベトナムに散布された枯葉剤の総量は一億キロリットルと推計されています。それに含まれていたダイオキシン(2378−TCDD)は168キログラム(米空軍)から550キログラム
(A、H、ウェスティング博士)。
作戦ではジャングルに限らず上水源である河川や収穫直前の穀倉地帯にも散布したから、人々は食べ物や水を 通じても汚染を蓄積しました。兵士だけでなく女性や子供も迄が枯葉剤を浴びた結果、苦難は次世代にも、次々世代にも受け継がれる事になりました。
この四半世紀の間にダイオキシンのほとんどは海へ流出しました。 しかし人体に残留したものだけは時限爆弾のように蓄えられた儘です。枯葉剤の悲劇は、
こうした生態系の破壊にとどまらなかったのです。人間への影響は、作戦が終わりに近づく頃から顕在化しはじめ様ざまな皮膚炎、ガン、出産異常が現れました。
枯葉剤の中には猛毒ダイオキシン(四塩化ダイオキシン)がひそんでいました。1975年4月30日、ベトナムはホーチミン指導の下全土完全開放を勝ち取りました。
「アリが象を倒した」歴史的な忘れられない日と成りました。
(平和村とは)
ベトナム戦争で、枯葉剤を浴びた元兵士たちから枯葉剤障害児が生れました。戦後の混乱の中、ドイツNPO機関が率先してベトナム枯葉剤障害児を自国 へ引き取り、生活・治療に手を差し伸べてくれました。
1992年戦後17年、ベトナム国内情勢も落ち着きを取り戻し枯葉剤障害児治療や生活が出来ると判断した ドイツ政府とNPO団体は、ベトナム・ハノイタインスワン地区に「平和村」枯葉剤障害児施設を完成させました。ベトナム政府が土地を、建物はドイツ政府とNGO団体が「平和村」を誕生させたのです。
あれから15年「平和村」には退役軍人家庭から100余名の障害児が入所しています。ハノイ市入所審査で貧困家庭、 障害が重症で家庭で介護できない障害児、重症脳障害児、身体的歩行困難障害児、退役軍人の父が死去、母親が働かなくては経済的貧困家庭からの
障害児を収容する施設としてその役割を果たして来ました。
障害児たちは18歳に成ると「平和村」から卒業して行かなくては成りません。リハビリ・職業訓練 で技術を身につけて社会へ巣立つための準備をしています。女の子は(刺繍・編み物・手芸)男の子は、(木工・彫刻)等に挑戦し将来の道を選択するのです。
20歳に成っても卒業出来ない障害児もいます。ベトナム戦争後の惨い傷跡を今も引きずった現実がそこには有りました。
Copy
Right(C) ベトナム ハノイ「平和村」枯葉剤障害児支援の会 All Rights
Reserved
サイト内の画像と文章等の転載・二次利用を禁じます