敗 戦 直 後 の 三 種 の 神 器

―― 電気パン焼き器・タバコ巻き器・米つき器 ――
岩  城  正  夫


    は   じ   め   に

 今から50年前、太平洋戦争敗戦直後の、まことに惨めな食料事情の頃のお話をしたい と思います。
 でもその話のまえに、皆さんのお手元に配布した資料を確認させていただきます。まず 一升瓶の写真のある資料がありますね。つぎに金森健生著『漫画昭和史』という本の表紙 のコピーのついた資料があります。そしてもう一つ、文字だけの資料で「一升瓶で米をつ く」というタイトルのものもあるはずです。全部で資料は三つです。それがそろっている かご確認ください。
 さて、きょうのテーマは「敗戦直後の三種の神器」としましたが、さっそくその現物を お見せしましょう。初めに一升瓶、これがそうです。中に玄米が入っており棒がさしこん であります。この棒で玄米をこのようにして衝くとサクサクと音がします。当時はこのよ うにして玄米をつき白い米にしていたのです。
 それからタバコ巻き器です。これは私が当時と同じ材料で複製したものです。ただしこ れはピカピカ光っていて当時のイメージとちがうのでちょっと困るんですが、当時のもの はこんなに光ってはいませんでした。あとでこれで実際にタバコを巻いてみることにしま す。
 最後に、これが電気パン焼き器です。かんたんなつくりです。これは組立式になってい て、底板もはずせるようになっています。中にパン生地を入れて蓋をし電気を通じます。 パンが出来上がったら蓋をとり、次に周囲の枠を上方向に抜きとると出来たてのパンが底 板の上にのったままの状態であらわれます。底板はそのままマナイタになるわけです。こ の電気パンは出来あがるまでに多少の時間がかかりますので、私が別の話題をとりあげて いるあいだに準備を開始し、焼き始めてもらいます。そのパン焼き実験を担当してくださ る方々をご紹介します。このお二人は和光大学でごく最近勉強された方で、私に近い方の かたが高橋さん、あちらのかたが堀本さんです。お二人ともそんなに若いというわけでは ありませんが、それは主婦をされていて、そうした社会人のまま大学で勉強されたからで す。お二人には私の話の流れに関係なくさっそくパン焼きの準備を始めてもらいます。


一 升 瓶 の 米 つ き 器

 さて本題に入らせていただきます。さきほど現物をお見せした三種の神器について、く わしくご説明しましょう。まず一升瓶の米つき器ですが、配布資料をご覧ください。一升 瓶の写真のある資料は『暮しの手帖』という雑誌の第96号で「特集・戦争中の暮しの記 録」( 1968年)から引用させていただきました。つまり一升瓶の米つき器は実は敗戦後に なってから現れたものではなく戦時中からすでに登場した道具なんです。それが敗戦後ま で継続して使われていたというわけです。別の資料『漫画昭和史』の中にも一升瓶米つき 器を使用しているマンガがあります。
 では『暮しの手帖』からの引用文を読ませていただきます。
  「戦争もだんだん激しくなってくると、米ばかりの飯などは昔語りの夢になってしまった。芋や大豆や豆かすの回りに米粒がちらついているような飯でも、米粒がないよりはありがたかった。その米も精白しない玄米のまま配給されるようになった。精白する人手と動力がなくなったのだろう。玄米のほうが体に良いと言われたが、炊き増えはしないし、第一下痢をした。そこで、こんな簡易精白器が流行した。はたきの柄などを利用した細い棒で瓶のなかの玄米をついていると、3合の米が2時間ほどで7分づきぐらいにはなった。しかし、それに馴れたころには玄米の配給もほとんどなくなってしまった」
   ところで、この一升瓶の写真を見ていただくとわかりますが、米の量が一升瓶の3分の 1ぐらい入っているのがおわかりだと思います。これが約3合です。今このテーブルの上 にある一升瓶には1キログラムの米が入っています。1キログラムというのは米約7合な ので、写真の資料のものよりだいぶ多いですね。2倍以上になります。別の配布資料「一 升瓶で米をつく」というプリントは、私自身がやった実験の結果です。私の場合は7合の 米を約4時間ほどつくと、だいたい7分づきくらいになりました。
 この実験は今年の5月のものですが、くわしい経過は次のようになります。初めの15 分ではほとんど変化が見られず、30分で瓶の内側に糠の粉がぱらぱらと付着しだしまし た。米そのものはまだ玄米と同じように見えましたが、棒でついた際の感覚で言えば、米 の表面の摩擦が少し大きくなったような気がしました。玄米のときは表面がすべすべだっ たのです。
 1時間ほどつくと糠の出始めたことがはっきりわかりましたが、糠は米の表面に付着し ているようでした。2時間ほどついてから米を瓶から取り出し、フルイで糠を落としてみ ると、コップに3分の1ほどの糠がとれました。米の色はまだまだ茶色ががっていました が玄米に比べると表面の艶はなくなっていました。
 さらに1時間ついて、またコップ3分の1ほどの量の糠を落とし、さらにもう1時間つ いて糠を落としてみると今度はコップに10分の1くらいしか糠は採れませんでした。米 つきを始めてから合計4時間ついたことになります。米の色はけっして白くはなっていま せんでしたが、1キログラムの米の重さは950グラムに減っていました。つまり糠50 グラムが採れたことになります。
 この黄色っぽい米を水でといでみると、なんと黄色がほとんどとれてしまい、ほぼ白い 米になってしまいました。付着していた黄色の糠が洗い流されたためでしょう。
 『暮しの手帖』の資料では3合の米を2時間ついて7分づきくらいになったというので すから、私はその2倍あまりの量の米を2倍ほどの時間ついたことになり、結果はどちら も同じようなつきぐあい、つまり7分づきほどになったことがわかります。


