「お水取り」の源流  
                 中井眞耶










 東大寺二月堂の修二会は、春を呼ぶ行事として、お水取りの通称で知られている。修二会の行は三月一日から十四日まで行われ、毎夜松明が僧を導いて上り、夜空にかざして振られる。これをお松明という。十二日深夜には、境内の若狹井からお香水を汲み、本尊の十一面観音にお供えするお水取りがある。その聖水は三月二日の夜に、若狹鵜之瀬の川岸から送られて奈良に届くとされ、お水送りと呼ばれている。お松明は全十一本が同時に舞台上に並ぶ十二日が有名であるが、一本ずつ上る六日の夜に東大寺を訪れた。


 夕暮の二月堂境内はすでに人でいっぱいであった。七時になると明かりが消され、静かな闇が辺りに広がっていく。ほどなく左側の階段下に、童子の持つ最初の松明が現れた。炎が移動して煙が流れ、長い竹の松明が僧を先導してゆっくりと上っていく。僧は練行衆と呼ばれ、人々に代って罪障を観音に懺悔し、国家安泰、五穀豊穣、万民豊楽を祈る行を勤める。
 僧が上堂してしまうと、空に高く上げられた松明は何度も振り回され激しく揺すぶられる。童子は舞台を端から端まで走り、欄干で空にかざし大きく回転させる。燃えさかる松明はあかあかと輝いて火の粉が空にはぜ、光の粒が空中に撒き散らされる。境内では歓声や拍手、時には悲鳴も上ってどよめいた。
 この火の粉を浴びると無病息災でいられるという。大きな燃え差しが落下するたび、待機していてすぐにそれを消しにいく人の様子が見える。やがて充分に振られて燃え尽きた松明は裏側に退き、その頃にはまた次の松明が階段下に現れておごそかに僧を導いていく。これが十回繰り返されるのである。
 この法会は七五二年、大仏開眼供養の年以来、どんな戦乱災害の年にも欠かさず行われてきたという。闇の中を奔る火の色を見ていると、心のうちに古が広がるのを感じた。古の所作が再現されることは、古代が呼び出されているのだと思う。千二百年を超える時の壁は消え、さらにさかのぼっていく。火によって浄化される古の空間がそこにあった。
 

 修二会は東大寺開山、良弁僧正の弟子のインド僧実忠和尚によって始められた。二月堂は実忠が建てたとされる。実忠は笠置山中の龍穴で修法を行ううち天界の兜率(とそつ)天に至り、そこで天人の行法を見てこれを持ち帰りたいと願い、地上で再現した。
 行の初日に実忠は神名帳を読み上げ、日本全国一万三千七百余座の神々を奈良に勧請したが、若狹の遠敷(おにゅう)明神(姫彦神)のみが川漁のために遅れ、修二会があと二日で終わるという十二日夜になって到着した。遠敷明神はお詫びもかねて二月堂の本尊に供える閼伽(あか)水を若狹から導いて献ずることを約束、すると地面を割って黒と白の鵜が飛び出し、清水が湧き出てきた。これが若狹井である。
 修二会は火と水の行といわれ、兜型帽子の僧が、燃える松明を床に叩きつける達陀(だったん)行、裸足の僧が内陣を走る行などもあって謎めいている。火も水もともに強い浄化作用を持ち、火によって罪や穢れ、魔を祓い、怨霊を鎮め、水によって清めていく、そういう思想が背景にあるのだろう。火を尊ぶペルシャのゾロアスター教の影響を指摘する説もある。


