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「世家」

「太史公自序」に曰く「二十八宿、北辰〔ほくしん〕を環〔めぐ〕り、三十輻、一轂〔こく〕を共にし、運行すること窮まり無く、輔拂股肱〔ほひつここう〕の臣に配し、忠信にして道を行ひ、以て主上に奉ず。三十世家を作る。」と。
天子から封建された諸侯を扱うと一般には解釈されている部分。しかし例外も存在し、古来議論の的となっている。
※この「世家」と次の「列伝」は、篇数が多いので全体の構成を概観した後に重要な篇をいくつか挙げるにとどめます。すべて紹介する暇と根性は今のところありませんので。
先秦世家 第一〜十六
「呉太伯世家」・「斉太公世家」・「魯周公世家」・「燕召公世家」・「管蔡世家」・「陳杞世家」・「衛康叔世家」・「宋微子世家」・「晋世家」・「楚世家」・「越王勾践世家」・「鄭世家」・「趙世家」・「魏世家」・「韓世家」・「田敬仲完世家」の全十六篇。おおむね、周王からの封建を受けた順に配列されていると思われる。
- 「呉太伯世家」:「自序」に「伯の譲を嘉〔よみ〕して、呉世家を作る、第一。」とある。かつて周の太王は孫の昌(後の文王)に位を伝えようとして、その父である季歴を立てようとした。それを察した長男の太伯と次兄の仲雍は荊蛮の地に出奔した。その子孫の閭廬〔こうりょ〕は越と戦って死に、子の夫差は越に復讐したが、それは徹底さを欠き、ついには越に滅ぼされた。
- 「晋世家」:周の成王の弟を祖とする晋国は、初封からの本家よりも曲沃に住んでいた分家の方が力を持つようになり、ついには本家を滅ぼした。その後、お家騒動によって各地を放浪した文公重耳が位について覇者となった。その後、次第に家臣が実権を握るようになり、やがて韓・魏・趙の三卿に国を分割され、祭祀は絶えた。
- 「趙世家」:代々晋の卿となっていた一族であったが、趙衰〔ちょうし〕が晋の文公に付き従い、その帰国後に重く用いられたことから他に長ずる力を持つようになる。ついには韓・魏と共に晋を分割して自立し、周によって諸侯として認められるにまで至る。戦国時代には武霊王が「胡服騎射(騎馬戦術)」を採用して他国を圧倒するが、度重なる内紛や秦の策謀によってついには始皇帝に滅ぼされる。
諸侯でない個人を扱った世家 第十七・十八
- 「孔子世家」:孔子は自らの教えが魯国で受け入れられないことを悟ると、諸国を放浪して教えを説き始めた。ついに宿願が果たされることのなかった孔子は、余生を教育と書物の編纂で過ごした。その儒学はすべての歴代王朝に用いられた。その人類に対する貢献から、「世家」に加えられたと考えられる。
- 「陳渉世家」:秦の苛政に反抗して真っ先に立ち上がった反乱の首魁。結局は敗れたが、秦滅亡の糸口を作った役割は大きく、漢王朝に貢献した人物として司馬遷は特に「世家」の一員としたのだろう。
漢代世家 第十九〜第三十
「外戚世家」・「楚元王世家」・「荊燕世家」・「斉悼恵王世家」・「蕭相国世家」・「曹相国世家」・「留侯世家」・「陳丞相世家」・「絳侯周勃世家」・「梁孝王世家」・「五宗世家」・「三王世家」
- 「蕭相国世家」:蕭荷は漢の高祖が覇権を握るための戦いをしている最中、常に後方を守って兵站線を途切れさせることがなかった。韓の天下となった後も衷心を持って高祖に仕え、誅滅されなかった数少ない建国の功臣の一人となった。
- 「絳侯周勃世家」:周勃は高祖の下で武勲を立て、恵帝から文帝に至る三代にかけて仕えた。子の亜夫は呉楚七国の乱の平定で活躍したが、景帝に疑われて獄中で餓死した。
- 「五宗世家」:景帝の五人の后を母とする十三人の皇子(武帝を除く)はそれぞれ諸侯王となったが、その愚行や継嗣が無いことによって国を絶つ者が多かった。武帝はそれを哀れみ、親親の義(一族を大切にすること)によってその子孫をまた封じたが、国を保つ者はやはり希であった。
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