タ バ コ 巻 き 器

 では次はタバコ巻き器についてご説明しましょう。このばあいも、出現したのは戦争末 期でしたが、それが戦後になるといっそう普及したように思われます。ここでもまず配布 資料を見てください。写真と文章があります。またマンガの資料にもタバコ巻き器の絵が 面白く描かれています。ここでも、『暮しの手帖』の資料にある文章を読ませていただき ます。
  「タバコがない辛さはタバコのみでないとわからない。それも1日6本の配給が、昭和20年になると3本になってしまった。これではどうにもがまんしきれない。のまない人間と物々交換という手も、交換するブツに事欠く。いきおい代用品探しに血眼になった。茄子の葉がよい。イタドリがよい。山ゴボウの葉がよいなどといわれて、たいていためしてみたが、いがらっぽい煙が出るというだけで、どれもパッとしない。そのころヤミで流れる刻みタバコを巻くためにこんなキカイができた。巻く紙はコンサイス辞典に使ってあるインディアンペーパーがよい、といわれていた」
  当時わたしは少年でしたから自分ではタバコは吸いませんでしたが叔父などがやっていた のをいつも見ていました。その頃の記憶をたよりにその「キカイ」を復元してみました。 どうにかタバコが巻ける器械を作ることができました。その後、『暮しの手帖』の資料写 真を見て、より本物に似たものを複製し、さらにその後、江戸東京博物館に展示の、当時 の本物の寸法を測定させてもらったりして、当時と全く同じ寸法のものを作ることができ ました。たださきほども言ったように現在のアルミニウムはピカピカ光りすぎているのが 気になります。当時のアルミは新品でも鈍い光しかなかったように記憶します。この光り 方の違いはアルミ精練技術の発達によると聞いたことがあります。
 ではここで実際にタバコを巻く実演をお見せします。タバコを巻く原理は黒板に絵を描 いてみますとこのようになります(図4)。そして実際にこのように先ず紙を挟みこみ、 次にタバコの材料をこのように入れてからローラーの間隔をせばめ、それから、ローラー を手前方向に両手の親指を同時に使って回転させます。すると、こんなぐあいにタバコが 出来ました。ずいぶん簡単に巻けてしまうことがおわかりになったと思います。
 ところで、ここにあるプラスチックの箱の中に私が巻いたタバコが10本ほど入ってい ますが、この中にはコンサイス英和辞典のインディアンペーパーで巻いたものも1本まじ っています。それに実は専売公社の本物のタバコがなかに1本だけ混じっているんです。 みなさんはこの中のどれが本物か見わけがつきますか? 本物と区別がつけにくいほど、 うまく巻けてしまうんですね。
 このシンポジウムの始まる前に、和光大学の同僚にこれを見せたのですが、そのなかの 一人から1本吸わせてほしいと言われました。また以前にもこれを見せた人から1本吸わ せてほしいと言われたことがあります。しかし、この私が巻いたタバコの中身は贋物でし て、実はコーヒーを入れたあとのフィルターペーパーなんです。コーヒーをドリップさせ た後のあの褐色に変色した紙のフィルターをよく乾燥させてから鋏で細かく切り刻んだも のなんです。それをタバコがわりに紙で巻いたものです。だから実際に吸ったらえらいこ とになります。
 このタバコ巻き器は戦後までしばらくは使われていました。敗戦直後は、アメリカ兵な どが捨てたタバコの吸殻を拾い集め、その中身だけをとりだして新しい紙で巻き直し、販 売するといった商売がおこりました。道路などに捨てられたタバコの吸殻を集めるアルバ イトが流行りました。吸殻を拾い集めるには細長い棒の先に針をとりつけ、その針で吸殻 を刺してとり上げるのでいちいち身体をかがめる必要はなく能率的でした。そのバイトの ことをモクヒロイといいました。モクヒロイから吸殻を集め、それを巻き直し、そして販 売する・それらの一連の様子が配布資料のマンガに見事に描かれています。
 やがてタバコが豊富になってくると何時のまにかタバコ巻き器も忘れられてしまいまし た。私が江戸東京博物館で寸法を測定させてもらった当時のタバコ巻き器なんですが、じ つは、かんじんな帯の部分が欠落していて不完全な展示品なのでした。しかし博物館の学 芸員も若い世代であるため私が指摘するまでその欠落に気付いてはいませんでした。


