書の鑑賞について

 最近では至る所で美術展や芸術展が開催され、また新聞や雑誌などでも芸術が大流行で、当然に書を目にする機会も多く、私達は知らず知らずのうちに書を鑑賞しています。
 普通、芸術作品を「味わう」という意味で「鑑賞」の文字を用います。自然の草花などを愛でるときは「観賞」を使い、これとは厳密に区別されます。
 ここで、ちょっと面白いことに気付かれたかと思います。
 私達の普段用いる日本語には、少し変わった言い回しがあります。芸術作品は「目」で認識されるにもかかわらず「味わう」というふうに「舌」の感覚の表現がされています。
その他には「匂うような美しさ」とか、また日本古来の香道と呼ばれる芸術では「香りを聞く」などと言われます。「利き酒」も「聞く」から派生したものと言われていますし、可愛らしい小動物に手や頬を触れて「愛でる」ことも元は「見る」感覚から来ていると言われています。
 これらいわば五感を混同したような言い回しがなされるのは、一体何故でしょうか。単なるスラングが定着しただけであるという言語学者もいますが、私は、このような言い回しがなされる必然的な理由が他にあるのではないかと考えます。
 一幅の書の掛軸を目にしたとき、私達は「これは書である」とか「これは何と書いてあるのか」などとあれこれ考えを巡らす前に、それを目にした瞬間にその書が持っている美を直に感じます。普通、あれこれと考えを巡らすのは、この美しさによる感動の波が段々と小さくなってから可能となるのです。
 五感混同表現の理由も、多分、美が認識されて感動を開始した瞬間には、私達には「どの感覚器から入ってきた刺激かすら判らない」ためなのではなかと思っています。
 書に限らず、芸術作品は「直感」によって瞬間的に味わいます。そして感動するかしないかは、その作品が持っている美の大きさにのみ関係があります。「この作品は有名だから何とか感動しなければ」などと考えるのは本末転倒です。
 ある美人を見て、類い希なる美しさに暫し時の経つのを忘れ、その魅惑に一瞬惑わされた後、少し間を置いて、そう言えばこの人は目鼻立ちが整っているとか、髪が奇麗であるとか分析するのです。
 カントは、「判断力批判」という著書のなかで、これらの現象を「感性(直に感じる特性)」と「悟性(後に理性によって分析されるためにまず現象の区分けをする特性)」という表現で説明しています。
 「鑑賞」は、自分の「直感」のみによって行われるのです。