Precious Entity 1







 その日、鳥口は眩暈坂の下に立っていた。
 眩しさに目を細めながらじっと坂上を見つめる。
 その先には何も見えない。ただ永遠に坂が続いているような錯覚。
 異世界にでも通じていそうな気にさせるその坂は、それでもあの人の元へと続いている。

 ――本当に辿り着くのだろうか。
 ちゃんとあの人のところへ行けるのだろうか…

 不思議な世界へと誘われるのではないか、などという馬鹿げた考えが鳥口の頭をよぎる。
 馬鹿げているとは思うのだが、何故だか僅かに動悸が速くなる。
 緩く首を振って目を閉じ、あの人の姿を思い浮かべた。

『この世には不思議なものなど何もないのだよ』

 頭の中に低く落ち付いた声が響く。
 そう、不思議なことなど何もないのだ。
 この坂の上にはただ町があるだけで、そこにはあの人がいる。
 鳥口は迷いを振り切るように一気に坂道を駆け上がった。
 登ってしまえば何のことはない。いつもと同じようにその店はそこにあった。
 京極堂――
 色褪せた扁額は、間違いなくそこにある。
 それでも不安が拭い切れずに硝子戸越しにそっと中を覗く。
 多量の本に囲まれた帳場には、不機嫌そうな表情で本を読む和装の男が一人。
 中禅寺秋彦。
 大切な――何よりも大切な存在。
 鳥口は漸く安心し、強張っていた表情にも笑みが浮かんだ。
 しかし――
 鳥口は戸を開けることを躊躇った。
 韮山での一件以来、ここを訪れるのは初めてだった。
 まだそれほど経っていないはずなのに、随分会ってないようにも思う。
 硝子戸を隔ててすぐそこにいるはずなのに、随分と遠い。
 何と声を掛ければいいのだろう。
 自分はあの時――
 そこで鳥口は思考を止め、一度頭を振った。
 いつもの自分でいいのだ。
 そう言い聞かせ、また不安が押し寄せる前に鳥口は勢い良く戸を開けた。

 古書特有の香りが鳥口を包む。
 店内にはやはり客の姿は見えない。
 本が売れている様子はなく、それどころか増えているとしか思えなかった。
 本で埋め尽された狭い通路を進み、すぐ傍まで近寄っても店の主は顔を上げようともせず、ひたすら活字を追っている。
 もちろん気が付いていないはずはない。
 いつものことながら、鳥口は僅かな寂寥感を覚えた。
「師匠」
 躊躇いがちに声をかける。
「君もしつこいな。僕は弟子を採った覚えはない」
 中禅寺は本から目を離すことなく憮然として云った。
 いつもと変わらぬ態度に、鳥口は安心したように笑って近くの椅子を引き寄せて座った。
「相変わらずだなぁ、師匠は。一寸付き合ってくださいよ」
「僕は忙しいのだよ。いつも邪魔ばかり入ってまともに本も読めやしない」
 間髪入れずにそっけない声が返ってきて、鳥口は首を竦めた。
 けれど、これぐらいでめげるようでは中禅寺の相手は勤まらないし、鳥口も気にするほど繊細ではない。
「いいじゃないすか。お客もいないし、どうせ師匠は話してても本読んでるんだから」
 拗ねたような口調で言うと、中禅寺は溜息を吐きながら本を閉じ徐に立ち上がった。
「云っておくが、今日はお茶も出せないよ」
 目を合わせることもなくそう云うと、中禅寺は鳥口に先に座敷に行くように促し、『骨休め』と書かれた木札を店先に掛けに行った。


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