【3 芸術の基本】

● 3・1 精紳と肉体について ●

 芸術は、人間の精神活動と深く関わるため、まず芸術の基本を正しく捉えるために精紳と肉体について考えてみたいと思います。
 人間の存在を精紳と肉体とに区分して整理したのは、哲学の父の異名を持つ17世紀のドイツの哲学者デカルトが最初であると言われています。デカルトは、人間の脳に精紳があって、その命令に基づいて様々に肉体が機能していることを論じました。
 この考え方は、科学の色々な裏付けによって立証され、細かな点で修正はあるにせよ、この考え方に正面から明確な論拠をもって異論を唱えられる人は、現在でも誰一人としていないでしょう。
 ところで、彼の有名な言葉の「われ思うゆえに我あり」に表されているとおり、精紳は一つの存在には違いありませんが、この精紳だけではこの世に存在することは出来ません。精紳だけが宙に浮いて空間をゆらゆら移動しているなどとは考えられません。それは、精紳は脳内の科学反応の結果として存在するものだからです。そんなことはないと異論を唱えるオカルト信者や宗教家も大勢いますが、彼らはいまだその根拠を科学的に立証してはいないため、彼らに対する説得は本書では省きます。
 話が少し外れましたが、それとは逆に肉体も精紳がなければ、ただの死体になってしまいます。このことから言えることは、人間は精紳と肉体とに区分して考えることは出来ても、この二つは有機的に密接に関係し合っているため、したがって、人間が生きるということを前提にして考えた場合、全くの独立したものとして捉えるのではなく、片方がなければ片方は成り立たないというふうに考えた方が適切でしょう。
 昔から「健全な精神は健全な肉体に宿る」とか「病は気から」とか言われていますが、肉体に何処か具合の悪いところがあると物事を考える気力もなくなってしまったり、逆に失恋などして精神的にめいっているときには食欲がなくなってしまって、ひどいのになると、胃潰瘍になってしまったなどということは、誰しも経験されたことがあるでしょう。
 だからといって、身体の具合の悪い人がすべて精神的におかしくなるわけではなく、気骨のある精紳で肉体的な苦境を克服している人も大勢います。また人が寝ているときも心臓やその他の器官はしっかり働いているというように、精神とは全く関係なく肉体が機能していることも事実です。
 このように、精紳と肉体とは相互に明確に独立してはいるものの、ある場面では密接に関係しているということで、これを相対的に独立していると呼ぶことにいたします。