 七二四年に始まった聖武天皇の治世は、政変、疫病、大地震、干ばつ、飢饉が相次ぎ平穏ではなかった。七二九年には長屋王の変が起き、長屋王と妃の吉備内親王(聖武天皇の叔母)、三人の息子たちが自害、一族は滅ぼされてしまった。これは藤原氏の娘である光明子の立后に長屋王が異を唱えたため、藤原四兄弟による謀略で排除されたとみられている。光明子は半年後皇后となるが、その後は子宝に恵まれなかった。七三七年には天然痘が流行して、長屋王を陥れた藤原四兄弟が病死、東北では蝦夷がたびたび反乱を起こし、七四〇年には九州で藤原弘嗣の乱が起きた。
 七四〇年、奈良の都から逃れるように聖武天皇は平城京を出て、恭仁京、紫香楽宮、難波宮へと目まぐるしく遷都し、新たな宮の造営と放棄を繰り返し、七四五年になってようやく平城京へと都を戻した。
 都では相次ぐ災害や疫病の流行を、長屋王一族の祟りと感じて怖れた人が多かったことだろう。誰よりも、讒言に動揺して長屋王の心を疑い、断罪を承認した当の聖武天皇、そして利を得ることになった皇后の不安や恐怖は大きかったと思われる。たとえ平城京を離れてどこへ都を遷したとしても、死者や怨霊の影はつきまとう。二人は悩んだのではないだろうか。そのためにも、非業の死をとげた貴人のみたまは、よく鎮められなければならなかった。
 仏教に深く帰依していった聖武天皇は、仏法が国を護るという鎮護国家の思想にもとづき七四三年、「大仏造立の詔」を出した。行基らの協力もあり、七四九年には大仏鋳造が終了、多くの金、水銀、炭も集められ、仕上げとして鍍金(めっき)が行われた。金をそのままでは塗装できないので、水銀を混合して柔らかい金アマルガムを作る。それを仏像に塗って炭火や松明で加熱、水銀を蒸発させると金が定着するのである。ただその際に出る水銀蒸気は有毒で、多くの工人が犠牲になり水銀中毒に苦しんだと思われる。
 

 童子は長い松明を持って二月堂の舞台を走り、高くかかげて回転させる。念入りに繰り返される所作を見ていると、それは火によって魔の侵入を防ぎ、空中に結界を作っていく呪術なのであろうが、ごく単純に考えれば、大仏に鍍金をほどこした折の工人の手つきや作業の一端が思われるのであった。
 危険きわまりない大仏鋳造作業の段階から、事故による犠牲者は続出していたことだろう。加えて廃液など重金属汚染のために中毒患者は増え続け、汚染は東大寺内にとどまらず、洗い流すのに使用した大量の水は地面に染み込み川や井戸を汚し、次第に下流にまで被害は広がっていったと思われる。
 修二会の行の中で、若狹遠敷川の神と特別に神約を交わし、その清らかな水の持つ霊力に触れることによって都を浄化しようとはかる。実忠はそう考えたのではないだろうか。若狹山中を流れる聖水が地下を通って奈良に届き、二月堂の井戸にこんこんと湧き出てくる。それは宗教的幻想であったかもしれないが、きれいな水を求めても得られなかった都の人々の、共感を呼ぶ発想でもあったろう。
 実忠が笠置の洞窟で幻視して獲得し、下界で再現してみせた行法は、不安におののく工人たちの心を静めるのに役立ったかもしれないと思う。大仏開眼時には、鍍金はまだやっと頭部のみで、大仏は未完成であった。実忠による天界の行法が始まったとき、それが大仏鍍金作業によく似た所作を伴うものであったことに、人々は気づいたはずである。工人は火の粉を防ぐために兜型の帽子を被り、長い松明をかざして大仏に近づけ水銀を飛ばしていたことだろう。現実に強いられる苦行にも近い過酷な労働を、天界の菩薩の行に通じるものと聞かされ、大仏完成に殉じる尊さも説かれ、工人らは心を奮い立たせて、つらい日々を乗り超えていったのではないだろうか。


