新しさについて

 毎年、11月の文化の日から翌2月の建国記念日あたりにかけて、各地で様々の展覧会が開催されています。この中には当然、書の公募展もあり、各人が一世一代の蓋世をかけて創作活動を行うことは、芸術振興のうえからも大変に好ましいことです。
 さて、このような他人と比較される場に自分の作品をさらし、評価を受けとするとき、少なからず人は、「他人とは違った何か新しいもの」を表現しようと考えます。
 世間一般には、どうも「新しさ」と「奇異」が混同されてしまっているようです。
 「新」を字源からみると、「木を斧で切る」ことからできているとされ、斧で枝を掃った後に、青々とした若い枝が生えてくるイメージがあることが判ります。
 ところで、桜の木の枝を掃ったあとには、当然また同じ桜の枝が生えてきます。梅や他の木の枝が生えてくることは絶対にありません。
 あまりに当たり前のことで、いまさら何を言っているのかと思われるでしょうが、実は、このことは、私たち創作を志す者にとってとても重要なある示唆を与えてくれています。
 新しい枝は、古い枝のそれまでの生命の営み一切を尊重し、まるでその古い枝の分まで若い命を謳歌させるがごとく息付いています。
 その息吹を目の当たりにした時、人はそこに「新しさ」を感じるのです。
 これが桜ではなく、突然ほかの木の枝が生えてきたら、それは「新しい」のではなく、「奇異」なだけです。
 このことから、「新しい」とは、昨日と今日が根っから違ってしまうものではなく、過去の営みの合理性を一心に引き継いでいなければならないことが判ります。
 芸術の創造についてもまったく同じで、例えば、古典にない用筆だからと「前衛」を唱える風潮も以前ほどではないにしても、まず、古典に裏打ちされた強さがなければ、それは単なる薄っぺらで「奇異」なものであって、到底、人の心を動かすものにはなりません。
 作品の創作にあたっては、このことを特に肝に銘ずる必要があります。そうしないと、出来上がった作品は、きっと奇異でいやらしい強引なものになってしまうことでしょう。
 過去からの生命を引き継いだ新しい桜の枝からは、強引さなどは微塵も感じらず、その姿は寧ろ控えめでさえあります。
 普段から古典の臨書を間断なく行って技術の蓄積を欠かさない心掛けがあれば、いつしか「新しさ」は自然に出てくるものです。