● 3・2 人間の精神活動について ●

 人間の精神活動にはどのようなものがあるかについて少し考えてみたいと思います。
 通常、精神活動というと「こうしよう、ああしよう」といった意識的なことを思い浮かべます。例えば絵を書く時には、大体こんな感じの構図にしようとか、背景の色使いはもう少し明るい感じにしようとかいった具合に思索を巡らせます。
それでは人間の精神活動とは本当にこれだけのことで全てなのでしょうか。
 ここで、野球選手が球を投げるときのことを考えて見ましょう。
 彼がキャッチャーミットに向かってコントロール良く投球する時、まず今から投げようという意識が働きますが、それ以外には何か精神的な活動は行っているのでしょうか。
 人によっては周りの観客が気になったり、今後の戦略を練ったりもしますが、とりあえずはキャッチャーや監督の指示に従って、ミットで示されたあたり目掛けて全力投球します。そして腕の良い選手ならばコントロールの誤差は葉書の大きさにも満たないと言われ、それは現代の科学の力を以ってしても、いまだに人工では不可能な技だとも言われています。
 果たして、彼は、頭の中で力学や物理学、統計学などの理論を駆使して、意識的な精神活動だけでこれを行っているのでしょうか。
 子供のころからの気の遠くなるような鍛練の結果、彼の小脳をはじめとする中枢神経にこのコントロールのために必要な技がインプットされ、彼はほんの少しだけの意識で投球しようと思っただけで、あとの大部分は中枢神経の活動いわば反射的な精神活動によってこれだけの技を成し遂げているのです。
 このことから、一口に人間の精神活動といっても、その範囲の広いことが判ると思います。そして一般に思われているように、精紳活動は大脳による意識的な活動だけであると錯覚しがちですが、人間の行為の大部分はほとんど中枢神経系で反射的に行われており、こうしようああしようといった意識はほんの少しの作用しか人間の行為に影響を及ぼしていないことが判ります。
 ところで、この意識的な精神活動と反射的な精紳活動の関係も相対的な独立関係にあります。
 これは、反射は精紳の一種といえども直接に肉体を司る役割が強いため、どちらかというと肉体により密接に関係しているからと思われます。ですから、精紳と肉体との相対的な独立に見られるように、例えば意識的精紳活動に不具合があると同じように反射的精神活動にも不具合が生じることもあります。
 また反射的精神活動が悪ければ、それによって意識的精紳活動にも影響が及ぶことも考えられます。
 芸術創造に必要な高度な技を習得する場合、長年鍛練しても一向に腕が上がらないような人は、その現実を苦痛と感じるようになり、やがてその苦痛から逃れたいとする意識から段々とその内に素直な人間的な思考が出来なることが多く、その結果、創作に奇をてらうようになったり、本当に良い芸術作品を認めようとしなくなったりします。
 逆に、展覧会での受賞や金儲けのことばかり意識した作家生活が長く続くと、次第にせっかく取得した高度な芸術創造のための技術がうまく生かせなってしまったりもします。
 話は少し外れましたが、結局、人間の精神活動とは、大脳を使って行われる意識的なものと間脳、小脳、脊髄などの中枢神経を使って行われる反射的なものがあり、芸術を創作するときの精神活動の望ましい状態とは、芸術が精神そのものの現れであるとの前提に立てば、その双方の活動が共に充実していることが絶対条件となります。
 したがって、例えば、長い鍛練の結果、中枢系には高い技術を発揮させるだけの情報がありながら、作為的な意識的精神活動が強かったため、反射的精神活動を上手く機能させることが出来なかったような場合には、芸術としてはレベルの低いものになってしまいます。


● 3・3 認識と表現について ●

 認識とは、事実を知覚して理解するということです。
 例えば、目の前にいる犬を「私の飼っている太郎だ」と解ることです。
 この認識の仕組みについては、カントや西田幾多郎やその他大勢の有能な哲学者によって明快な説明がなされ、現在では部分的に理論の修正はありますが、科学的にもさまざまに検証され、ほぼ不動の理論とされています。
 その理論とは、細かなところでは異説はありますが、簡単に説明しますと次のようなものです。
 人間の認識は、まず事実について知覚や感覚が起こった時点ではまだ主観・客観にすら分化することのない精神の活動である直覚とよばれる生のままの純粋な経験があって、その次に直覚されたものの条件が過去の記憶などによって関係付けられて、その直覚が判断され認識されるというものです。
 そして人間の様々な思惟や意志、主観や客観といった意識の分化もこれによって惹起されるものとされています。
 目の前の犬を見たとき、まず「これは何である」とか「この犬は太郎である」などといった判断がなされる前に、まず「目の前の犬を見ている」という事実そのものの精神活動があって、そしてその情報を過去の自分の記憶に照らし合わせて「この特徴からすれば太郎という私の飼っている犬だ」と判断するというのです。
 これらは認識論と呼ばれるものですが、人間の認識といういわば一瞬の仕組みを、なにもこのように回りくどく考えなくてもと思われるでしょうが、先人のこの偉大な発見によって、今ではコンピュータでこの仕組みを上手く使って、入力装置(目などの感覚器)、制御装置(情報の直覚)、演算装置(判断)といった機能を持たせることで情報を効率良く処理していくのに役立っています。
 認識の仕組みを簡単に表わすと次のとおりになります。
《 対象 → 直覚(主客未分化) → 判断(主客へ分化) 》
 ところが、いざ表現については、認識論に比べどちらかというとあまり明確な理論の確立がありません。芸術論や美学でも体系化はされておらず、現代ではやっと記号論という哲学の分野で、表現についてまで理論化を進めようとする動きがみられますが、いまだ不完全の域を脱し得ません。
 芸術は表現の一つです。これを忘れては芸術の本質を理論化することは到底不可能です。
 先ほど書きましたように、認識論は人間の直覚以降の理論です。芸術もその作品を鑑賞するということのみに着目れば、認識論だけでも説明できそうな気もしますが、それでは「私の飼っている犬」を見たのと「ミケランジェロの彫刻」を見たのではなぜ心の動きに違いがあるのかが上手く説明できません。
 実は私はここに着目したのであります。
 認識も表現も人間の精神活動・意識活動いわば心の仕組みに他なりません。ただし、表現の仕組みは、先程書きました認識の仕組みとは丁度正反対の仕組みで成り立っているのです。
 認識は心が外界の対象から事実の情報を直覚いわゆる「純粋な経験」といういわば外界と精神とを繋ぐ接点によって知覚されるのですから、人間の表現についても、認識の仕組みにみられるような精神と外界とを繋ぐ接点が考えられるのではないでしょうか。
 表現は、声を出すにしても身体を動かすにしても、まず肉体とりわけ筋肉を動かすことによって行われます。
 この筋肉動作を惹起するものは思惟なり意志によるものと判断されますが、これをそのまま使って筋肉動作を行ったのでは、心そのままを表現するには不完全です。何故ならば、思惟や意志は、直感による事実を条件や過去の記憶によって判断なり分析した結果であることからも解るとおり、事実をありのままに直感し得る心の一部分に過ぎないからです。
 このことから、表現についても、認識の場合と同じように、それとは逆のアプローチである「純粋な表現」が考えられてもよいのではないかと思います。
 人間がある表現を成そうとする時は、まずそれに先だった主観や客観といった意識に分化した思惟や意志がありますが、表現が人間の精神そのものの具現であるならば、その分化している思惟や意志を精神そのものに統一しなおさなければなりません。それは丁度、認識の場合の純粋経験・直覚と同じ様に、主客の統一によって心そのものとして純粋に表現するのです。
 先人の言う「精神統一」とか「無心」などという表現は、これらのことを端的に言い表わしているものと思われます。
 西田幾太郎も「善の研究」の中で、直覚の連続、または統覚の説明で、認識の立場ではありますが、これに近いことを論じています。
 表現の仕組みを整理すると、次のようになります。
 《 思惟・意志(主客が分化) → 純粋表現(主客統一) → 芸術作品 》
 結局、思惟・意志、主観・客観に分化している精神を統一した主客未分化の心そのものである純粋な精神活動によってのみでしか精神活動の完全な具現はなく、これ以外はすべて不完全な表現となってしまいます。


