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陽射しの穏やかな暖かな日だった。 春の光を浴びながら読書をするのも一興、と、古本屋の主は店先に『骨休め』と書かれた札を出しに行った。 どうせ今日も客が来る様子はない。中禅寺にとっては客よりも目の前の本の方が大事だった。 外に出た瞬間、薄暗い店内に慣れていた目に降り注ぐ光の眩しさに、中禅寺はその瞳を細める。 春の柔らかな日差しの中で、漆黒の出立ちが際立つ。 札を掛けて戻ろうとした時――ふと予感めいたものを感じ、振り返って長い坂の先を見つめた。 しかしそこにあったのは只の静寂。人の気配はまったく感じられない。 中禅寺は肩を竦めてゆっくりとした足取りで母家の方へと回った。 真っ直ぐに座敷に向かうと、縁側に長いものが横たわっていた。 どうやら予感は的中していたらしい。 見なれた光景に、中禅寺は眉一つ動かさずに縁側を見つめた。 「やっぱり来てたのか」 誰にともなく呟かれた言葉。 何の感慨もない、抑揚すらもない声のように聞こえるが、それはどこか穏やかさが感じられる声だった。 その変化はきっと、親しいものでなければ気付かなかっただろう。 それほどの小さな揺らめきだった。 中禅寺がいつもの場所に座ろうとしたとき、縁側の物体がくるりと座敷側に半回転した。 大きな目をじっと中禅寺に向け、長い手で床を叩く。 「こっちに来い、京極。ぽかぽかして気持ちいいぞ」 「何だ、起きていたのか榎さん」 床を叩き続ける榎木津に呆れたような声を返し、積み上げられた書物から一冊取り上げて縁側へと向かう。 榎木津の隣に腰を下ろすと、確かに暖かく気持ちが良い。 僅かに和らいだ表情に気付いたのか、榎木津はふふふ、と実に機嫌が良さそうに目を細めて笑った。 「僕が来るのを待ってたのか?」 榎木津の視線を完全に無視し、中禅寺は膝の上に持ってきた本を広げる。 「別に待ってやしませんよ。来ている気はしましたけどね」 淡々とした口調で云いながらも、その瞳はただ活字を追い続ける。 榎木津はいつもと変わらぬ中禅寺の態度をさして気にすることもなく、両腕を目一杯伸ばして大きな欠伸を一つ。 「こんな陽気の日はここで昼寝するに限るッ」 相変わらず理屈の通らない主張をする榎木津に、中禅寺は一瞥をくれながら片眉を吊り上げた。 「陽気は関係ないだろう。あんたはいつだって好きなときに来てここで寝ているじゃないか」 榎木津は片肘をついて手のひらに顎を置き、読書に勤しむ中禅寺の顔を注視する。 正確に云うなら、その視線は中禅寺の顔ではなくその少し上に向けられていた。 半眼になった瞳は本来見えるはずのないものを捕らえている。 「四角」 榎木津の口から唐突に発せられた言葉。 「四角?」 飛び込んできた単語の意図を計りかね、中禅寺は同じ言葉を繰り返した。 けれど榎木津は答えることなく更にその双眸を眇めた。 「猿」 榎木津が二つ目の単語を発したとき、中禅寺は漸く納得したように小さく頷いた。 「ああ、旦那に関君か。昨日来ていたからね」 おそらく榎木津の目には、昨日の風景が映し出されているのだろう。 昨日この部屋に居た木場と関口の姿を、中禅寺は確かに"見て"いた。 人の過去を映す瞳。真実はどうあれ、見たものそのままを榎木津は"視て"いる。 時として非常に厄介な力。 今後の展開を予測した中禅寺は思わず小さく溜息を吐いた。 「僕だけ仲間外れにしたな?」 予想通りの飛躍し過ぎた展開に呆れを通り越し、人には分からぬだろう僅かな笑みをその口許に作った。 頁を捲ろうとした指を止め、顔を上げて榎木津と視線を交える。 「一体どうやったらそんな発想に辿り着くんだ。そんなことをした覚えはないよ」 言い聞かせるようにゆっくりとした口調で言うが、榎木津はそれを無視して不貞腐れたようにそっぽを向いた。 而立を過ぎているとは思えないその反応に、再度溜息を零しながら読書を諦め本を閉じる。 本の閉じる音に、榎木津は中禅寺に向き直ってじっとその瞳を見つめた。 鳶色の瞳に自分の姿が映り、一瞬心がざわめくのを感じた。 しかし中禅寺はいつものように無表情でそんな小さな心の動きを巧みに封じ込める。 「どうして僕だけ呼ばないんだ。酷いじゃないか」 拗ねたような口振り。 「子供か、あんたは。二人が揃ったのは偶然だ。勝手にやってきていつもの様に僕の読書を邪魔して、大体あんた達は僕の家を何だと思ってるんだい。此処は寄合所じゃあないんだよ。」 榎木津を見据えたまま不機嫌極まりない顔で、静かに捲くし立てる。 普通ならまず怯むだろう態度も、榎木津には全く通用しない。 聞いているのかいないのか、鼻で笑いながら起き上がって黒衣の男の前に胡坐を掻いた。 「うるさいぞ、この本馬鹿。関はともかく木場修は駄目だ」 「何を訳の分からないことを」 中禅寺はそれ以上談義することを拒むように、読みかけの書物に視線を落とし活字を追い始めた。 「分かってないのはお前の方だッ」 駄々を捏ねる子供のような探偵を、主は完璧に無視することに決めたようだ。 お前は分かっていない、と何度も喚く榎木津に眼をくれることもなくただ黙々と本を読み耽る。 そんな中禅寺の様子を面白くなさそうに眺め、諦めたのかそのまま後ろに体を倒し、温かい床の上に長身を投げ出した。 next>> |