運動の記憶

 最近では、書道に限らず芸術全般について、「芸術は一瞬のひらめきが全てである」とか「人間の意識を超越したものが芸術を創造する」などと言われ、素人目には、何だか芸術を志すには特別神懸かった人でなければならないような気さえしてしまいます。
 今の例は少し極端ですが、元々「術」という文字を人間の行った行為に対して与えるその動機は、その行為に対する驚きに他なりませんので、こういう言われ方も判らない訳ではありませんが、自ら練習を重ねて、これから「芸術作品」を創造していこうとする私たちは、この例のような短絡的な考え方に陥ることには気を付けたいものです。
 前置きはこのくらいにしまして、書を学ぶうえで一番の基本となるものは他でもない「記憶」です。
 子供は、親のまねをして大きくなります。女の子などはお母さんの口癖そっくりになったりします。学校へ行くようになると、今度は先生や友達、またはテレビの主人公のまねをしたり、勉強でもまず暗記することから始めます。社会へ出ても、会社の習慣や上司の仕事ぶりのまねをします。結局人間は、まねすなわち「記憶」をしないと育たない生き物なのです。そして私たちはこの沢山の「記憶」をもとに、さまざまな身の周りの事象に臨機応変に対応しているのです。
 ここで一つ注意する点があります。芸術やスポーツなどに必要な記憶は、通常の学問のとは違った「運動の記憶」であるということです。
 運動の記憶は非常に複雑で、例えば筆を持つということだけ考えても、筆に触れる指の皮膚の感覚、紙面に対する筆の角度の感覚、筆を胸の前に掲げる腕の感覚等々、細かく見ていくと切りがありませんが、これらの感覚は、私たちの身体中にある無数の感覚器官によって中枢神経に記憶されます。
 ところで、中枢神経の記憶は「記憶され難いが忘れ難い」という特徴があります。したがって、その特徴を書を学ぶことに生かすためには、「有効な運動を繰り返す」以外にありません。
 古典や師、または気に入った先人の書の細かな部分についてまで良く観察し、どういった加減の用筆でこのような線が書けるのかを、繰り返し練習するのです。有効な運動の記憶のためには、量よりも質の勉強が決め手になります。
 これらの鍛練の結果は自ずと作品に現れ、鑑賞者はその作品に「芸術」の称号を与えることでしょう。