穂高神社と安曇族



 穂高神社は信濃三宮の古社で、安曇野の中心地穂高にある。穂高駅の近くに建つお社は本宮(里宮)で、奥宮は上高地明神池の畔にあり、奥穂高岳の山頂には嶺宮があるという。穂高神社は北九州から移り住み、安曇野を開拓した海人族安曇氏によって奉戴されたお社とされる。創建時期については不詳。古代の海人族の移動や内陸部への定着の時期についても四世紀から六世紀、あるいはそれ以前、という説もあり定かではないそうだ。


 JR大糸線穂高駅に降り立つと、真夏の眩しい日差しが照りつけてくる。駅前にある貸自転車屋に立ち寄り、電動車を借りて神社など市内の遺跡を回ることにした。
 駅から三分ほどで穂高神社へ。社殿は東向きに鎮座。境内は広々としていて大木が茂り、暑い日中のせいかお参りの人も少なくひっそりとしずまっている。神楽殿にはたくさんの奉納風鈴が吊るされ、吹き抜ける風に揺れて涼しげな音を立てていた。神社ホームページによると、風鈴の音色には魔よけの力があるのだとか。
 祭神は三柱で主祭神は穂高見命(ほたかみのみこと)、亦の名は宇都志日金析命(うつしひかねさくのみこと)。綿津見命(わたつみのみこと)と瓊瓊杵命(ににぎのみこと)を併せて祀っている。穂高見命は綿津見命の子神に当たり、豊玉姫、玉依姫とはきょうだいの関係。綿津見神は海神で安曇氏の祖神とされ、その本拠は福岡県志賀島という。


 安曇(あずみ)族は海人族で、古代では宗像族、住吉族とともにその名を知られた一族であった。渡来系の漁労集団ということであろうが、海上交通、海外交易、水運、航海術に長け、時の政権とも結びついた存在であったと推測できる。これら海人族は古には北九州の海域を支配していたとみられ、日本書紀によると、神功皇后の新羅征伐の折には、各地の海人族の軍団が協力したとされる。皇后は外征に勝利して帰り着くと社を建て、また戦勝祈願して霊験のあった社に神田を定めるなどの褒賞を行っている。
 書紀には安曇族の社に関しての具体的な記述はないけれども、たとえば住吉族の奉じた住吉三神による神助が顕著であったので、神功皇后は長門、摂津などに住吉神の社を建て、神を祀り謝意を示しつつ大和に帰還していったそうである(西宮神社、住吉大社の起源 神功紀)。神話的に言えばそういうことになるだろうが、社を定めるとは、祭祀者とその氏族集団がそこに住んで祭祀権を得、神田を領有、社領とした地から山川の産物を得、海辺なら海上交通の支配権も持つということであった。
 北九州には宗像族の奉じる宗像大社、長門には住吉神社、また摂津の住吉大社などそれぞれの氏族の奉じる神々を祭神とする古社があり、創建由緒などをみていると、往時の事情がうかがわれて興味深いが、安曇族がどのようなかたちで時の政権と結びつき、またどの時代に本拠地を離れ日本各地に移動していったのかは文献にも載っておらず、その経緯も定かではなく、各地に残る地名や綿津見神を祀る神社、伝承、説話などからその足跡を推測するしかない。
 書紀に見える安曇族関連の記事としては、応神天皇の時代に、
「阿曇連(あづみのむらじ)の祖大浜宿禰(おおはまのすくね)を遣(つかは)して…因(よ)りて海人(あま)の宰(みこともち)とす」(応神紀)
とあり、漁民の統率者に任じられていたことがわかる。けれども時代が下り、履中天皇の即位時には、阿曇連浜子(あづみのむらじはまこ)という人物が、皇太子の弟の謀反に加担して捕まった。死罪になるところであったが減じられ、顔に入れ墨の刑を受けた。それで時の人は目のふちの入れ墨のことを阿曇目(あづみめ)と呼んだ。また浜子に属していた漁民も居住地の淡路から移されて労役に服した。(履中紀)
 

