第1章 全ての権力をソビエトへ!

 レーニンに立ち返ってソ連社会の全面的立て直しを図り、社会主義の新生をめざす――これが書記長就任以来ゴルバチョフがとってきた路線であり、著作や演説の至るところで繰り返してきたスローガンである。実際、彼は党人事を刷新してグリシンやロマノフをはじめ旧ブレジネフ派のスターリニスト幹部を次々と追放し、同時に党幹部を複数選挙によって選ぶことも定着させた。
サハロフ博士をはじめ多くの政治犯が釈放され、又、86年のチェルノブイリ原発事故を契機に、これまで国民の目に隠されてきた多くの情報が堰を切ったように公開されるようになった。
人々が政治的自由を取り戻して行くにつれ、ソ連共産党の政治的指導力と地方行政機関、労働組合、その他の公共組織との間にどのような関係を持たせるべきかという問題が浮上してきた。その一つに「ソビエト」の取り扱いがあった。「ソビエト」とは1917年の革命当時、労働者や兵士、農民たちによって自然発生的に創設された自己統治のための評議会である。立法権と行政権を兼備するこの直接民主主義の統治機関は、1905年の敗北した革命の時も組織されたが、歴史的には伝統的なロシアの地方自治機関、村落共同体にまでさかのぼることが出来る。それは「進んだ、より革命的な携帯におけるロシアのミール」[註①]にほかならなかったのだ。1917年の2月革命の後、このソビエトが時の政府と並立して、二重権力状態が生み出された。物情騒然たる情況の下に帰国したレーニンが『4月テーゼ』において「全ての権力をソビエトへ!」というスローガンをボルシェヴィキ党内外に提起した話は有名だが、実は彼はこのスローガンを無名の大衆やアナーキストから借りていた。このスローガンはレーニンの帰国のずっと以前から、人々によって唱えられていたものだ。そしてレーニンは、自分の党派がソビエト内部で主導権を握れないのを見て、いったんはこのスローガンを撤回する。………。
今日のソ連は正式の国名を「ソビエト社会主義連邦共和国(USSR)」と称しながらも、ゴルバチョフが登場するまでは、このソビエトは形骸化し、政府の下請け機関と化していた。ゴルバチョフは言う。

とどのつまり、社会主義革命に生を受けた民主主義組織の「ソビエト」は、その機能 を十分発揮することなく、弱体化していった。そこでわれわれはペレストロイカの一つ のプロセスとして「ソビエト」組織の復権、つまり社会主義的民主主義を体現するため の政治権力を回復させるという難題に立ち向かうことになったわけだ。そして現在、「ソ ビエト」が自力で創造的活動を推進できるような諸情況を整え、「ソビエト」の威信と 権力を復活させるために最善を尽くしているところだ。[註②]

 この公約は実現された。1987年10月の党中央委員会総会において、ソビエトの役割を強化し、ソビエトの活動に干渉しないことが決議され、翌年6月の第19回全ソ労組・共産党大会でソビエト組織の選挙制度と管轄業務について再検討が加えられた。定員よりも多くの候補が指名されるようソビエトの選挙制度を変更する必要があると、ゴルバチョフ自らが宣言した。ほぼ70年ぶりに「全ての権力をソビエトへ!」のスローガンが復活した。
事態はこれにとどまらない。ノーメンクラトゥーラ最上層部による「上からのテクノクラート革命」として始まったペレストロイカは、権力機構内部の改革派と保守派との争いとは別に、それまでは受動的存在でしかないと見られていた大衆の中に社会の真の変革を要求する有形無形の運動を誘発し、「下からのペレストロイカ」のプロセスを始動させたのである。
エコロジスト、文化運動、非共産党系社会主義者などの様々な自律的グループがソ連各地で結成されたが、その中の一つ「社会主義的社会クラブ連盟」(FSOK)は次のような宣言を出している。

  この宣言に署名する集団および組織は、わが国の社会主義的発展の展望を支持する。 社会主義を確信するものとして、われわれはソ連における階級なき社会の建設と国家の 完全な死滅という10月革命で宣言された目標に同意する。自主的な社会的諸集団、諸 組織の形成と社会におけるその役割を通じて、われわれは社会的自主管理を発展させ、 行政的・官僚的構造を排除しようとする。[註③]