● 3・4 芸術を決定付けるもの ●

 いままでの議論を整理してみましょう。
 まず、芸術は表現の一つであってほとんど私達の生活そのものであるということ、そして、表現は、表現者の精神そのものが物質的に表面に現れたものであるため、表現の仕組みについて科学的に理論付けを行わなければならず、また、その表現の基となっている当該表現者の精神のあり方を科学的に分析することが重要なポイントになることを確認しました。
 したがって、芸術について科学的に分析を行う場合は、表現された作品と表現者の精紳活動とを関連付けて分析する必要があり、創作された作品の形式についてのみ分析を行って、その特徴などから、具体的な作品であるから芸術であるとか、抽象的な作品であるから芸術でないとか、フィクションは芸術でノンフィクションは違うなどと論ずることは誤りです。
 また、表現された芸術作品は、表現者の精神のあり方によって決定付けられること、その精紳活動には、意識的なものと反射的なものに分けられ、双方が同レベルに重要であることを確認しました。
 芸術を決定付けるものは、作者の精紳のあり方であるので、優れた芸術作品が生まれることとなった当該作者の精紳の仕組み・あり方を分析することによって、客観的な基準を定めることが可能となります。
 したがって、一般的に定説と思われている「芸術は結局鑑賞者の認識のあり方によるため、芸術の絶対的な基準は考えられない」とする観念論的な理論も誤りということになります。
 人間の精神活動には、意識的なもの反射的なものがあって、それらを構成するさまざまの要素が細かく関連し作用し合って、例えば主観・客観、記憶や意志といった働きを形作っています。
 芸術が人間の精神のすべてを具現したものであるならば、これら複雑な人間の精神を構成する要素すべてを統一する表現がなされているか否かについて作品を分析することが必要となります。


