櫻舞うとき 3








 大きな桜の樹の根元、中禅寺は入学式に出ることなく太い幹に凭れて読書に勤しんでいた。
 薄紅の花弁が漆黒の髪を飾っている。
 穏やかで静かな時が流れていた。

 どれほどの時間が過ぎただろうか。
 柔らかな風が突然強くなり、紅い吹雪が活字を追う視線の先を遮った。
 中禅寺は不機嫌そうな表情を崩すことなく本を閉じ、ゆっくりと立ち上がった。
 ひらり、と髪から花びらが滑り落ちていく。
 揺れる花弁を目で追いかけた先に一つの影。
 同じ学生服を着た少年が真っ直ぐに中禅寺に向かってくる。
 目の前まで来て立ち止まった少年は、驚いたように大きな瞳を更に大きくしてじっと中禅寺を見つめた。
 中禅寺もまたその少年に目を奪われた。
 大きく見開かれた瞳は色素が薄く鳶色に近い。
 綺麗に整った華やかな顔立ち。
 淡い栗色の髪が太陽の光に透けて輝いている。
 それまで鮮やかに映えていた風景がにわかに色褪せる。
「お前、桜の精か?」
 少年に見入っていた中禅寺は、突然の問いの意味を理解し兼ねて眉を顰めた。
「……」
「そうか、そうなんだなッ。抜け出してきて正解だった」
 困惑する中禅寺を無視して、少年は一人興奮気味だった。
 触れようと伸ばされた手を反射的に避け、中禅寺は射抜くように相手を睨んだ。
「何なんですか、いきなり。だいたい、学生服を着た桜の精など聞いたことがない」
 漸く先程の質問の意味を理解し、凛とした声で否定した。
「何だ、違うのか。つまらない。だったら何でそんなに綺麗なんだ?」
「…は?」
 再び浴びせられた質問は、やはりその意味が理解できなかった。
 困惑の色を濃くする中禅寺とは対照的に、少年は喜色満面である。
「綺麗だな。桜が良く似合う」
「……それは僕に対して言ってるのか?」
 眩しそうに細められる瞳に映っているのは、紛れもなく中禅寺の姿だ。
 からかっている様子も感じられない。
 それでも確かめずにはいられなかった。
「お前意外に誰がいる。僕には他に誰も見えないが、何か見えているのか?」
 不思議そうに首を捻って辺りを見回す少年に、中禅寺は疲れたように首を横に振った。
「いや…言葉の使い方を間違っている。綺麗というのは僕のような奴に言う言葉じゃないだろう」
「綺麗なものは綺麗。それは僕が決めることだ」
「それはそうでしょうが…」
 両手を腰に当てて胸を張り、当然のことのように主張する姿に思わず言葉に詰まる。
 何を言っても無駄。
 この短いやり取りの中で徐々に悟り始めていた。
「ふふ、本当に綺麗だ。花びらが付いてるぞ」
 柔らかな声で囁かれる言葉。
 ――聞いてはいけない。
 脳内に響く警鐘。
 言の葉による呪の力は良く知っていた。
 けれど――
 もう遅い。
 既に言霊に捉えられている。
 呪縛。
 嬉しそうに笑いながら伸ばされた手を、今度は避けることができなかった。
 長い指が髪に触れる。
 すぐに離れていったその指に一片の花びら。
 淡い紅色のそれに、少年はゆっくりと口付けた。
 儀式のように恭しく。
 それはきっと始まりの合図。
 ―――二人の時が動き始めた。
 



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