 安曇族の場合、難波に安曇江、また近江に安曇川(あどがわ)という地名があり、この地域に古には安曇族が住んでいたようである。また三河の渥美郡、伊豆の熱海など、各地に安曇由来の阿曇、厚見、安土などの地名が多く残っているという。信州の安曇野は地名もさることながら穂高神社という由緒ある古社も存在することから、安曇族が移り住み、開拓した地域として知られている。北九州から遠い信州の安曇野まで、どのようにして海人の安曇族の移住が行われたのかと思うが、移動は一どきに行われたわけではないだろうし、何世代にもわたって幾度も行われていたかもしれない。長旅の間には枝分かれなどもあっただろうし、季節によって辿る道筋も異なっていたのではないだろうか。長い時間をかけ、世代を超えて一族は新天地を求め、定着への旅を続けていったのではと推測される。
 大まかな住み分け地、という点でみれば、北九州の海域は宗像族の支配圏、畿内は住吉族の進出地、信州安曇野は安曇族の移住地ということになる。
 いつの時代とは特定できないが、定住を志向した安曇族は、信州の地に到達し、そこに住み着いたのであろう。考えられる経路は複数あり、一つは北九州を出発して瀬戸内海を通り畿内に達し、そこから琵琶湖に至りその後内陸部を進んでいった、または北九州からそのまま日本海に沿って北上し、姫川をさかのぼって信州に入った、あるいは瀬戸内海を経て渥美半島から天竜川をさかのぼっていった、などの説があるそうだ。一族が辿り着いたとき、安曇野の地はまだ一面の湖であったのか、それとも沼地であったのかはわからないが、湿地の水を抜いて干拓に心を砕き、陸地にして開拓に従事し作物を育てるなど苦労はあったことであろう。
 穂高神社の境内には、動物に乗って右手を突き出し、水の上を進んでゆく少年像がある。これは「犀龍に乗った少年」で土地の干拓にまつわる「小太郎伝説」に基づく像という。少し紹介してみよう。


…安曇野がまだ湖であったころ、安曇に住む犀龍と高梨に住む白龍王との間に男児が生まれ、日光泉小太郎と名づけられた。小太郎が成長するにつれ、母の犀龍は自分の姿を恥じるようになり、湖に身を隠した。小太郎が母を慕って尋ね歩くとようやく再会がかない、母は「自分は諏訪明神の化身」と告げた。そして小太郎を背に乗せると、大岩に体当たりして岩を突き破りつつ日本海まで進んでいった。そのおかげで湖の水が流れ出てゆき、安曇野は平野に変わったという。犀龍が進んでできた川を犀川という…。


 これは昔話「竜の子太郎」のもとになった話だという。犀川、犀乗沢、尾入沢など伝説に関連する地名も残っていて、古代の干拓の痕跡を伝える説話であるらしい。穂高神社の境内にこの像が設置されているのは、古に安曇氏が安曇野を開墾したといわれており、少年が穂高見神の化身とも伝わることからであるという。


 安曇野に残るほかの伝承もみてみよう。穂高見命の妹の八坂刀売(やさかとめ)という女性が建御名方命(たけみなかたのみこと)の妻になったと伝えられている。妹ではないという説もあるようだが、安曇一族の女性ということで考えてみる。建御名方命は諏訪地方の古の支配者で、諏訪大社(信濃一宮)の祭神、妃の八坂刀売神とともに諏訪大社の上社(本宮、前宮)、下社(春宮、秋宮)で祀られている。
 建御名方神は、大国主命と高志(越)の奴奈川姫の間の子とされ、書紀、風土記には出てこない神である。出雲の国譲りの際に、天孫側の武神、武御雷(たけみかづち)神と戦って敗れ、諏訪に逃げ込んだ、と古事記にのみ記述されている。諏訪の側の伝承によると、建御名方神は侵入者であり、先住者の洩矢(守矢)神との領有争いに勝ち諏訪を支配したとされる。これが史実であるのか、そうでないのかは意見が分かれるところだが、一応伝承をもとに考えてみると、建御名方神は武御雷神に追われ、母親の故郷に向かったとされている。すでに安曇野一帯は穂高見の一族が占有しており、安曇族と新たな勢力争いをするよりは、穂高見の妹を娶って和議を結ぶ道を選んだ、と考えるのが自然かもしれない。ちなみに建御名方軍と安曇一族とが戦ったという伝承はないという。古代では首長の娘や姉妹が対立する相手方に送られるのは、服属儀礼や和睦、同盟の証というかたちが多かったと思うが、この場合はどうだったろう。
 記紀によると、出雲での国譲りはかなり古い時代のように記述され、あたかも神武天皇の大和侵攻以前の出来事であるかのようにも読める。そうなると建御名方の諏訪への敗走、侵入も相当古いことになってしまうのだが……。時代のことはさておき、伝承によると建御名方命は八坂刀売を娶り、多くの子ども(二十二柱)をもうけたとされている。
 建御名方軍は諏訪地方に入る際、先住の洩矢軍と争ったそうである。いきなり戦に突入したわけではないらしく、交渉、説得、懐柔と色々手を尽くし、戦闘もしたが決着がつかず、現在の岡谷市の辺りで天竜川を挟み、建御名方神は藤蔓(藤の枝)で、洩矢神は鉄器(鉄輪)を携えて対峙したという伝承が残っている。対決の結果は藤蔓の勝ちで、諏訪地方は建御名方神の支配下に入ったそうである。
 藤と鉄の対決というのも変であるが、金属ではなく植物の勝ちというのも妙な話なので、このことについて少し調べてみた。


