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「列伝」

義を扶〔たす〕け、俶儻〔てきとう〕にして、己をして時を失はしめず、功名を天下に立つ、七十列伝を作る。
殷末周初の「伯夷列伝」から自らを記した「太史公自序」まで計七十篇を数える。主に個人の伝記を扱うとされるが、同類項に属すると司馬遷が考えた人物を数人まとめて一つの篇とされているものもあり、時には数百年の時代を挟む人物が並べられていることもある。
※列伝の題名はここ。JIS規格外の漢字が多いので別掲。以下の内容紹介は一部。
先秦列伝:第一から第二十六まで
- 「伯夷列伝」:狐竹国の公子であった伯夷と叔斉兄弟は国を譲り合って共に出奔した。当時は悪名高き殷の紂王の時代であり、二人は仁徳で知られる周の西伯(文王)の下に身を寄せようとしたが、その時ちょうど西伯が没した。跡を継いだ武王は紂王を討伐しようとしたが、伯夷と叔斉は馬の前に立ちふさがってそれが不仁であることを説いた。それは容れられずに結局武王は殷を討伐し、周の世となった。二人は周の粟(穀物)を食べることを恥じ、首陽山に隠れて薇を食べたが、ついには餓死した。司馬遷はここで天道の是非に関して深い疑念を表明した。「天道は是か非か。」と。
- 「管晏列伝」:斉の桓公を助けて覇者とさせた管仲と鮑叔牙は若いときからの友人同士で、管仲が貧しい時に何度も鮑叔牙を欺いても鮑叔牙は管仲を見捨てなかった。後に管仲は斉国の政を執り、鮑叔牙の一族は代々大夫となった。管仲の百年あまり後に出た晏子は宰相であったとき、御者の謙譲に感じて彼を大夫とした。司馬遷は晏子が今生きていたならば彼のために鞭をとろうと言う。
- 「老子韓非列伝」:老子は無為の思想を語って孔子に忠告し、荘子は形而上的な寓話を説いた。申不害は黄老(黄帝と老子)の教えに基づいて刑名の術を打ち立て、法家の祖となった。韓非子は法家の思想を体系立て、君主論を説いて始皇帝に用いられようとしたが、李斯の讒言にあって自害した。司馬遷はそれぞれの学を論評して、老子の学が最も深遠なものだとした。
- 「伍子胥列伝」:伍子胥は楚に仕えていたが、讒言によって父と兄を殺され、呉に出奔した。そこで呉の公子光(呉王闔盧)を助けて王位につかせ、楚を攻めさせた。その後、闔盧が越の攻撃によって死ぬと、子の夫差を助けて越を撃った。夫差が越からの和睦の申し入れを受けようとするのを諫めたが、讒言によって自殺を迫られて死んだ。伍子胥の予言通り、その後呉は越に滅ぼされた。司馬遷は言う。「怨恨の人におけるや、甚だしいかな。王者も尚〔な〕ほ之〔これ〕を臣下に行ふこと能〔あた〕はず、況〔いわん〕や同列においておや。」と。
- 「商君列伝」:鄭の公子であった商君は最初仕えた魏から秦国にうつり、そこで変法を行った。阡陌(せんぱく:灌漑施設を中心とした企画整理された農地)を開き、什伍の制(隣組制度)などを定めて秦の国力増強に貢献したが旧勢力の憎悪を受け、死体は車裂にされた。司馬遷は言う。「商君は其の天資酷薄の人なり。……余、嘗〔かつ〕て商君の開塞・耕戦の書を読むに、其の人の行事と相類す。卒〔つい〕に悪名を秦に受くる、以〔ゆえ〕有るかな。」と。
- 「蘇秦列伝」・「張儀列伝」:蘇秦は合縦の策を以て諸国に説いて秦に対抗し、張儀は連横の策を以て列国を秦に従わせた。舌先三寸で天下を意のままに動かした策士の列伝。
- 「孟嘗君列伝」・「平原君列伝」・「魏公子列伝」・「春申君列伝」:多くの食客を抱えて高名を馳せた戦国四君を扱う。斉の孟嘗君は「鶏鳴狗盗」の徒に助けられ、趙の平原君は都の邯鄲を秦から救った。魏の公子であった信陵君は趙を助けて秦の包囲を解かせ、楚の春申君は秦の侵略によく対抗した。
- 「廉頗藺相如列伝」:廉頗は国宝の壁を秦王に奪われることなく無事に持ち帰り、「完璧」という言葉を産んだ。藺相如は廉頗よりも高位にあったために彼の嫉視を受けたが、じっと耐え、ついには誤解を解いた廉頗と「刎頸の交わり」を結んだ。
- 「呂不韋列伝」:大商人呂不韋は「奇貨居〔お〕くべし」の言葉に従い、秦から趙に人質となっていた後の荘襄王を助け、彼が王位についた後に秦の丞相となった。既に身ごもっていた自らの妾を王に与え、その子は太子となった。それが始皇帝である。呂不韋は秦で権勢を欲しいままにし、『呂氏春秋』を編纂したが、始皇帝に疎まれて自殺に追い込まれた。司馬遷は言う。「孔子の所謂、聞(ぶん:うわべ・評判だけの人)とは、其れ呂子か。」と。
