【4 芸術学への誘い】

● 4・1 表現形式と表現内容 ●

 芸術を鑑賞するにあたって、その表現形式と表現内容ということが良く取り上げられ議論されているようです。そしてその議論の多くは、表現形式については概ね共通の概念が確立されているようなのですが、表現内容については現在でも様々な定義付けが試みられています。
表現形式とは文字どおり表現されたものの物質的な特徴で、例えば、使用している絵の具の色や種類、大きさなどで、音楽で言えば短調であるとか弦楽四重奏であるとか、これらは目や耳や肌で感じとることが出来ます。ですから人々は安心してこれを理解することが出来ますが、それでは表現の内容とはどのようなものなのでしょうか。
これらの問題を取り扱う場合、昔から行われてきた手法の一つに、観念論と呼ばれているものがあります。これは哲学の伝統とも言えるもので、かの偉大なデカルトやカントもこの手法によって様々の問題について分析を試みています。
これは簡単に言えば、「事象の存在の根拠を観賞者の認識に求める」というもので、デカルトの「われ思うゆえに我あり」の言葉に端的に表れています。「われ思う」の認識があるのだから、「我」は紛れもなく存在することになる、と言うものです。
デカルトのこれはこれで偉大な天才的な発見と呼ばれるものですが、この世の中には物質的な存在の他、物事同士の関係としての存在もかなりあります。
例えば、人間の精神は脳内の科学反応の結果として存在するもので、これは目にもみえず手にとることも不可能です。そして多くの観念論者は、その存在の根拠を人間の認識に求めたり、根拠が見えないのにその存在は経験的に感じられるためオカルト的に考えたりしてしまいます。
リンゴが描かれている絵について「この作品の内容とは何か。それは何処にあるのか。」と例えば学生に尋ねると、大抵次のような答えが返ってきます。
「内容とはリンゴが描いてあるということ、そしてそれはここにある。」と言って作品を即座に指差すでしょう。ところが少し考えて内容というものが捉えどころのないことに気付き、「待てよ、内容はやっぱりここには無くて、実際のリンゴのところにあるのかな。それとも作者の存在と同一かな。もしかしたら作品そのものかな。」というふうに段々と自信無げになってしまいます。
名のある哲学者ですら観念論の立場から説明することが多く、内容の存在は観賞者の認識に依存するということになって、人それぞれの認識の違いに左右されるため、結果的に観賞者の数だけ様々な内容が存在してしまうという奇妙なことになってしまいます。
人間はどうも目に見えないもの、すなわち物質的でないものについては、その存在の根拠を他の物質的なものに強引に関係付けたり、その存在の根拠を観賞者の認識に求めたり、極端なものになると、存在自体を否定してしまったりしますが、これらはいずれも間違いであって、事象との関係として存在するということを理解すべきです。
表現内容とは表現形式との関係として存在することになるのです。


● 4・2 感情移入について ●

 感情移入とは、私達が芸術作品を鑑賞するとき、その作品を通じて作者のその時の精神と同化することです。
 作者の精神そのままを鑑賞者の精神が直に感ずるこの感情移入なしには、芸術作品の鑑賞は考えられません。
 人間相互の精神は、例えば、他人の歯の痛みを直接自分の痛みとして感じることができないように、直接に連絡を取り合うことは不可能です。
 人間が精神そのものを表現し、それを第三者が表現者の精神そのものすなわち美として感ずるという仕組みは、長い生命進化の結果私達に備わったものであることは、前に述べたとおりでありますが、感情移入は、この仕組みを有効に働かせるための重要な機能なのです。
 感情移入についての解説は、日本では夏目漱石の文献に見られますが、過去あまり理論的に捉えられたことがありません。
 自分の感情と他人の感情とを同化させるなどというと、何か難しい特別なことのように思われますが、決してそんなことはなく、私達は日常知らず知らずのうちに自然に行っています。
 例えば、ひいきにしている力士が、相手力士の猛烈な突っ張りを受けながら土俵際で必死にこらえているのを見ると、こちらも自然に身体に力が入ってしまいます。赤ちゃんを抱いた夫婦が側を通りかかったとき、ニコニコしたその赤ちゃんに見つめられると、こちらも何だか穏やかな気持ちになります。 
 芸術作品の鑑賞には、これらと同じ様な仕組みが自然に働きます。
 感情移入は、他人の精神を理解したいという、人間の本能的な仕組みであるといってもよいでしょう。
 勢いのあるタッチの線質の多い絵画を見れば爽やかな気持ちになり、太々としてしかも弾力に富んだ印象の彫刻作品を見れば安定的ななかにも内に秘めた力強さを感じます。高貴な感情が強く作品に表れ、これはとても凡人の成せる技ではないと関心したり感動したり、時には畏敬の念を抱いたりします。
 この感情移入は、いわばポジとネガの関係にある芸術作品と作者の精神との結びつきを探るための重要な仕組みであると言えます。
 ところで、事象を認識する科学と、精紳を表現する芸術とは、そのアプローチの仕方が全く逆になっています。科学は事象をその形式について分析するのですが、芸術は、その表現された作品形式について分析することはできても、その結果のみを用いてその表現の基となった精神を直に第三者の精神に同化せしめることは不可能です。
 そこで、表現された芸術作品から作者の精神活動を分析するためには、この感情移入を用います。
精紳とそれが投影されたことになる表現とは、丁度カメラでいうところのネガとポジの関係と同じです。
 精紳のままでは、この世の中の物質的な世界へ働きかけることが不可能であるため、要するに人間の目に見える形に物質的に変化させて表現することになったといえます。
精紳のネガで人の目に見える物質的なポジを現像(表現)するのです。
そして芸術評価のポイントとなる感情移入は、表現の赤を見てネガのマゼンダを感じ取るようなものです。
Aという精紳を第三者に伝えるために、芸術という表現を行って作者はA’を創造します。
観賞者はそのA’に対して感情移入を行って、Aという精紳を自分の中に取り込むのです。この時、これがBやCになってしまったら、人間の表現を行うという基本的な本能は役に立たなくなってしまいます。


