彼の場所へ・・・







 何がいけなかったのだろう。
 一体どこで間違ってしまったのか。
 私は今友人のためにお茶を淹れている。
 いや、彼に云わせると友人ではなく知人なのだが。
 ここは京極堂の母家の御勝手である。
 細君の千鶴子さんは京都に行って留守であることは知っていた。
 そう、知っていたのだ。
 だからこうして私は……
 違う。私はそんなことを望んでいるわけではない。
 頭に浮かんだ恐ろしい光景を振り払うように弱々しく首を振り、沸騰した湯を急須に注ぐ。
 薬缶を持つ手が小刻みに震えた。
 急須の中で、青々とした葉が私を嘲笑うかのように揺れる。
「………」
 二人分の湯呑にゆっくりと茶を注ぎ入れ、私はポケットから折り畳んだ小さな紙を取り出した。
 ―――駄目だ。
 口を開いたが、カラカラに渇いた喉からは苦しげな息しか出てこなかった。
 震える手でゆっくりと薄く白い紙を開いていく。
 そこに現れたのは真っ白な粉末。
 ドクン―――
 自分の心臓が脈打つ音が聞こえた。

 嗚呼、理性が……

 暑くもないのに皮膚からは冷たい汗が噴き出してくる。
 手の中の薬を注視したまま、私はどれぐらいそうしていたのだろうか。
 それは一瞬のようであり、永遠にも思えた。
 実際は僅かな時間だったのだろう。
 湯呑から立ち上る湯気がそれを物語っている。
 今頃京極堂はなかなか戻らない私を訝しんでいるかもしれない。
 渇いた喉を潤そうと、私は無理矢理唾を飲み込んだ。

   ―――これを入れてしまえば私は…
 そして京極堂は――― 

 身体中の血液が逆流する。
 様々な考えが渦巻き、重圧に押し潰されそうだ。
 私は大きく息を吸い込んだ。そして息を止める。
 神経は研ぎ澄まされたように昂ぶり、時間が切り取られたように全てが止まっていた。
 きつく目を閉じる。そして―――

 粉雪のようなさらさらとした粉末が、淡い緑の液体に溶けていった―――


「関口君、君は一体茶を淹れるのに何分かかるんだい」
 震える手で何とか湯呑を乗せた盆を座敷まで運んだ私に向かって、京極堂は本から目を離すこともなく云った。
 その声すらも今の私にはどこか遠い。
「いや、ちょっと手間取って…」
 京極堂は湯呑を差し出しながらもごもごと口篭もる私に視線を向けながら、静かに本を閉じた。
「まあ君がのろいのは今に始まったことじゃあないが」
 そんないつもの憎まれ口も夢の中の出来事のようにあやふやで、私はぼんやりとその動く口許を見つめていた。
 友人は私の手から湯呑を取り、私がじっと見つめている口許へと運ぶ。

 嗚呼、まだ今なら…
 今ならまだ止められる―――

 そんな声が聞こえた気がした。
 けれど理性の声はそこで途切れた―――
 粉雪が溶けた翠緑の液体が、京極堂を蝕むように彼の口内へ流れ込む。
 白い喉が上下して―――ついにそれは嚥下された……
 それはあたかも低速度再生のように緩慢に見えた。
 京極堂の瞳が驚いたように見開かれ、漆黒のそれが私を捕らえる。
「関口、君…?」
 それが最後の言葉だった。
 掠れた声は、今まで聞いたどの声よりも艶っぽい。
 京極堂の手からゆっくりと湯呑が転げ落ちる。
 器から零れた甘美な毒が、畳にじわじわと染みを作っていく。
 京極堂の細い躰が傾ぐ。
 私は腕を伸ばしてその躰を受け止めた。

 嗚呼、やっと……

 黒髪に指を通しながら、少し青ざめた友人の顔を見つめる。
 僅かに寄せられた眉が艶かしい。
 今までに経験したことのないような胸の高鳴り。
 込み上げる感動に震えながら、ゆっくりと顔を近づける。
 そしてその口端から零れる一筋の液体を舌で舐め取った。

 嗚呼、何て甘い……

 京極堂の唇から零れ落ちたそれは痺れるほどに甘かった。
 もう戻れない。
 京極堂は…そして私は……

 嗚呼、ついに私は……

          ついに彼岸へ――― 

                       〜了〜


ははははは…笑うしかないですね。
逝っちゃってます、関君…。イタイですね、ちょっと。。。
白い粉末が一体何なのか、それは皆様の想像にお任せ致します(逃)