 気がつくと、十本のお松明は終了していた。境内に明かりが点ると、古代から立ち戻ってふと我に返る。人が少なくなった頃を見はからって、境内にある若狹井を訪ねてみた。けれども若狹井は閼伽井屋という建物の中にあって鍵がかかり、一般人は見ることができないのであった。建物の屋根の両端には、伝承にちなむ鵜をかたどった鳥の飾り物が乗せてあった。
 崖の上の二月堂へと上ってみる。焦げた匂いがまだ立ち込めている斜面で、松明の燃えかすを拾う人がいた。護符になるので家に持ち帰るという。お堂の暗い内陣では勤行が続き、格子の外の畳敷に坐り込んだ人たちがじっとその様子を見守っていた。法会は夜中まで行われるという。舞台に出て手すりにもたれ、眼下に広がる奈良の町の夜景をしばらく眺めた。冷たい夜風が吹き降ろしてきて空気はしんとしていた。
 

       *


 月が代り四月になっていた。福井県小浜市を訪ねて、お水送りが行われるという若狹神宮寺、遠敷川上流の鵜之瀬の川淵を歩いてみることにした。小浜駅からはコミニュティバスを利用し、山中に入っていった。
 神宮寺に着くと、寺院の背後には神体山が望まれ、境内では満開の枝垂れ桜が風に揺れていた。左手には樹齢五百年という椎の大木が枝を広げ、傍らには閼伽井戸があって自由に見学できた。二箇所の岩の間から絶え間なく清水が沸き出ている。お水送りの際、ここから水を汲み上げて本尊の薬師如来にお供えし、そのお香水を三月二日の夜に、鵜之瀬の川岸から流す儀式を行うという。そっと両手に受けてみると、冷たくておいしい水であった。
 しめ縄の張ってある本堂で僧侶の説明を聞いた。古からの約束を守るため、お水送りは一度も欠かさず行い、東大寺と同様に修二会も達陀行も営むという。
「ここでは拍手を打って、仏さまを拝んで下さい」と言われたので、そのようにした。神仏習合の信仰のかたちが今も生きているのだった。
「若狹は日本海に面し、古来渡来人が行き来する町で、若狹に伝えられた大陸の宗教や先進文化が、都に伝播されていった歴史があり、その文化の流れを地下水脈に託し、なぞらえたのが、お水送りの持つ意味でもあるのです」と話されたのが印象的であった。
 お寺を出て、一・八キロ上流の鵜之瀬まで歩いていった。遠敷川にかかる橋を渡ると、若狹彦と若狹姫神を祀る白石神社があり、辺りには湿潤な空気が漂っていた。たたずんでいると、川からなのか背後の森からなのかわからないが、独特の冷気が流れてくる。境内には椿の木が群生し、真紅の花がほの暗い緑の森に灯を点したように咲き乱れ、足元にも散っていた。その出自には諸説あるといわれるが「良弁和尚生誕の地」と刻まれた石碑も橋の近くにあった。
 遠敷川は清らかに澄んだ流れであった。水辺は公園風に整備されて資料館まであり、歴史が解説されお水送りのビデオも見られるようになっていた。
 川原を歩くと、大護摩を焚いた跡がまだ残っていた。お水送りの行われた岩を探し、ようやく対岸で見つけた。その岩には縄や松明の燃えかすがそのままあった。かつては寺院関係者のみの秘儀であったというが、今は多勢の人が松明を捧げ持って神宮寺からの行列に参加し、川原で儀式の一部始終を見守るという。
 三月二日の夜、山伏姿の行者が並んでほら貝を吹き、松明をかざして川面を照らす中、白装束の神宮寺住職がここに立ち、岩から身を乗り出して竹筒の聖水を川に注ぎ入れる。それは十日かけて奈良に届き、二月堂の若狹井で汲み上げられて観音に供えられる。
 そっと水面を覗き込むと、白く泡立つ瀬が間近にあり、流れは川下に行くに従って深くなり、ゆるく渦を巻いているのが見てとれた。眺めているとすうっと引き込まれそうであった






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