● 4・3 芸術家の条件 ●

科学は認識の一つであるから、自然界の様々な事象について分析し理解するためには、効率の良い分析手法や分析された要素の解決方法、また要素間の関係付けのために先人が解き明かしてきた理論を必要とします。
このことから、科学は「知識」の高さに決定されると言えます。
ところで、認識というのは、知識さえあれば個人の精紳の質的な高さ低さには関係なく、万人が共通に享受することが出来ます。例えば、目の前にブルドックを見た場合、その犬の種類はどの部分を特徴として捉えればよいのかという分析手法にかかる知識と、その特徴はブルドックという種類の犬であるといった知識があれば、誰にでも認識することが出来ます。
犬を心から愛する人なのか、反対に犬と見ただけですぐ蹴飛ばしてやりたくなるような野蛮な人なのかは問題ではなく、知識さえあれば、人間は事象を認識することが出来てしまいます。
ところが、芸術の場合は、作者の精紳の表現であるため、その作者の精紳のあり方がその作品を決定付けます。
先程のブルドックをキャンバスに描く場合、ブルドックの特徴についての知識なども必要にはなりますが作者が動物に対する愛しさをあまり抱かない精紳の持ち主であるならば、その作品に描かれたブルドックには愛くるしい表情は表現されるはずはなく、思わず蹴飛ばしたくなるようなものを表現することでしょう。
結局のところ、芸術の質の高さはその作者の「人格」の高さに決定されるということになります。
芸術家は絶えず人間的な感動を与えられるような表現の基となる精紳のあり方とはどのようなものであるのかを考え、現実の生活の中で人格を高めるように努力してゆかなくてはなりません。
現代は特に、科学によって生活が豊かになったこともあって、科学至上主義になっています。
そして人々は、知識の高さはそのまま人格の高さであるかのような錯覚に陥っており、これが学力偏重の学歴社会を生む原因にもなっています。
知識の高さは、人格の高さには関係がなく、知識の高さによってその人の精紳の高さは測ることはできません。
精紳の高さに関係のあるのは表現であって、したがって、その表現すなわち芸術の高さでその作者の精紳の高さを推測することができるのです。
人々は、最終的には、精紳の高さを求めようとします。これは、本能的に人間が安堵を求めているからですが、今後の人類の安堵の向上のためにも芸術に対する正しい理解が不可欠です。


● 4・4 心そのものとしての表現 ●

 人間の精神現象・意識活動そのものの具現、すなわち心そのものの表現が「美」となるということを説明してまいりましたが、それでは、心そのものを表現し美を発現させるためには、具体的にどのようにすればよいのでしょうか。カントに代表される認識論の確立や心理学、大脳生理学などの進歩によって、人間の心についてはかなり明確な区分がなされています。例えば感覚器からの知覚や中枢神経の記憶、感情や意志といった具合に、人間の意識現象すなわち心にはいくつかの様々な状態が考えられます。これらは細部について異説があり、より完全な学説確立のためには、更なる研究が期待されるところですが、要するに、美を創造するための心そのものの表現とは、これら私達の精神現象をすべて一緒くたに表現することなのです。この理論は、かなり乱暴に思われるでしょうが、昔から俗に「精神統一」とか「欲を捨てて己に勝つ」などと言われてきた芸術創造の極意は、実はこの「精神現象の統一的表現」の重要性を言い得ていたのです。展覧会で受賞することばかり考えて作品を創作したり、過去に名声を得たのをいいことに美の追究そっちのけで金儲けばかり考えて作品を創作したり、逆に 、手先が器用で古典的な技術が人一倍扱えることを唯一の励みとして新しい創作の工夫を怠っていたりする意識活動は、精神現象の統一が破れ、部分的な意識や一時の感情などが突出している(裏を返せば、それ以外の感情や記憶を欠いている)ため、その表現されたものは、作者の精神活動の一部分しか具現されていないこととなり、結局、表現された美も欠けたものになってしまうのです。幼い頃から鍛錬し身に付けた芸術創造のための技術も作品創作の時の一瞬のひらめきも、大きくゆったりとした感情も激しく突発的な感情も、憎しみも慈悲も、喜びも悲しみも、これらすべての人間の意識現象が統一され一個の作品となって表現されたとき、そこには人々の心を強烈に震撼させる芸術・美がおのずと創造されているのです。
私はここに、美の具現が精神活動の統一の程度に左右されるという仕組みを「美の統一原理」と名付け、この原理の一層の普及を図らんとするものであります。