● 3・5 芸術の定義 ●

 これまで、芸術とは表現の一つであるためその表現された作品には当該作者の精紳のあり方に密接に関係することを確認しました。
 したがっって、芸術作品は作者の精紳のあり方によって一定のレベルを有するものと考えられます。
 言い換えれば、人間が表現したものという意味で大枠での芸術があり、そしてその芸術は、その作者の精神のあり方のレベルによって質の低いものから高いものへ無段階に評価されるだけのことであるということになります。
 世間一般には、表現された表面的な形式の特徴を捕まえて、これは芸術であってこのような形式は芸術でないといった、形而上学的な議論が行われやすいのですが、このような議論の仕方は芸術を表現として理解せずに、その表現の基となる精紳に分析の基準を置かなかったため、他に分析するものが見当たらないので仕方なく表現された形式についてのみ分析してしまう誤りからくるものです。
 結局、芸術は作者の精紳のあり方が反映されたものであるので、芸術の質の高低は作者の精紳のあり方の高低ということになります。
 ところで、芸術か否かを作品の質の高低によって判断しようとする考え方がありますが、それでは何処からが質が高いと言えて何処からが質が低いとしたら良いのか、その境界がはっきりしません。芸術という言葉は、表現された作品を呼ぶ言葉であるので、人間の精紳活動の結果表現されたものであって一つの独立した鑑賞の対象になるものは、質の高低の差はあれど全て芸術としてしまって良いのではないかと思われます。
 白黒はっきりさせようとする考え方は、人間の心理的要求として判らない訳こともありませんが、これは先ほどの芸術に対する理解の誤謬からくる形而上学的な要求で、この要求をいつまでも強く感じているうちは、芸術についての根本的な理解が不足していることの現れということになります。
 例えば、人間には男と女がいるばかりでなく、赤ん坊もいればノーベル賞博士や白痴や殺人者もいます。平凡なサラリーマンや大臣や社長や仕出し弁当屋でアルバイトをしている人など様々な人がいます。白人や黒人、大人や子供など、それはもう形式的、項目的に分類しようとすれば無数の区分けや概念で整理が可能です。
 しかし、人間であるという基本的な条件を満たしているい以上、たとえ猫の子よりおとなしい赤ん坊であっても誰もが躊躇なく人間と呼びます。
 人を殺したからといって、犯人を人間の部類から外してしまって別の生物として家畜同様に処刑してしまうことは行われていません。あくまでも悪いことをした人間として法の裁きを適用します。
 芸術についても、芸術の条件を満たしているものならば全てそれは紛れもなく芸術と認めてよいと考えます。 
 そこには、ただ質的に高いか低いかということがあるだけなのです。


