● はじめに ●
 
 芸術については、昔から大勢の人々によって実にさまざまな議論がなされ、また色々な定義付けの試みがなされてきました。
 どれくらい昔から定義付けが試みられてきたかといいますと、いろいろな説があり一概には断定できませんが、芸術について最初に定義付けを試みたとして有名なところでは、紀元前三世紀のギリシャの哲学者プラトンであると言われています。
 プラトンは、この世の中を形造っている根元的なものとしててイデアという世界を定義付けし、そして芸術を創作する作業とは、そのイデアの世界から真理を抽出し、いわば現実の世界へ模倣して表現することであると考えました。
 これは、プラトンのミメーシス理論(芸術模倣説)と呼ばれていますが、これから考えても有に二千年以上は経っていることになります。  
 その間、多くの有能な哲学者・美学者などの理論が出されましたが、いまだに芸術についての明確な定義付けは終わろうとしていないようです。
 かの偉大なカントですら、観念論の立場から芸術に対する超人的な分析を行ったのですが、結局は鑑賞者の認識のあり方だという結論から脱し得ることはできませんでした。
 これらのことは私達に一体何を暗示していることになるのでしょうか。
 現実には、この世の中には過去から沢山の芸術作品が生み出され、これにより無数の人々が感動や喜びや畏敬の念を抱いてきました。これは紛れもない事実です。
 そしてこれら芸術は、すべて人間の手によって生み出されてきたものなのです。
 この一見分かり切ったことが、実は今までことごとく見落とされてきたのではないかと私は思うのであります。
 芸術とは結局、人間の生活に密接に関係したいわば実践的なものです。そしてその生活が形造られる根拠とは、人間の精神活動に他なりません。
 ですから、芸術を真に定義付けするためには、まずこの私達の生活の基となっている精神活動を科学的に分析し、そのあり方と関連づけて体系化しなければ、何時まで経っても宗教など非科学的なものと同位置で議論され、どこか得体の知れないものとして、極端な場合には芸術無用論だなどと、どんどんと議論が迷宮入りしていってしまうのです。
 さて、過去から現在に至るまで芸術に関する書物は、怠惰な私が目にするだけでも相当な数にのぼりますが、そのほとんどは必要以上に難解なものが多く、逆に比較的平易なものは哲学史や他人の理論の紹介で終わってしまうものばかりです。私が勉強不足のために感じることなのでしょうが、最近は特にこの傾向が強く、画期的な概念の提案や新たな定義付けの試みはあまりなされていないように見受けられます。
 美に関する定義としては、西田幾太郎の「善の研究」に及んでほぼ完成された様相を呈していますが、どのような仕組みで美が創造されるのかといった実践的な部分ではいまだ解り難い感は否めず、偉大なる氏もそれ以降は随筆的なものしか出していません。
 芸術は、作品としてまず感覚器を通して我々に「認識」できることから、この認識の仕組みすなわち「認識論」によって説明しようとされてきました。しかし私は常々、この手法だけでは芸術を解き明かすには片手落ちであると感じていました。なぜならば、芸術は作品として我々に認識される以前に、それとは丁度正反対の「表現」という実践的アプローチによってこの世に創出されたものであるからです。
 枚挙に遑ない芸術論の世界に本書を送り出す一番の動機は、
この表現の仕組みいわば「表現論」を確立することによって、どのようにすれば芸術を創造しうるかといった、より実践的な方向から芸術を定義付けしてみたいと考えたからです。
 芸術は、私たち人間が創造します。そしてその創造とは、私たちの精神の在り方の具現であります。
 本提案によって、人類にとって最も有用であるべき芸術がより科学的な学問として確立され、ますます発展してゆくことを願って止みません。 


日 沼 修 一    




【1 生活と芸術】

● 1・1 芸術に対する世間一般の考え方 ●

 私の生まれ育った東京の下町には、文化の森と言われる上野公園があります。公園内には立派な美術館や博物館、文化会館が建ち並び、中でも動物園に隣接する東京都美術館では、一年を通じて様々の展覧会や発表会が行われます。特に建国記念日や文化の日などには日に10〜20もの会派の展覧会が同時に開催されて、とても一日では全てを回りきることは不可能なほどです。また、繁華街のデパートなどでも必ずと言っていいほど美術展や芸術展が開催され、人気の展覧会ともなると休日には長蛇の列ができ、時には一作品の鑑賞時間を数分に決められたりして、ゆっくり落ち着いて鑑賞することができなかったなどと苦情すら聞くことがあります。こういう現象が東京ばかりでなく全国的に行われているのですから、大変な規模です。企業もこのことに目を付けないはずはなく、需要の拡大のために自ら芸術推進を名目に投資したり、景気が過熱気味の時などには芸術作品自体を投機の対象や税対策の一つにすることなども行われました。
 これは何も日本に限ったことではなく、国家の芸術推進に対する財政支援の規模などからは、むしろ海外の方が芸術に対する価値を高くとらまえているようにも思われます。
 これらのことから、人々は相当に芸術に対して興味があり、強く芸術を求めているということが言えると思います。
 しかしながら、人々は本当に芸術について正しく理解した上でこれらの行動を起こしているのでしょうか。前述の興味の強さだけでは、この答えを導き出すことはできませんが、今現在まで発行されている各種の芸術関係論文の内容や考え方に様々な意見があることから考えても、残念ながらあまり良い答えは期待できそうにありません。
 世間一般に芸術は、前述の芸術の氾濫とは裏腹に私達の実際の生活とはあまり縁がなく、また非常に難解で、あるいは宗教などと同じように神秘的で、一部の芸術家と呼ばれ芸術を専門に研究しているごく限られた少数の人々にしか関係のないものと思われているようです。 


