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その日、鳥口は眩暈坂の下に立っていた。 眩しさに目を細めながらじっと坂上を見つめる。 その先には何も見えない。ただ永遠に坂が続いているような錯覚。 異世界にでも通じていそうな気にさせるその坂は、それでもあの人の元へと続いている。 ――本当に辿り着くのだろうか。 ちゃんとあの人のところへ行けるのだろうか… 不思議な世界へと誘われるのではないか、などという馬鹿げた考えが鳥口の頭をよぎる。 馬鹿げているとは思うのだが、何故だか僅かに動悸が速くなる。 緩く首を振って目を閉じ、あの人の姿を思い浮かべた。 『この世には不思議なものなど何もないのだよ』 頭の中に低く落ち付いた声が響く。 そう、不思議なことなど何もないのだ。 この坂の上にはただ町があるだけで、そこにはあの人がいる。 鳥口は迷いを振り切るように一気に坂道を駆け上がった。 登ってしまえば何のことはない。いつもと同じようにその店はそこにあった。 京極堂―― 色褪せた扁額は、間違いなくそこにある。 それでも不安が拭い切れずに硝子戸越しにそっと中を覗く。 多量の本に囲まれた帳場には、不機嫌そうな表情で本を読む和装の男が一人。 中禅寺秋彦。 大切な――何よりも大切な存在。 鳥口は漸く安心し、強張っていた表情にも笑みが浮かんだ。 しかし―― 鳥口は戸を開けることを躊躇った。 韮山での一件以来、ここを訪れるのは初めてだった。 まだそれほど経っていないはずなのに、随分会ってないようにも思う。 硝子戸を隔ててすぐそこにいるはずなのに、随分と遠い。 何と声を掛ければいいのだろう。 自分はあの時―― そこで鳥口は思考を止め、一度頭を振った。 いつもの自分でいいのだ。 そう言い聞かせ、また不安が押し寄せる前に鳥口は勢い良く戸を開けた。 古書特有の香りが鳥口を包む。 店内にはやはり客の姿は見えない。 本が売れている様子はなく、それどころか増えているとしか思えなかった。 本で埋め尽された狭い通路を進み、すぐ傍まで近寄っても店の主は顔を上げようともせず、ひたすら活字を追っている。 もちろん気が付いていないはずはない。 いつものことながら、鳥口は僅かな寂寥感を覚えた。 「師匠」 躊躇いがちに声をかける。 「君もしつこいな。僕は弟子を採った覚えはない」 中禅寺は本から目を離すことなく憮然として云った。 いつもと変わらぬ態度に、鳥口は安心したように笑って近くの椅子を引き寄せて座った。 「相変わらずだなぁ、師匠は。一寸付き合ってくださいよ」 「僕は忙しいのだよ。いつも邪魔ばかり入ってまともに本も読めやしない」 間髪入れずにそっけない声が返ってきて、鳥口は首を竦めた。 けれど、これぐらいでめげるようでは中禅寺の相手は勤まらないし、鳥口も気にするほど繊細ではない。 「いいじゃないすか。お客もいないし、どうせ師匠は話してても本読んでるんだから」 拗ねたような口調で言うと、中禅寺は溜息を吐きながら本を閉じ徐に立ち上がった。 「云っておくが、今日はお茶も出せないよ」 目を合わせることもなくそう云うと、中禅寺は鳥口に先に座敷に行くように促し、『骨休め』と書かれた木札を店先に掛けに行った。 next>> |