● 3・6 美の本質 ●

 芸術について語るとき、美を論ぜずしては片手落ちと言わざるを得ません。何故ならば、人々がある作品に対して芸術という称号を与える動機は、その作品から「美」を感じることで惹起されるからです。
 美とは、一体いかなるものなのでしょうか。
 それでは、いきなり美の本丸を攻めるのではなく、段階を追って徐々に美の本質を解き明かしていきたいと思います。
 人間は誰しも美を感じますが、そもそも何故このような機能が人間に備わったのでしょうか。
 人間に限らず全ての生物には、一般的に生殖を行うとか、栄養を摂取するなどの身体的な機能が先天的に備わっており、そして物を認識するとか、また、高等に進化した動物になるにつれ恐れや美を感じたり、自分の意識現象を外界へ具現させるための表現を行うというふうに、精神的な機能も先天的に備わっています。
 これらの機能は、ダーウィンの進化論によれば、長い生命進化によって自然淘汰され、その生命を現存せしめるように変化し、いわば備わるべくして備わったと言えます。
 これらの機能が備わったがために、その生物は自らの生命及び種の保存を維持できるうよう有効に進化を遂げることが出来たのです。
 西田幾太郎は、「善の研究」の中で、美がどのように現われるかについて、「美は、その対象となるものが自然の本性を発現し理想のごとくに実現することによりもたらされる」と言っています。
 例えば、密蜂は、より美しい花に集まるといわれています。
 今ここで私が美しいと言った意味は、人間が感じる美しさと蜜蜂の感じる美しさが同じであるということではなく、蜜蜂がどの花に立ち寄った方がより蜜蜂の本性に合致するかという意味での、いわば蜜蜂の天賦を有効に開花させるための道標と言う意味合いで美しいと言ったのであります。
 蜜蜂がより沢山の蜜を得ようと美しい花に集まるのも、草木が自分の花粉をより遠くまで運ばせようとして蜜蜂を誘うために美しく花を咲かせるのも、長い生物進化の結果もたらされた自然の本性であって、水分の摂取がうまくいかない花は花弁の色つやが劣り当然に蜜の分泌も悪い、蜜蜂はそのことを長い進化の結果、本能として知覚しているのです。
 言いかえれば、花の自然の本性の発現が不十分であることが、蜜蜂にとっては美の欠落として知覚されたということになるかと思います。
 花の自然の本性の発現とは、結局、花の自らの生命及び種の保存のために長い生命進化によってもたらされた機能が、それに合致すべく働くことであるといえましょう。
 ところで、この花の美しさは、いわば花の身体的な機能について現われたものですが、人間などの高等な動物の精神的な機能についても、同じようなアプローチで美の具現がなされます。
 本書はいままで、人間は表現をする動物であることを論じてきました。
 そしてその表現は、人間が生きていくうえで重要な機能であり、それは先天的な身体機能と同様、長い生命進化に裏打ちされ、したがって、その理想的なる具現はいわば人間の天賦、自然の本性であります。
 例えば、生まれたばかりの赤ん坊が空腹になったとき、その状態を泣くという行動により表現して、何とか母親に伝えようとします。この時、泣くという表現は、母親の精神に対しより強く訴えるようにする必要がありますが、精神に強く訴えるためには、本当に空腹で苦しんでいる赤ん坊の精神そのものが具現出来るよう理想的な表現が必要となるのです。極端ですがもし仮に、泣き方の貧弱な赤ん坊が居たとしたら、その母親は赤ん坊の空腹に気付かず、みすみす我が子を餓死させてしまうことになるかもしれません。これらの例は、そう頻繁に起ることとは考え難いことですが、長い長い生命進化の過程で自然淘汰されていく可能性は大いにあるでしょう。
 いまお話しした例から判るとおり、精神そのものを具現させるために表現を理想的に行うこと及びそれを第三者の精神そのものの要求または美として感じとることは、生命進化の結果人間にもたらされた精神的な機能、天賦なのであります。
 ここまでの説明で明らかになった、しかも大変重要な点があります。
 それは、人間の精神そのものの表現が、第三者にとっては美となって感じられるということです。これを逆にして言いかえるならば、人間の精神そのものとしての表現ができなかった場合は、それは第三者にとって欠落した美となって感じられるということになります。 
 偏った観念によって表現されたものは、精神そのものでなくなります。精神そのものとは、観念も思惟も記憶も反射的なもの意識的なものすべて包含したものであるため、そのどれかが欠けても突出してもだめなのであります。これらをすこしでも逸しているものは結局精神の一部ということになり、精神そのものという自然の本性を欠いたものになり、それだけ表現された美も欠けたものとなってしまいます。
 芸術が、それを表現する人間の精神のあり方に左右されるということを具体的に述べるならば、すなわち、その人間が自らの精神状態を、観念も思惟も記憶も反射的なもの意識的なものすべて包含し精神そのものとして保てるか否かに決定されるということになります。