● 1・2 現実の生活から見た芸術 ●

 それでは、一応これらの問題は棚上げして、客観的に私達の実際の生活に目を向けてみましょう。
 私達の日常の生活を今一度振り返って見ると、その至る所に芸術といわれているものへつながっている事柄が多種多様に存在することに気がつきます。
 例えば、私達が身体を動かすことにしても、演技や演劇、舞踊やバレーといったものに通じています。声を出すことにしても物語や声楽に、文字を書くことにしても詩や書道になるといった具合に、また、これらの複合型として音楽やオペラなども考えられます。玄関に花を生けることも茶を入れることも、華道や茶道といったものに通じていますし、茶碗を焼くことも絵を描くこともそれぞれ芸術と呼ばれるものにつながっています。
 このように見てゆくと、結局、芸術と呼ばれるようなものは、私達の日常生活の中の様々な要素の一つというよりは、むしろ日常生活と切り離しては考えられない、言うなれば、日常生活そのものと言っても過言ではないように思われます。
 私達は、これらの事を明確な理論によって理解はしていないものの、自らの経験的な認識によって薄々は気付いているようです。ですから、世間一般の人々の芸術に対する興味や要求の強さは、自分の生活をより高めたいとか、より美しい充実したものにしたいとかいった、いわば人間が生きるうえでの基本的な欲求、すなわち生存の本能に基づいた自然かつ重要な要求であるということが言えます。
 後述いたしますが、当然に芸術の目的もここにあるのです。


● 1・3 芸術という称号を与える動機 ●                       
 私は以前、脳腫瘍の手術を受けたことがあります。
 幸い悪性ではなかったので手術さえすれば完治するとの主治医の言葉だったのですが、いずれにしても、頭蓋骨を開かなくはいけないということに、今までには経験したことのない途轍もない恐怖を感じました。頭蓋骨を開いて人間の意識・生命の中枢である脳の奥深くにメスをいれるなど、到底、並みの人間には出来るはずはなく、いかに医学を極めた有能なドクターであるといえども、どうしても手放しでこれを受け入れる決心が付かず、見舞いに集まった両親や親戚も皆お通夜のように塞ぎ込んだことを覚えています。
 9時間に及ぶ手術の結果、私は命拾いをしたのでありますが、私を含め両親や親戚は無上な喜びを覚えるとともに、主治医に対して畏敬の念を強く抱きました。「主治医は実は普通の人間ではなく、私の生命を蘇らせるために何か特別な「術」を使ったのだ」とさえ思いました。この「畏敬の念」が、主治医の行った行為に対して「術」という称号を与えたのでありました。
 生命を蘇らせることは人間には到底不可能なことです。既に死んでしまった人を生き返らせることが出来たとしたら、それはもう驚くしかありません。実際、この時私は既に死んでいたわけではなく、もしかしたら死んでしまうかもしれないという状態にあったのですが、極度の精神的不安が一気に解消された安堵から、生命が蘇ったと同じ驚きを感じたのです。
 私はこの経験を通じ、「術」という文字を使うに至った様々の言葉には、このような「人間には到底成し遂げることが不可能である思われていたことを可能にしたというような行為に対する、畏敬の念の発動といての称号付け」という意見合いが含まれているのだろうと考えるようになりました。
 例えば、何百人もの乗客を乗せて大空を鳥のように飛ぶ飛行技術、何百年も前に描かれた女体にもかかわらず未だに生きているかのように瑞々しい美しさを放っている絵画美術、人間の胴体を真っ二つに切り裂きまた元通りに蘇らせて見せる手品奇術、相容れない様々な意見を生き物の如く絶妙に調和させる会議話術等々、これらに使われる「術」は、いずれも人がまるで不可能を可能にしたかのような行為に対する「畏敬の念の発動としての称号付け」に他なりません。
 高村光太郎は、芸術は生命の創造であると言いました。この言い方はある種極論じみていすが、光太郎がこの言い方をしている文章の前段で、生命を人間自ら作り出したという新聞のニュース(たぶんクローンか体外受精のことか)を取り上げ、その驚きと芸術創造の驚きとを対比しているところを見ると、畏敬の念の発動が術であると考えていたとしても誤りではないように思えます。
 人々が作品を芸術と呼ぶその動機は、あまりにも美しいものを創作したことに対して、まるで人間の仕業ではなく「術」でも使かわれたかのように感じられた結果としての、その畏敬の念の現れなのです。


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