 この宣言の根底にあるのは、現在のソ連体制が10月革命が本来めざしていたものとは異質なものに変質しているという認識であり、それ故10月革命の積極的遺産の回復として「全ての権力をソビエトへ!」のスローガンを彼らは全面的に押し出すことになるのだ。中心的活動家の一人ボリス・カガルリツキーは『インターナショナル・ヴューポイント』誌とのインタヴューの中で次のように発言している。

  人々が「全ての権力をソビエトへ」というとき、念頭にあるのは既存のソビエトでは なく、本当に選出された昔のソビエトなのです。[註④]

 「本当に選出された昔のソビエト」………。それはいかにして「全ての権力」を握るに至ったのか。70年前に立ち返り、10月革命の過程を再現してみよう。

〇           〇

 1917年2月のペトログラードのストライキを契機に民衆の叛乱はロシア全土に広がり、軍隊も合流して17世紀以来のロマノフ王朝を倒した。この革命は全く自然発生的なものであり、前衛党は何の役割も果たすことは出来なかった。人々は自発的に工場を占拠し、1905年の経験にならって各地区、各工場、各連隊ごとにソビエトを結成した。当時ロシアにはブルジョワジーに基盤をおく立憲民主党、ナロードニキの伝統を受け継ぐ社会革命党(チェルノフを党首とする右派とマリア・スピリドーノワを指導者とする左派へ分裂しつつあった)、マルトフに率いられた社会民主主義労働党メンシェヴィキ(少数派)、同ボルシェヴィキ(多数派)[この二つの党派の呼称は、1903年の会議のただ一回の投票の結果による。それ以降の党活動でどちらが人数的に多かったかを意味するものではない。なおボルシェヴィキ党の党名は1918年3月の第7回党大会でロシア共産党へと改称されるが、本稿では最後までボルシェヴィキという呼称を用いることにする]等の多数の革命政党が存在したが、どの党派も2月革命では主導権を握れなかった。民衆の闘いは全ての党派を乗り越えて進んだ。彼らは職業革命家たちに不意打ちを食らわしたのであり、「極左政党よりも百倍も左」(トロツキー)に傾いていた。むしろボルシェヴィキ党は2月革命に乗り気でなかった。しかしヴィボルグ地区の婦人労働者たちは、ボルシェヴィキ党の地区委員会の制止を無視して2月23日の国際婦人デーのデモに立ち上がった[註⑤]。
ボルシェヴィキ党の指導者レーニンがスイスから帰国したのは4月、当時まだ党員でなかったトロツキーがアメリカから帰国したのは5月のことだった。
ケレンスキーを首班とする臨時革命政府は無能であり、決断力に欠けていた。数度にわたって連立や離合集散を繰り返しながらも、戦争を終わらせることが出来ず、「平和と土地とパン」という人々の要求に応えなかった。人々の求めていることに無感覚な政府の全政策方針がボルシェヴィキ党の台頭への地盤を用意した。党は文字通り、穏健派の失策と教条主義的な頑迷の上に成長したのだ。
民衆は「全ての権力をソビエトへ!」というスローガンを掲げて自分たち自身による統治を求めていたが、7月13日、遂に武装デモに立ち上がった。この時もボルシェヴィキは蜂起を引き止めた。むしろ自分たちが蜂起に関わったという証拠を残さぬように腐心した[註⑥]。党本部のあるクシェシンスカヤ邸は、兵士と労働者の大群衆が権力をソビエトに移すべくタヴリーダ宮殿に行進している途中にあった。本部にいたスターリン、スヴェルドロフらの幹部はバルコニーから演説して人々に引き返すように呼びかけた。彼らの演説は「引っ込め!また引き延ばそうとするんだろう。俺たちはそんなにぐずぐずしちゃいられないんだ!」という四方八方からのヤジや怒号や抗議の叫びによってかき消された。面子を失うまいとして、下部の党員たちは指導者たちがあらかじめ決定しておいたことと反対のことをなすべく強いられた。デモを中止しようとする中央委員会のアピールが印刷から取り去られたため、党機関紙『プラウダ』は丸々1ページを白紙のまま配布された。
この民衆の蜂起は結局は鎮圧された。しかし8月、コルニーロフ将軍が帝政復活のクーデターを計画して首都に進撃してきた時、革命を守るために各部隊は立ち上がり、労働者は武装した。鉄道労働者たちはストに入った。コルニーロフ軍は瓦解した。
元々首都の労働者はメンシェヴィキを支持していたが、メンシェヴィキは唯物史観の公式(社会主義を実現するためにはまず資本主義になることが必要)に足を取られて立ち竦んでいたため、各工場委員会は急速にボルシェヴィキ化した。ボルシェヴィキは平和と土地の要求を実現しソビエトを尊重するという条件のもとで、クロンシュタットに本拠を置くバルチック艦隊と首都の守備軍をはじめ、反戦兵士・水兵の支持を受けた。9月のペトログラードとモスクワのソビエトの改選に際し、ボルシェヴィキははじめて多数派となった。この時からボルシェヴィキは、いったんは撤回していたスローガンを声高に叫ぶようになる。
「全ての権力をソビエトへ!」と。

