|
「何だ、居たのか」 寝転がった視線の先を、ふと小さな影がよぎる。 この家に棲み付いている猫が、榎木津の眼の前に陣取って大きく欠伸をした。 つまらなさそうだった榎木津の顔が瞬時に輝く。 「林檎…?いや、蜜柑だ。お前の主は薄情だな。僕と遊ぼうじゃないか、蜜柑」 蜜柑だ蜜柑だ、と声を弾ませながら手を伸ばして猫の前足を掴んで自分の方へ引き寄せる。 「―――ッ」 突然のことに驚いた猫は、自分を掴む手を引っ掻いて拘束から逃れて主の膝の上に飛び乗った。 毛を逆立てて榎木津を睨み、全身で警戒している。 榎木津の白い手には薄っすらと鮮血が滲んでいた。 「まったく…何やってるんですか」 猫によって読書を阻まれることになった中禅寺は本を閉じて脇に置き、呆れ果てたような視線を榎木津に注いだ。 「主と同じ、愛想のない猫だ」 「突然掴めば引っ掻くに決っているだろう。それにこれは林檎でも蜜柑でもなく、石榴だ」 主は淡々と猫の名前を訂正した。 そんな主の膝の上で落ち着いたのか、石榴は暖かさに瞳を細めながら丸くなった。 「蜜柑め。この僕を引っ掻くとはなかなかやるな」 中禅寺の上で丸くなる猫を軽く睨みながら悔しげに呟く榎木津は、相変わらずその猫を蜜柑と呼んだ。 人の名前を全く覚えようとしない榎木津は、どうやら猫の名前も覚える気はないらしい。 手の甲に滲んだ紅い血を舐め取ろうとした榎木津を、中禅寺がやや慌てた様子で止めた。 先程榎木津が猫にしたように、細い腕を伸ばして榎木津の手を掴む。 「ちゃんと消毒しないと。家猫とはいえ、何か菌を持っている可能性がないわけじゃない」 「ふん。だから舐めて消毒するんじゃないか。お前は大袈裟だ」 「馬鹿にするものじゃないよ。小さな傷が人を死に至らしめることだってある」 「僕は神だ。何の問題もない」 きっぱりと云い切る榎木津に、中禅寺はそれ以上何も云わなかった。 云っても無駄だということは、長い付き合いで良く分かっている。 「仕方がないな――」 独り言のように小さく呟くと、中禅寺は僅かに身を屈めた。 取った榎木津の手を、ゆっくりと自分の口許へと近付ける。 そのまま唇を押し当て、裂けた皮膚から流れ出した血液を吸い上げた。 錆の味が口内に広がっていく。 その苦みに眉を寄せつつも、手首近くまで流れた血を舐め取るため舌を這わせる。 血に彩られた赫い舌が白い肌の上を滑る。 幾度も幾度も―――赫い―― ――赫い舌が丹念に――― 白い肌を――― 榎木津は傷を癒すためのその行為に声も出せず見入った。 別の意図を持っているかのように動く舌に。 よく知っているその柔らかな感触に。 ただ黙って―― ―――魅入られた。 「消毒終了だ」 甘美な刻は、中禅寺の涼やかな声で呆気なく終わりを迎えた。 常に不機嫌なその顔には薄い笑みが浮かんでいるように見える。 現実に戻った榎木津は、離された手を面白そうに暫し眺め、中禅寺の唇が触れた箇所に軽く接吻した。 「猫は主の真似をして、今度はお前が猫の真似か。もしかして化け猫か?」 実に愉快そうに榎木津が尋ねた。 大きな鳶色の瞳を輝かせてじっと中禅寺の顔を見上げる。 「残念ながらこれは化けないよ。日がな一日こうして眠るだけで、期待外れだ」 中禅寺もまた面白そうに答えた。 話題の石榴は微動だにせずすっかり寝入っている。 「血が付いているぞ」 ふと気付いたように呟いた榎木津は、軽く勢いを付けて起き上がった。 拭おうと持ち上げた手を榎木津が制する。 「今度は僕の番だ」 ふふっと笑った榎木津の端正な顔が、険悪な表情をした男の顔へと近付く。 ゆっくりと近付いて――唇が重なった。 舌先で冷たい唇をなぞると男の躯が微かに震えた。 その躯を愛しげに抱き寄せて、血を舐め取るための行為は目的を変える。 そんな二人の間で眠っていた石榴は、居心地の悪さを感じたのか中禅寺の膝の上から軽やかに飛び降り、昼寝の場所を求めて歩み去っていった。 縁側に残されたのは二匹の猫。 じゃれ合う様に二つの影が重なった―― 〜了〜 |