● 3・7 芸術の効用について ●

 芸術に対して私達は、自らの生活をより豊かにしたいという基本的本能的な欲求に基づいたものを持っていることは、前に述べた通りですが、もう少しこのことについて深く考えて、そこから芸術の効用・必然性を探り出してみたいと思います。
 話を判り易くするために芸術に係るこの欲求を仮に「芸術欲」として、人間の種の保存の本能と照らし合わせて考えてみたいと思います。
 種の保存と芸術とは一見関係の無い事柄のように思えますが、どちらも本能的ということで共通して比較し易いと考えます。
 人間が人類という種を保存するためには、生殖が必要です。この機能の基になる人間の欲求は「性欲」と呼ばれていますが、芸術にかかる「芸術欲」との関係に非常に良く似ており、したがって、これに置き換えて考えることが出来ます。
 生殖の効果は、言うまでもなく子孫を代々残してゆくという目的がありますが、その外にも性的な快楽を得るという目的もあります。
 性的な快楽を得たいとする欲求は、長い生物進化の過程で備わったもので、その必然的理由は、性的快楽を得るという目的が、いわば子孫を残すという目的をバックアップしている仕組みということが言え、むしろこの仕組みがなかったのであれば、子孫を残すという目的は達成できなかったであろうということになります。
 子孫を残すという目的は、人間の生存は単独では不可能であるという理由から必要不可欠なものですが、この機能だけではうまく子孫を残すという目的が達成できなかった事実が、長い生命進化のうちにあったために、仮に前者を主目的、後者を従目的としますと、主目的を確実なものにするための従目的の付加、または主目的達成機能と従目的達成機能の同化がなされたものと考えられます。
 ところで、種の保存にかかる理論は、現在までいわば肉体部分のみの保存に着目され展開されてきました。しかし、人間という一つの個体は、いままでお話ししましたとおり、その精神と肉体とが不可分であることから、精紳部分の保存機能についても生命進化の過程で人類に備わっていると考えた方がよいでしょう。
 ここまでお話した段階で、もうお判りになった方もいらっしゃるかと思いますが、私の言いたかったことは、人類の種の保存を可能にしている生命機能のうち、肉体部分の保存を可能にしているものとして生殖があり、精紳部分の保存を可能にしているのが、他でもない、表現ないしは芸術だということです。
 人間は肉体的にも精神的にも単独では生存することは不可能で、これを克服するための仕組みとして、肉体的には生殖機能が進化の過程で備わり、同時に、精神面では、当該人間の精神そのものを表現し鑑賞者はそれを美として摂取する機能すなわち芸術が与えられました。
 これによって人類は、精神的にも第三者の恩恵を受けることができ、代々生存することが可能となったのですが、人類は精神的にも種の保存を成し遂げ、現在のような文化を築くことができたのです。
 芸術の効用・必然性はここにあります。


● 3・8 芸術の分析について ●

 科学は世の中の事象について認識することに他なりません。そして、その認識のために分析という手法を用います。
 一見混沌としていて理解し難い事象でも、科学はその事象を形作っているものを様々の要素に区分けし、その要素同士の関係を一つ一つ整理していきます。すると次第に混沌の中から法則が見出され、ついには事象の全体が明確になり、私達が認識できるようになります。
 したがって、分析は科学にはなくてはならないものということが言えます。
 それでは、芸術を科学的に分析するためにはどうすればよいのでしょうか。
 芸術は作者の精紳が物質的に表現されたものに違いありませんが、その表現された対象の形式のみを要素ごとにいくら区分けしたところで、表現の基となった精紳活動は分析できません。
 なぜならば、表現された対象物は、すでに作者の精神は物質的な性質を借りて表象となって外界に具現した時点で個々の要素に分解され、精紳そのものではなくなってしまっているからです。
 したがって、創造された表現がいったいどのような作者の精神活動に基づいたものなのかを関係付けながら分析する必要があります。
 判りやすく言えば、表現された対象物の個々の要素のあり方が、はたして統一された精神そのものによる表現か否かを分析するということになるかと思います。
 例えば、彫刻などで伝統的技法はかけらも無くただ威圧的な表現のなされている場合、また単に何かグロテスクな表現がなされている場合、これを制作したときの作者の精神は、鑑賞者に対する何らかの脅迫の念かまたは美というものの誤った認識による恣意が強く、その他の精神がどこかに置き去りになってしまって、結局作者の精神の一部しか表現していないことになってしまっています。当然にその作品からもたらされるものは欠けた美にほかなりません。 
 人間の思推も意志も、意識的記憶も反射的記憶も、主客までも統一した精神そのものを表現するならば、当然にその表現された対象物の個々の要素はいずれの方向にも突出することなく、人間のあらゆる精神をすべて包含した表象になるはずであります。
 過去の優れた芸術作品のすべてはこれに該当していて、人間の喜びも悲しみも、慈悲も恨みも、献身も略奪も、ひらめきも熟慮も、偶然も必然も、すべて統一され包含されて表現されているのです。