 また、それまで農民の土地闘争は、社会革命党の影響下にあった。ボルシェヴィキ党は社会革命党の土地綱領を借用して、おおむねボルシェヴィキが支配的勢力となったソビエト体制に対する農民の支持を、間接的に取りつけた。
即座の権力奪取に対するレーニンの執念は凄まじかった。党中央委員会ではジノヴィエフ、カーメネフをはじめとする多くのメンバーは逡巡した。トロツキーはレーニンを支持し、輝くような弁舌で各連隊を回り、ソビエト内部に組織された軍事革命委員会の指導のもとに入らせた。かくして舞台装置はととのった。あとは蜂起の実行あるのみだ。党内にはまだためらいがあった。レーニンはほとんど恫喝に近い呼びかけを発する。

同志諸君!
私は24日の夕刻、この手紙を書いている。状況は、かつてないほどの危機だ。はっ きりしていることのなかで、もっともはっきりしていることは、たったいま、蜂起をた めらうことは、死ぬのと同じということだ。
………
ぐずぐずしていてはだめだ!すべてを失うぞ!
………
歴史は今日なら勝てたのに(きっと勝てる)あしたになって多くを失い、いや、すべてを失った革命家の逡巡をけっして許さないだろう。[註⑦]

だが本当か?既に全ての者から見放されていたケレンスキー政権には、ボルシェヴィキを弾圧し圧殺するほどの決意や気力はなかったし、当事者能力にも欠けていた。今蜂起せぬことは死ぬのと同じなどというのは極度な誇張であり、蜂起せねば全てを失うことになどならないのだ。レーニンは本当は何を恐れていたのか?
ボルシェヴィキがわざわざ武装蜂起など呼びかけなくても、民衆は早晩蜂起に立ち上がり、誰の力も借りずに権力を打倒したことだろう。そうなると前衛党の存在意義はどうなるのだ? 2月革命のとき大衆に全く取り残され、7月蜂起においては醜態を演じ、ロシア革命の進行していく決定的な日々にいかなる役割も果たせなかった無用の長物である党はどこに身を置けばいいのだ? 前衛党はもし歴史の舞台から退場することを望まぬなら、大衆の後ろに付き従う(否、むしろ先手を打って蜂起を呼びかけ、あたかも自らが革命を領導したかのように振る舞う)以外に手がなかったのだ。ボルシェヴィキ党の存在によってロシア革命ははじめて勝利したなどという教義は、後生の全くの作り話にすぎない。 コーン・ベンディットは1968年のフランス5月革命を踏まえて、ほぼ半世紀前のロシア10月革命を次のように総括している。

  レーニンの、ゆったりした忍耐強い仕事は、労働者・農民大衆に対して、彼ら自身が 工場のレヴェルで権力を行使するよう説くのではなく、党に対して、大衆がすでにこの 経験をなし、この権力奪取に向かいつつあると説くことであった。大衆のレヴェルに引 き上げねばならなかったのは党なのだ。このために、労働者評議会を党の中で再評価し、 現実の権力機関はソヴィエトであることを党に認めさせねばならなかった。レーニンは 《アナーキ化》した。そして党がほとんど準備を整えていなかったこのイデオロギー的 展開を党にさせようと試みた。10月は大衆の行動と渇望が、一時的に非ボルシェヴィ キ化したボルシェヴィキ党のそれと一致した時期に当たる。[註⑧]

 これは決してかつてのフランス左翼急進派にのみ固有の発想ではない。トロツキー自身が『ロシア革命史』のいたるところで大衆の急進化に対する党の決定的な立ち遅れを告白的に回顧しているし、第二次大戦後の最大の経済学者の一人も次のように証言していたのではなかったのか。

