櫻舞うとき 1








 透き通りそうな空
 
 眩暈を覚えそうな蒼に良く映えた薄紅の花

 現れた彼の人は夢幻の如く綺麗で

 世界は其処から始まった―――





 桜が舞っていた。
 柔らかな風に遊ぶようにひらひらと。
 生命を得たかのように、幾つもの花弁が辺り一面で艶やかな舞いを披露している。
 そんな薄紅に染まった世界の中で、一適の墨を落としたような漆黒の男が一人。
 黒衣に身を包んだその男は、桜の木々を睨むようにして立っていた。
 何を思っているのか、眇められたその双眸は瞬きすることもなく、ただ目の前の空間を凝視している。
 彩のない唇はきつく結ばれていて、不機嫌そうなその表情はどこか悲痛なものにも見える。
 柔らかなこの空間の中で、彼を包む空気だけが触れれば切れてしまいそうなほど張り詰めていた。
 和装の彼は、まるで時が止まってしまっているかのように微動だにしない。
 じっと一点を見つめたまま。
 たった独りで―――
 

 どれほどの時間が過ぎただろうか。
 世界から切り離されたこの空間では、時間の概念すらも無意味だった。
 男の瞼がゆっくりと下ろされる。
 世界の遮断――
 開かれた目に映された眺めは先程までと何も変わらない。
 けれど、一度壊され再構築された世界は彼にとっては異空間だった。
 一瞬前までとは明らかに違う。
 目の前には、一人の女性が佇んでいた。
 それは彼の心が作り出した幻影に過ぎず、実際には視えはしない。
 彼女は最後に会った時と同じ、周りに溶け込むような桜色の着物を着ていた。
 それはあの時と同じ場所に立っているせいかもしれない。
「貴方は――」
 彼はこの場に来て初めて口を開いた。
 静かな、けれど張り詰めた空気を震わせるような凛とした声。
「貴方は、まだそちらに逝ってしまうには惜しい人だ」
 隈に縁取られた瞳は憂いを帯びている。
 それでもその瞳は逸らすことなく真っ直ぐに女を見据えていた。
 彼女は何も答えない。
 ただ黙って春の陽射しのように穏やかに微笑んだ。
 たとえ何かを言ったとしても、それは彼女の声ではない。
 男にとって都合の良い言葉にしかなりはしない。
 彼の心はそれを許さなかった。
 死者はもう何も語れはしないのだ。
 死者の語る声は全て残された者の心が生み出すもの。
 だから目の前の女は何も語りはしない。
 それでも男は言葉を続ける。
 もう何処にも存在しない彼女に向かって―――
 否――そこに在るのは彼自身なのかもしれない。
「やはりこの位置に居続けることは辛い。全てを投げ出すことができたなら―――」
 男は一度言葉を切り、緩く首を振った。
 頭上に落ちていた花びらがはらりと舞って彼の目の間を通り過ぎて行く。
「それでも僕は、この位置にいて関わるのでしょうね。独りではないことに、気付いてしまったから」
 男を包む空気が変わった。
 刃のようだったそれは、僅かに穏やかになった。
 そして彼は再び眼を閉ざす。
 彼女を帰す為に―――
 



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