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昭和四十三年(1968)
博奕打ち 総長賭博 ばくちうちそうちょうとばく
監督 山下耕作
公開年 1968年
評点[A]
感想
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博奕打ち 総長賭博
博奕打ち 総長賭博

 今日は、山下耕作監督の『博奕打ち 総長賭博』を観た。昭和四十三年(1968)の作品。

 時は昭和九年。病に倒れた天竜一家の総長・荒川(香川良介)の跡目(あとめ)相続を巡って、無二の親友である兄弟分の中井(鶴田浩二)と松田(若山富三郎)は対立せざるを得なくなる。

 一般に仁侠映画の最高傑作と称される作品。確かに、山下監督流のスタティックな美しい絵作り(撮影:山岸長樹)と、登場人物のほとんどが善意の人でありながら悲劇的な結末へと収斂していく脚本(笠原和夫)は見事。悪役である仙波(金子信雄)でさえも、単なる悪役ではなく運命に操られた人間のように見える。ただし、良い作品であるのはもちろんだが、様式美的なものが苦手な人は受け付けない部分もあるかもしれない。
 分別ある中年男を演じた鶴田浩二と火のような気性の激しさと弱気な面とをあわせ持った男を演じた若山富三郎が見事なのは当然だが、二代目に据えられた石戸を演じた名和宏や松田の子分・音吉役の三上真一郎(小津の『秋刀魚の味』の笠智衆の息子役をやった人)も良い。

 よくギリシャ悲劇に例えられるが、あらかじめ観客には明白な悲劇的な結末に向かって懸命に(?)進む中井と松田の二人の男を観て、どこか近松門左衛門の心中ものを連想してしまった。
 ちなみに、三島由紀夫がギリシャ悲劇になぞらえて絶賛したとよく言われてるが、実は彼の文章ではギリシャ悲劇ではなく「ギリギリに仕組まれた悲劇」と書かれていて、ギリシャ悲劇を意識していたのは脚本家の笠原和夫だった、という話をあるWeb pageで見かけた。本当だとしたら、誰も三島由紀夫を読んでいないことがばれちゃった(笑)。(2003/11/29)

太陽の王子 ホルスの大冒険 たいようのおうじほるすのだいぼうけん
監督 高畑勲
公開年 1968年
評点[A’]
感想
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太陽の王子 ホルスの大冒険
太陽の王子
ホルスの大冒険

 今日は、アニメ映画『太陽の王子 ホルスの大冒険』を観た。監督(演出)は高畑勲で、昭和四十三年(1968)の作品。

 北の大地に住むホルス(声:大方斐紗子)は、ただ一人の家族だった父(声:横森久)を失ったが、偶然から大きな岩男(声:横内正)の肩に刺さっていた太陽の剣を手に入れ、人間を滅ぼそうとする悪魔グルンワルド(声:平幹二朗)と戦おうとする。

 東映オリジナルアニメーションの代表作の一つで、高畑勲や宮崎駿(美術設計・原画)、大塚康生(作画監督)などのスタッフが自主的に(?)情熱を傾けて製作したものの、公開当時は“漫画映画”としてはシリアス過ぎるとされて観客が入らず、高畑・宮崎ら後のジブリスタッフが東映を去るきっかけとなってしまった作品だという。
 実際、大人の目で観てみると、指導者を中心として団結し圧制者を倒す人民……というような構図がよく見えてしまうし(笑)、スタッフ側もそういうメッセージをこめて作ったらしい。しかし、高畑流というかジブリ流というか、説教臭さはあるけれども、昭和四十三年当時のアニメーションとしての完成度は高いし、娯楽性もギリギリのところで失っていないと思う。セルアニメの動きが気持ちいい。
 ヒロイン的キャラのヒルダが特に良いが、この声を担当したのが、なんと市原悦子! だが、そうと言われなければわからないほど見事に“声優”している。その他、市原悦子と平幹二朗の他にも東野英治郎(村の鍛冶屋ガンコ←なんつう名だ)や三島雅夫(村長)などの俳優が名を連ねている。声優の小原乃梨子もリストにあるが、デビュー作なのかな?
 ヒルダは登場の仕方やその設定など、『新世紀エヴァンゲリオン』のカヲルというキャラの元ネタと考えられるそうだ。言われてみれば……。(2003/02/18)

緋牡丹博徒 ひぼたんばくと
監督 山下耕作
公開年 1968年
評点[A’]
感想
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緋牡丹博徒
緋牡丹博徒

 今日は、藤純子主演の『緋牡丹博徒』を観た。監督は山下耕作で、昭和四十三年(1968)の作品。

 熊本の博徒・矢野組の一人娘だった龍子(藤純子、のち富司純子)は堅気の娘としての教育を受けていたが、辻斬りに父(村居京之輔)を殺され、無頼の世界に身を投じて緋牡丹のお竜という二つ名を持つ身になった。仇を探すため旅を続ける彼女は、流れ者の渡世人・片桐直治(高倉健)など様々な人と出会う。

 いまだ人気の高い『緋牡丹博徒』シリーズ第一作(脚本:鈴木則文)。題名通りたびたび“緋牡丹”が画面に現れるのは、『関の弥太っぺ』で花を効果的に用いた山下監督らしい。ただし、画面の特殊効果や一部の登場人物のメイクが、現在ではちょっとマンガ的に見えてしまうのは気になった。
 藤純子の美しさが圧倒的なのはもちろんだが、お竜の子分フグ新(山本麟一)やお竜が世話になる親分衆の熊虎(若山富三郎)やおたか(清川虹子)、熊虎の子分・不死身の富士松(待田京介)などの個性的な脇役が印象に残る。また、山下監督のパセティックな演出が、多くの登場人物が義理に縛られたり偶然が作用したりして自らの望まぬ方向へと動かされていく巧みな脚本を活かしている。
 個人的に、やくざの醜い面がほとんど描かれていないのが気になったが、まぁ様式美の世界として見れば良いのだろうか。

 これは禁句なのか、『緋牡丹博徒』への評ではあまり見かけないが、クライマックスで藤純子の歌を流さないでほしい。マキノ雅弘によると、東映仁侠映画は歌に乗って殴りこみする“型”を強要されていたそうだが、藤純子の歌はオープニングだけなら我慢できても作品の佳境の所で聞くと、ずっこけてしまう。(2005/03/14)

昭和四十三年(1968)
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