  ウーラムによれば、レーニンの偉業は権力を握ったことにあるのではない。政治権力 の奪取は誰にでも出来る状態にあったのだ。早くも七月には、労働者と兵士たちは、ペ トログラードのソヴィエトが政権を奪うべきであるとの意思表示を示していた。伝聞で はあるが、表現力豊かな労働者は、指導者の一人に向かって、「政権を取るんだ、こん 畜生! 据え膳に乗せて下さると言ってるじゃないか」と叫んでいたという〔註⑨:な お傍点は引用者〕。

 そうだ、権力を奪取することは「腐った木戸を蹴破るほどたやすい」ことだったのだ。権力奪取は誰にでも出来る状態だったのだ。かくて10月蜂起は決行された。クロンシュタット軍港から出港した巡洋艦オーロラ号からの艦砲を合図に、ボルシェヴィキの精鋭部隊は冬宮に殺到した。冬宮の防備には婦人部隊と士官学校の生徒がいただけであり、抵抗らしい抵抗も受けず、したがってほとんど何の流血沙汰もなしに蜂起舞台は冬宮を占拠した。(この点で10月革命は通常想定される「暴力革命」などとはおよそほど遠いイメージで遂行されたことは明らかであり、市街戦もなければバリケードを挟んだ軍事的衝突もなく、あっけないほど平和裡に行われたクーデターに近いものだった)。ケレンスキーは既に逃亡した後だった。
折りからスモールヌイ学院で開かれていた第2回ロシア・ソビエト大会に蜂起成功の報せがもたらされ、社会革命党右派とメンシェヴィキは武装蜂起を非難して退場した。権力を握ったソビエトは、ボルシェヴィキ、社会革命党左派、メンシェヴィキ国際派、アナキスト、サンジカリスト等の複数の政治勢力から成り立っていた。
大波のような拍手を受けて、レーニンは厳かに宣言する。
「われわれは今や社会主義的秩序の建設に進むであろう」………。
『平和に関する布告』、『土地に関する布告』が読み上げられ、新政府=人民委員会会議の閣僚名簿が発表される。インターナショナルの歌声がホールにとどろいた…………。
おそらくロシア革命の中で最も光輝に満ちた感動的な瞬間だったことだろう。だが革命の進路に危惧を抱いているものも少数だが存在した。アナキストのヴォーリンは革命ロシアの暗澹たる未来を予見していた当時を回顧して、次のように書かねばならなかった。

かえりみられないまま私は、社会革命の目標は政治権力によっては決して実現されな いことを指摘した。疑いを抱いている聴衆に向かって私はボルシェヴィキ権力がひとた び組織され、武装化されたなら、明らかに、他のものと同じように、必然的に無能力と なり、労働者にとって確実にもっと危険なものとなり、もとよりさらに打ちやぶるのが 困難になるであろうということを繰り返し述べた。だが、これをきいていた人たちは、 きまってこのように答えるのだった。
「同志、ツァーリズムを転覆したのは、われわれ大衆だった。ブルジョワ政府を打倒 したのもわれわれだった。そしてケレンスキーを転覆しようとしているのもわれわれだ。 だから、もし、あなたが正しいなら、そしてボルシェヴィキが、われわれを裏切り、約 束を守らないという過ちを犯しているのなら、われわれがかつてしたようにボルシェヴ ィキをも転覆するだろう。そのときには、最後に、われわれの唯一の友人であるアナキ ストと前進するであろう。」
再び私は空しくも、ボルシェヴィキ国家を転覆するのは種々の理由からさらにずっと困 難になることを指摘した。だが労働者は私の言うことを信じようとしなかったし、信じ ることも出来なかった。[註⑩]
………