● 4・5 善なる行動とは ●

善なる行動などというと、何か宗教じみた、また学問的に特別のことのように思われるでしょうが、善・悪を区別するということは、人間の行動について価値判断を行うことで、私達は日頃、食卓から楊枝を取るといったほんの些細なことから、人生や国家の岐路を選択しなければならないといった重大なことにいたるまで、常にこの種の判断を行って生活しており、したがって、善なる行動について正しく理解することは、私達の生活をより豊かにし、誤りなく人生を送るために欠くことのできないものなのです。本書が一貫して述べているとおり、芸術創造は美の表現であり、それは表現者の精神現象の統一的具現でありますが、行動こそ私達人間の表現・精神活動の具現でありますから、その善なるものとは、すなわち人間の精神活動の統一的具現に他ならないのであります。この理論は、すでにプラトン哲学やインド哲学に見られますが、簡単に言ってしまえば、善なる行動とは、様々に分化している人間の精神を統一して行動することなのです。
目先の損得や快楽、一時的な感情のみに触発されて行動するのではなく、他人の感情に対する慈悲や伝統的な慣習への考慮など、保身的な精神も改革的な精神もすべて尊重し統一して行動することがすなわち善なる行動なのです。一生のうちに私達は何度か大きな選択に迫られますが、このときの判断を内省する方法の一つとして、この判断は、一時の感情も後に予測される周囲の評価も、慣習的な知識も一回性のひらめきも、個人主義も全体主義も、憎悪も慈悲も、己のすべての精神が統一され均衡が保たれたものであるかどうかを考えてみるとよいでしょう。
プラトン哲学においても東洋哲学においても「均衡」や「中庸」という考えが重んじられ、西田幾太郎も「善の研究」の中で、この理論を「統一的精神(意志)の活動説」として全面的に肯定しております。ただ私がこれらの理論に一つ付け加えたのは、精神の統一とは一体何と何を均衡させるのか、また、この行為自体まさしく自然の本性の現れであり、それはそのまま美となるということです。


● 芸術の基本(短編) ●

 芸術とは、人間が表現したものを呼ぶ言葉であるので、まず「芸術とは人間が表現したものに対するある種の称号である」ということが言える。
 次に、表現されたものについて鑑賞者が芸術と呼ぶ動機は、その表現されたものから美を感じることで惹起されることが常であるから「表現されたものが芸術であるためには美が表現されているということが必要である」ということが言える。
 さて、人間が美を感じるとる機能とは、長い生物進化の結果もたらされたものであり、その美とは、それを感じとることで人間にとっては生物進化を有効にもたらしたとすることができることから、「人間が種の保存を含めその生命の維持に必要な事物を感じとるための道標がすなわち美である」ということが言える。
 また、美によって人間が生物進化を有効に遂げてきたという事実から、「人間にとっては、美とは自然の本性の現れである」ということが言える。
 一方、表現とは、人間の精神現象が物質的に表面に現れることであるが、人間が表現を行うことについても、社会的動物である人間が生活するうえでの重要な機能であり、人間がより有効な生物進化を遂げるためにはより理想的な表現を行うことが必要であったとすることができることから、理想的に人間の精神現象を物質的に具現することができた表現は、人間の存在も自然の一部と考えると、美を感じとる機能と同様に、自然の本性の現れとなるということが言える。
 これらを整理し換言すると、人間の理想的な表現は、自然の本性の現れすなわち美となって具現されるということが言える。
 ところで、人間の精神現象は、大脳神経系の働きによる意識的なものと中枢神経系の働きによる反射的なものがあり、これらは互いに有機的統一的に精神そのものとして機能していることから、人間の精神現象を理想的に表現するためには、これらのものを有機的統一的に主客合一の精神そのものとして表現されることが必要であるということが言える。
 以上を整理すると、次の通りの結論となる。
「人間の意識的精神現象及び反射的精神現象を有機的統一的に精神そのものとして表現した場合、それは自然の本性すなわち美となって具現され、結果として鑑賞者はそれを芸術と呼ぶのである。主客合一の精神そのものの表現はすなわち美であり、人々はそれに芸術という称号を与えるのである」。



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