「播磨国風土記」に新来の神と、旧来の神が土地の領有を巡って争う話が載っている。天日槍(あめのひぼこ)神は外来神で、住む所を求めて海路播磨に来て上陸し、勢力を伸ばしてゆき、先住の伊和大神(大国主神)と国争いで武力衝突を繰り返す。勝負がつかず、双方は藤無山(志爾嵩)という高い山の上に立ち、黒葛を足に着けて三本ずつ投げ、その落ちた場所で領有地を決めることになった。
 天日槍の投げた黒葛は但馬側に落ち、伊和神の黒葛は宍粟郡、つまり播磨の側に落ちたので、それぞれの地域を治めることになった。ある文献によると、投げる際、本当は藤の蔓が欲しかったのだが、一本も見つからなかったので、この山が藤無山と呼ばれるようになったと伝えられている。


 この逸話の意味は、新旧両勢力の争いは、武力ではなく神意による占いによって決着したということらしい。国占めの争いは力ではなく、最終的には土地の神霊の裁定による「うけひ」によってなされたという点に注目したい。天日槍軍はこの裁定を受け入れ、播磨から手を引いて但馬へと去っていった。そこでもまた新たな揉め事が起きた可能性はあるが、天日槍は但馬で土地の首長の娘を娶り、子孫を残したと伝承されている。


 このことから考えると、諏訪の場合にも少し類似点があるように思われる。用いたのが藤蔓というのにも何か意味があるのかもしれない。


 古事記の応神天皇の項に載っている別の藤蔓の逸話もみてみよう。
 秋山下氷壮士(あきやましたひおとこ)と春山霞壮士(はるやまかすみおとこ)の兄弟が、伊豆志乙女を得ようと競い合った。母親は弟のために藤蔓を用いて一晩で弓矢や衣装を縫って着せ、妻どいに送り出した。相手の家に着くと、藤蔓は藤の花や枝に化したので乙女の心を惹き、乙女は枝を手に取って部屋に持ち帰ったので婚姻が成立した。(古事記)


 藤蔓は蛇体に似ているし、どこか蛇神のかたちを連想させ、藤に籠る霊力が期待されたのかもしれない。藤は神霊が憑きやすい木であるとか、藤蔓には特別な呪力があると考えられていたのではないだろうか。


 諏訪の文献によれば、建御名方と洩矢の戦いは「藤蔓の鎹(かすがい)と鉄の鎹による争い」であったとも。武器としての用い方を指しているのではなく、占い、呪物、呪的なもの、神意を問う方法として、藤蔓と鉄具の物が準備されたのではないかとも思われる。実際に兵士による攻防があったのは天竜川の岸辺だったかもしれないが、もし神占をするのであれば、特別な聖地、たとえば上社前宮の辺りとか、神聖な斎庭、斎場などで裁定が行われたのではないかとも推測できる。鎹を鍵と表現している諏訪の文献もあることから、神意を問うための物は、古代の社の門扉などによく使われた「海老錠」(たとえば藤蔓の海老錠、鉄製の海老錠)のようなものではなかったかと想像する。
 諏訪の文献には「明神(建御名方)は藤鎹を持ち、大臣(洩矢)は鉄鎹を以て此の所に懸け之を引く、明神即ち藤鎹を以て軍陣の諍論を勝得せしめ給ふ」また別の文献には「洩矢は鉄輪を持して競ひ、明神は藤の枝をとりてこれを伏し給ふ」などとあるそうなので、藤を曲げて作った物と鉄製の物とで神前にて「うけひ」を行い、領有に関して神意を知ろうとしたのではないかとも考えた。結果として鉄は藤に敗れ、侵入者は退けられなかったが、洩矢側は裁定に従って新しい支配者を受け入れている。やはり「うけひ」だったからではないだろうか……。どちらの物がすっと引いて早く開いたかとか、あるいは並べておいておみくじのように引いて藤が選ばれたのか、具体的な方法は素人なのでわからないが、どう考えても武器ではないように感じられるので、このようなことを空想してみた。