〇            〇

10月蜂起はもちろん広範な人々の支持を受けていた。後になって反ボルシェヴィキの立場に回った人々でさえ、幾度となく誇りを持って「10月革命」という言葉を使っている。主導権をとったのがボルシェヴィキであったとはいえ、10月革命は、誰の支配や命令も受けず、自分たちのことを自分たちで始末できる新社会建設への道を切り開いたかのように人々には思えた。
重要なことは、この一大社会革命が、10月蜂起という政治革命によってはじめて可能となったのではなく、10月蜂起に先立って進行していたことである。2月革命の後ペトログラードのプチロフ工場やモスクワのプローホロフ・トリョフゴールキ工場をはじめ多くの工場で、資本家側の生産サボタージュやロックアウトに対抗して工場占拠や自主管理が行われていた。[註⑪]
またカザーン県、ペンザ県を含むヴォルガ中流域や、タムボフ県、リャザーン県を含む中央農業地帯では、10月蜂起に先立つ夏から秋にかけて、あらゆる地主たちの所有地は土地委員会によって没収しつくされており、農民に分配されていた。[註⑫]。10月蜂起はこれらの既成事実を追認したにすぎない。なるほど政治革命(権力奪取)はボルシェヴィキがイニシアティブをとったのかも知れないが、それに先立つ、そしてそれに続く体制変革(社会革命)は無名のそして無数の大衆が担ったのだ。
そればかりではない。公式のロシア革命史からは抹殺されているが、10月革命の根底に流れていたのは驚くほどの寛容の精神である。生産手段の社会化は何百人という復讐心に燃え、血に飢えた人々による強制的強奪ではなかった。左翼社会革命等の党員でソビエト政権の司法長官であったスタインベルクは、旧地主階級が土地の総割替えに際して自発的に協力していった数々の事例を挙げている。[註⑬]
彼らは農民たちから虐待を受けることはなかった。ロシア革命はボルシェヴィキではなくは無数の名もない大衆によって、奇跡的で信じがたいほどの寛容さのうちに進行したのだ。
これら全てはボルシェヴィキの意図するものとは食い違っていた。早くも10月革命の直後、工場主が逃亡していたペトログラードの旧ノーベル精油所で四千人の労働者たちが操業の再開をはじめた時、ボルシェヴィキ政府はこれを禁止し、工場の閉鎖を命じた。国全体の責任を引き受ける指導者として各工場が独自に行動することは許されないというのが、その理由だった。労働者たちの抗議に対して<革命>政権は手当なしの解雇で脅迫し、工場は閉鎖された。[註⑭]
また、クロンシュタットのソビエト家屋委員会が住居および宅地の管理の社会化と公正な再配分を進めようとした時、ボルシェヴィキはこの組織を破壊し、土地・建物の管理を官製の土地・建物センターに移した。[註⑮]
国中のいたるところで前衛党の指導や命令は人々の自発性と齟齬を示し、驚くべき非能率と混乱を生み出した。ボルシェヴィキ党員であったアレクサンドラ・コロンタイでさえ、労働者の発意の数え切れないほどの事例が、行政上の無益な書類の山と不毛の長談義の中で消え去ったことを嘆かなければならなかった。[註⑯]
一体ボルシェヴィキは<革命>によって何をめざそうとしていたのか。

[第1章の註]
①エンマ・ゴールドマンの言葉。P・アヴリッチ『クロンシュタット1921』1977年、現代思潮社 p191
②ゴルバチョフ『ペレストロイカ』1987年、講談社 p156
③ボリス・カガルリツキー『モスクワ人民戦線――下からのペレストロイカ』1989年、拓殖書房 p205~206
④同書p187
⑤松田道雄『世界の歴史22・ロシアの革命』河出書房新社 p239
⑥同書p302
⑦レーニン「中央委員会への手紙」大月版レーニン全集第26巻p203~204 ただしページ数は、翻訳底本とした原書のページ数を示す。同全集からの引用は以下同じ
⑧コーン・ベンディット『左翼急進主義』――共産主義の老人病に対する療法』1969年、河出書房新社 p251
⑨ジョン・K・ガルブレイズ『不確実性の時代』1979年、TBSブルタニカ p209
⑩ヴォーリン『1917年・裏切られた革命』1971年、現代評論社 p101
⑪江口朴郎編『ロシア革命の研究』1986年 中央公論社所収 長尾久論文「二月革命から七月事件へ――ソヴェトと民衆運動を中心として」p566 同じく庄野新論文「最高経済国民会議の活動と工業管理問題」p759
⑫アルシーノフ『マフノ叛乱軍史――ロシア革命と農民戦争』1973年、鹿砦社 所収 中井和夫論文「マフノフシナ――内戦期ウクライナにおける農民運動」 p304
⑬スタインベルク『左翼社会民主党 1917―1921』1972年、鹿砦社 p13~18
⑭ヴォーリン 前掲書 p173~181
⑮ヴォーリン『知られざる革命――クロンシュタット反乱とマフノ運動』1975年、国書刊行会 p26~29
⑯コロンタイ、トロツキー、レーニン他『ロシア革命と労働者反対派』1981年、海燕書房 p133~134