● 3・9 精神活動の分析 ●

 芸術の評価は、それを制作した作者の精神活動すなわち心を評価することに他なりません。
 心の評価については、善とはどういうものであるのかといった議論が昔から大勢の名のある哲学者によってなされてきました。天真爛漫がよいとかどんな苦境にも屈しない気骨がよいとか言われ、ある程度年齢を重ねた人はそれぞれに至誠であるとか人のために尽くすとかいう座右の銘を掲げています。
 これらは大変に尤もなことで、私もことあるごとにこれらの名言に触れ、心洗われる気持ちになったりしています。しかし、これらの人間の心に対する評価のしかたは、各人の様々な人生から経験的に確立されたものであるため、要点・力点の置き場所が人によって様々です。これが例えば全体主義優先とか個人主義優先とかのイデオロギーの違いにもなっています。
 したがって、これらの評価のしかたは、世の中の様々な事情によっては、必ずしも当てはまらない場面も出て来てしまいます。
 はたして、この世の中には絶対的に善なるものは存在するのかといったことが最終的に議論されます。
 善とは、人間の行動に対して一定の評価基準を与える概念であります。そして、その人間の行動とは、すべて当該人間の精神活動のみによって決定付られるのです。
 芸術の質の高低は、作者の精神のあり方に関係付けられるものであるため、そこに現われる美は、すなわちその作者の人格の持つ美そのものということになります。 
 科学は、自然界の事象を認識するために、その事象について分析を行います。その結果、事象と認識とは客観的に一系列で整理され理解されます。
 芸術もこれと同様に、ある一定の精神活動があって、その精紳が物質的に表現されたものであるので、精紳と表現の関係も客観的に一系列で整理されるはずです。
 したがって、作品の質の高さと心の質の高さ客観的に結び付けている関係を探り出せば、不可能と思われていた心の評価も可能となります。
 西田哲学にあるとおり、真・善・美は真実在の様々の様子であり、インド哲学に説かれているごとくに、同一のものであります。簡単に言いますと、真とは、唯一の真実在であって、それは人間が外界の事象を知覚するに先立つ直接・純粋の経験なる意識現象であり、この瞬間の精神はいまだ主客にすら分化することのない生のままの統一されたものであって、それは自然の本性すなわち善ないしは美であると言われています。 
 人間の主客を統一した精神そのものは真であり、その状態に自らの精神を保つことは善であり、その精神をそのまま表現するとそれは美となって具現されるのです。
 したがって、芸術の質の高さを決定する作者の人格の高さとは、すなわち自らの様々に分化する精神をいかに一つに統一できるかにかかっているのであります。
 それでは、このことを踏まえて、様々に分化した人間の精神活動を少し具体的に見て、そこから統一された精神とはいかなる物であるかを考えていきたいと思います。
 まず、私達の今現在の様々な精神活動には、まず第一に考ええられるのは、人間の精神活動の基礎となる記憶すなわち知識です。第二に、喜びや悲しみ、怒りや悦楽といった感情です。そして第三に、これら知識や感情に基づいて、自らの精神を外界へ具現させたいとする意志があります。
 これらは昔から俗に知・情・意と言われ、私達の精神活動をその活動の特徴から大きく分類したもので、これらよりもっと細かく分類しているものや別の区分けの仕方で整理しているものもありますが、要するに私達の精神は、一言で言えば様々な機能を持っているということで、解りやすく言うならば、例えば「あの人は知識は豊富だけれど意地が悪い」とか「何々さんは人はいいんだけど要領が悪い」などの言い回しのように、人間の精神には知識や感情など様々な様態があるということで、日頃私達も、これらのうちどれか一つ欠けても突出しても不完全なのだということを知らず知らずのうちに前提にして生活しています。
 「人を殺す」という行為は、いつの時代でもほとんどの人がそれは「悪(善ではない)」という認識を持ちます。しかし、この「人を殺す」という表面的な動作の特徴だけから、これを善でないとしている慣習は、先ほど述べた「精神統一が善となる」いわば統一理論の考え方には立脚しておりません。統一理論の立脚地から見れば、「人を殺す」動機の大方は、一時の感情のみがあまりにも大きく突出するため、それは紛れもない「悪(統一されていない精神の具現=美の欠落)」でありますが、時には、戦時中など相手兵士から襲われるなどして自分の愛する人や親兄弟の生命が極限状態にあるようなとき、一個人のさまざまの知識・感情などをすべて結集・尊重して統一的に判断した結果、ここで相手兵士を殺める以外にこれら自分の愛する人を救える方法が他に見つけられないといったような場合には、「人を殺す」という行為が「善(完全に統一された精神の具現=美)」となることも充分に考えられるのです。


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