 穂高神社の境内には欅の大木が聳え立ち、たくさんの蝉が鳴いていた。一隅には白村江で戦死したとされる武装した「安曇比羅夫像」もあった。像の近くの木陰でしばらく休憩の後、穂高神社を辞して、近辺にある道祖神を訪ねることにした。道祖神はこの地域のあちこちにあるそうだが、あまりにも陽射しが強く暑さが厳しい日だったので、代表的なものだけにして後は割愛、「大王わさび園」を見学することにして、自転車を走らせてゆく。畑の中を抜けてゆく道には、のどかな田園風景が広がっていた。青々とした稲穂が吹く風にそよぎ、正面には長峰山が聳え、そして美しい山並みがなだらかに連なっている。


 わさび園の背後には犀川が流れ、園内を流れゆく蓼川の岸辺には水車小屋があった。黒澤明の「夢」第八話の撮影地で、とてもきれいな場所である。せせらぎを見ながら付近を散策し、黒い寒冷紗で覆われて冷たい水がゆきわたっているわさび田を見学の後「大王神社」と「大王窟」を訪ねた。
 古に魏石鬼八面大王(ぎしきはちめんだいおう)という賊徒がいて、坂上田村麻呂に討伐されたという伝承が残っているそうだ。大王の霊の蘇りを防ぐため遺体は分断され、園内には胴体部分が埋葬されたといい、大王神社として今も祀られている。その近くには大王が立てこもったとされる有明山山麓の岩屋を再現した「大王窟」「開運洞」もあった。洞窟はレプリカというが、入ってみると古墳の羨道のような感じであった。
 魏石鬼八面大王は実在の人のようだが、時代に疑問があるらしい。もっとさかのぼって考える説があるそうで、坂上田村麻呂に討伐されたのではないとするらしい。中央政権に抵抗したので賊徒とされてはいるが、それを否定する説もあり、いくつかの別々の時代の伝承が重なっている可能性もあるという。古に起きた何らかの出来事を語り伝えているのは間違いないと思うが、はたして民を思う善政の王だったのか、それとも悪徳の賊徒だったのか真相はわからず、謎めいた八面大王であった。
 
 わさび園を出て、穂高川沿いの道を戻っていった。とても気持ちの良い緑の多い道で、清流に沿って走っていると暑さを忘れた。この川は流れ下ると、やがて犀川に合流してゆく。


   穂高神社 奥宮 


 上高地河童橋の周辺は夏の観光客で溢れており、明神まで梓川の南岸の道を歩き始めたが、人の列は切れ目なく続いていた。小鳥の囀りを聞きながら爽やかな森の中の道をゆくと一時間ほどで明神に着く。明神館から北に進み、梓川に架かる明神橋を渡って、さらに木立の中を歩いてゆくと奥宮に至る。
 祭神は穂高見命。創建は不詳。由緒によれば、穂高見命は神武天皇の叔父に当たり、神代の昔祭神が穂高岳に降臨されたといい、上高地(神降地、神河内とも)の地名の由来になっている。祭神は当地方、山岳地帯、梓川流域、安曇地方を開拓され、明神池畔の現社地付近に居館があったという伝承もあるそうだ。神域は広大で明神岳(古の穂高岳の尊称)の偉容が間近に仰がれ、透明な水をたたえた明神池は景勝地となっている。
 ここは梓川の上流の地であった。梓川は槍ヶ岳山中にその源があり、横尾、徳沢、明神へと流れ下り、大正池を経てさらに下り、松本市内で奈良井川を合わせ、犀川と名を変えてゆく。
 安曇野の開拓に着手した古の安曇族は、おそらく犀川から梓川へとさかのぼり、さらに上流を目ざしたことであろう。安曇族は水源を求めて川をさかのぼったと推測できる。水が左右できるので、新たな入植者が土地を領有しようとする場合は、まず地域を流れる川の上流を押さえることが重要であったはずである。先住者や対抗勢力があった場合はなおさらで、先んじて上流に至り、そこを掌握した側が断然有利になるということである。
 川の上流や水源に近い地に神を祀り、加護を願う。豊かな水の恵みに感謝し、治水を祈る。そのような安曇族の祈願の聖地が当地であったのだろうと思う。

 奧宮のお社に参拝の後、明神池(拝観料が必要)を散策する。明神池は一の池と二の池があるが、水が澄んでいてとても美しい。その清冽さ、清浄感はほかに類を見ない。池水に木々が映り込み、背後に聳える明神岳の山容と相まって本当に見とれてしまうすがすがしさであった。あまりに清らかなのでしばらく放心して佇んでいた。透明感の漂う静かな情景だが、その中に怖いような厳しいような美も潜んでいるようで、何かしら畏れも感じられるのであった。
 
 
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