臨書について

 臨書については、昔から書を学ぶうえで特に重要であるといわれてきました。
 皆さんもよくご存知の「書譜」をはじめ、過去から様々の書論の中で、臨書の重要性が説かれています。
 清時代の書家・王虚舟の書論には「臨古は須く(すべからく)我有るべし」と言い、また同時に「臨古は須く我無かるべし」と言っていますが、これは、矛盾しているということではなく、臨書に対する望ましい姿勢を的確に言い表しているのです。
 一般にはこの姿勢について、単に形式だけを捉えて、「意臨」「形臨」という言い方をしますが、臨書の本質について誤解を生じさせることが多いので、私はこれらの言い方をあまり好みません。
 臨書に対するには、まず自分がなければなりません。
 どのような用筆の結果このような線になっているのか、入筆の方向や筆圧の加減を細かく見て、同じような線や形が再現できるまで何度も何度も繰り返し試してみるのです。
 自分からこれらのことを主体的に試みるのです。
 これらを何度も繰り返しているうちに、何故このような起筆位置や入筆の方向でなければならないのか、何故その部分に加圧されているのかなどが段々と解ってきて、確信をもって線を引くことができるようになるのです。
 こういった主体的な行動は、「もうこれ以上細かく見るのは疲れたな」とか「手本どおりの線が引けないけれどもう諦めてしまおうかな」などの怠惰な自分や注意深さの無い無神経な自分を無にしなければ行えません。
 古人の言う「臨古は須く我有るべし、臨古は須く我無かるべし」ということの意味を解りやすく言えば、「書の向上の妨げとなる「怠惰な自分」や「無神経な自分」を極力排除して、確信をもってすべての線が再現できるよう積極的に探求せよ」ということなのです。
 確信なくただ惰性で臨書をしていては、いつまで経っても向上は望めません。