魚を得て筌(せん)を忘れる

 「得魚忘筌(魚を得て筌を忘れる)は、中国のことわざで、良い書作品を創るための重要な心構えとされています。
 「得魚忘筌」のもともとの意味は、「漁師が魚を捕った後、その魚を捕るために使った罠を持ち帰ることを忘れてしまった。」ということなのですが、それが転じて「良い書作品を創るためには高度な技術が必要なのですが、一旦その技術を身に付けてしまうと、その技術について意識しなくなる。」また「技術を意識しているようでは、その技術は本当は身に付いていない。」という意味に使われるようになりました。
 日本でも昔から、何の創作にしても「心を無にして」などと言われますが、この中国のことわざと意味の方向は同じと思われます。
 「技術を意識しない」とか「心を無にする」と言っても、ただ何も考えずに、寝起きのボーっとした状態をいうのではないことは当たり前ですが、このあたりの概念は一応しっかりと考えておく必要があります。
 人間がまず何かを身に付けるには、最初は頭でいろいろ考えながら行います。
 例えば、幼児が歩き始めることを考えてみましょう。最初は一歩一歩バランスを確認しながらよちよち歩き出します。そして時に転んだり、柱に頭をぶつけたりしながら、「歩く」感覚を着実に覚えていきます。そのうち赤ちゃんの注意は「歩く」ことから段々遠ざかり、お母さんと歌いながら散歩をしたり、チョウチョを追いかけたり、お友達とかけっこをしたりできるようになります。
 結局、この赤ちゃんは、「歩くことに関しては無心になった」ということができます。
 ここで一つ重要なポイントは、「赤ちゃんは、自分から意識的に無心になろうとしたのではない」ということです。繰り返しの技術の習得が「無心」を生んだのです。
 書の極意の「無心」もこれと全く同じで、よくある話しが、良い作品ができないのは心に邪念があるからだと、何とかして無心になろうと滝に打たれたり、禅寺に入門したりした人がいたなどということを聞くことがありますが、これは全く知恵の浅い幼稚な思考です。
 「無心」になりたければ、繰り返し技術の鍛練をすればよいのです。