- 「刺客列伝」:魯の曹かい(JIS外漢字)は匕首を以て斉の桓公に迫り、自らの敗北で失った地を返させた。専諸は呉王僚を刺し、闔盧を王位につかせた。晋の豫譲は「己を知」ってくれた智伯のために趙襄子を討とうとしたがかなわず、自ら剣に伏して死んだ。韓の聶政は厳仲子のために宰相侠累を殺し、自害する際に顔の皮を剥いで身元を隠した。身元不明の刺客の噂を聞いた聶政の姉は、そのさらされた死体の下へ行き、名を明らかにした後自らも果てた。衛の荊軻は燕の太子の求めで秦の始皇帝を暗殺するために易水のほとりから旅立った。始皇帝の袖を切りながらもあと一歩で果たせず、秦の天下統一を妨げることはなかった。己を知ってくれた人のために自らの命を惜しまず投げ出した男たちの列伝が先秦時代の掉尾となっている。
秦漢列伝:第二十七から第六十九
- 「李斯列伝」:李斯は法家の政策を以て始皇帝を助け、天下統一へと導いた。しかし始皇帝の死後、暗愚な末子を立てようとする宦官趙高に説伏されてその策略に荷担した。最後は趙高の策略により、五つの刑をことどく受けて刑死した。司馬遷は言う。「斯は六芸の帰(古典の主旨)を知りながら、政を明らかにし以て主上の欠を補ふに務めず、爵録の重きを持しながら、阿順苟合(あじゅんこうごう:阿諛迎合の意)し、威を厳にして刑を酷にし、高の邪説を聞いて適を廃し庶を立つ。諸侯己に畔〔そむ〕き、斯乃〔すなわ〕ち諫争せんと欲す。また末〔おそ〕からずや。」と。
- 「黥布列伝」・「淮陰侯列伝」:漢の功臣として諸侯に封ぜられながらも謀反を起こさざるを得ない状況に追い込まれ、結局は誅滅された者たちの列伝。黥布は高祖に対して「帝と為らんと欲するのみ。」と罵倒し、淮陰侯韓信は「狡兎死して良狗烹〔に〕られ、高鳥尽きて良弓蔵〔しま〕われ、敵国破れて謀臣滅ぶ。」の至言を残した。
- 「劉敬叔孫通列伝」:都を長安に定めることを平服のままで高祖に進言した婁敬は劉姓を賜り、もと秦の博士であった叔孫通は巧みに高祖におもねり、漢の礼を初めて定めて次の恵帝にも重く用いられた。
- 「李将軍列伝」:李広は廉直で知られ、虎と見間違えた石に矢を射込むほどの勇力を以て文帝から武帝の代にかけて、匈奴征伐のために苦闘したが報われることなく非業の死を遂げた。それを聞いた人々は知るも知らぬも老若を問わず、為に涙を流した。司馬遷は言う。「諺に曰く『桃李言〔ものい〕はざれども、下おのずから蹊〔こみち〕をなす。』と。此の言、小なりと雖も、以て大いに諭〔たと〕ふべきなり。」と。
- 「匈奴列伝」:古来、遊牧民族は中華を冒してきたが、秦代に冒頓単于〔ぼくとつぜんう〕が出て以来、匈奴は漢の仇敵となった。高祖は平城で囲まれて九死に一生を得、文帝・景帝の時代は和親政策をとった。武帝は衛青・霍去病を得て大いに匈奴を撃ったが、漢の支払う犠牲も小さなものではなかった。司馬遷は言う。「孔子、春秋を著すに、隠桓の間(という遠い時代)は則ち章〔あきら〕かに、定哀の際(という同時代)に至りては則ち微なり。……聖統を興さんと欲せば、唯〔た〕だ択〔えら〕んで将相に任ずるに在るかな、唯だ択んで将相に任ずるに在るかな。」と。
- 「衛将軍驃騎列伝」:奴僕扱いされていた衛青は、その姉が武帝の寵愛を受けたことから取り立てられ、匈奴征伐に才能を発揮して大将軍の称号を得た。その甥の霍去病は十八歳で大功を立て、大いに武帝の寵愛を受けたが若くして没した。司馬遷は言う。「(霍去病は)少〔わか〕くして侍中たり、貴くして士を省みず……大将軍は人と為り、仁善退譲、和柔を以て自ら上に媚ぶ。然れども天下未だに称する在らざるなり。」と。
- 「游侠列伝」:韓非子は儒者と游侠の徒を批判し、世間では前者ばかりを尊ぶ。しかしながら游侠の徒はその行状が正義を踏み外すこともあるけれども、我が身をあとにして人のためにつくし、その徳義を誇ることはなかった。司馬遷と同時代に生きた郭解は天下に慕わぬものがないほどの大侠客であったが、ついに武帝によって誅された。
「太史公自序」
自らの家系の記述に始まり、父が著した「六家要旨」を引用し、父親の遺命によって歴史書を編纂するに至ったことを述べる。ついで李陵を弁護したことによって宮刑(去勢される刑)に処せられながらも、自らの使命を捨てなかったことを記す。
続いて史記の各編の内容紹介をのべ、「余、黄帝より以来太初に至るまでを述歴して、百三十編に訖〔おわ〕る。」
という言葉で締めくくる。
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