電 気 パ ン 焼 き 器

 最後に電気パン焼き器です。すでに堀本さんと高橋さんがさきほどから実験をすすめて くださって、もうそろそろパンができあがる頃ですが、その前に配布資料を読ませていた だきます。資料の中に『毎日新聞』掲載の記事〔1997年1月25日(土)〕のコピーがあり ます。そのコラムのタイトルは「食料難時代の“電気パン焼き器”」というもので、それ を書いたのは永六輔さんです。
  「このコラムを読む六十代以上の方なら、戦後、焼跡だらけの東京の、どの家にもあった、手製の“電気パン焼き器”を覚えていることと思う。先週の番組の中で、このパン焼き器の話をした時の反響の大きかったこと。電話、FAXがひきもきらなかった。・・・(中略)・・・」
永六輔さんがコラムの中で「先週の番組」と書いたのは、配布資料にありますコラムの左 上部分に図としても掲げてありますようにTBSラジオ番組のことですね。同じコラムに はこんな文章もあります。
  「・・パン焼き器とはいうものの、水で練ったメリケン粉を感電させるだけなので蒸   しパンのようなものだった。内側に貼る鉄板にしても焼跡でひろってきたブリキの板にヤスリをかけて使ったりした。昭和も二十五年、つまり朝鮮戦争の頃には姿を消すのだが、江戸東京博物館にも残されていなかった。・・・(中略)・・・」
 余談になりますが、私も一昨年の夏でしたか江戸東京博物館にいったとき、戦後の庶民 生活を展示したところにタバコ巻き器はありましたが“電気パン焼き器”が展示してなか ったので学芸員の方にその理由を聞くと、「それは東芝製ですか? それとも日立製です か?」と言われてびっくりしました。私があれこれ説明すると、それなら博物館のコンピ ュータ・リストにあるはずだというので、調べてみるとリストにもありませんでした。
 さて、永さんのコラムの最後は次のような文章でしめくくられています。
  「神戸の仮設住宅よりもっと粗末なバラック。新宿の段ボールより一寸は増しなバラック。年輩のリスナーは同時に、玄米を一升瓶に入れて、何故かハタキの柄で精米した風景、外食券食堂に並んで海草めんを食べたことまで思い出すのである。そして今日の豊かさに違和感をおぼえるのだ。雨宮塔子アナにハタキの柄で精米させてみようかと思ったが・・ハタキが無くなってしまった。」
このコラム記事のように、当時はほんとうに「食料難時代」だったのです。
 さて、どうやらパンができあがりました。蓋をとり、箱を上方向にもちあげると、この ように湯気いっぱいのパンが出てきます。まるで蒸しパンのようなものですね。これでも 当時は最高の御馳走だったんです。


現在の食糧事情と比較してみると

 私は難しい話をするつもりは全然ないんですが、50年前当時の食糧事情と今日の状況 とをちょっと比べてみたいと思うのです。じつは今日の昼、この大学の生協食堂で「生ゴ ミ」が1日でどれくらい出るものなのか聞いてみました。
  私:「ポリバケツに一杯ぐらいは出ますか?」
  食堂の人:「いやあ、そんなもんじゃぁきかないですよ。だいたい1日に大きなポリ袋にかなりの量がでます」
  私:「一人で持ちあげられますか?」
  食堂の人:「ええ、なんとか持てます。でも10キロとか20キロなんて程度じゃないですよ。子ども一人ぐらいの重さはゆうにあると思いますよ。」
   つまり食堂の人の話では、和光大学生協食堂での1日の生ゴミの量は30〜40キログラ ムくらいはあるだろうということです。
 ところで朝日新聞社で毎年だしている『民力』という統計資料本がありますが、それに よると昨年の統計では、日本国内の外食産業は、その店舗数で47万4千店あまりだそう です。内訳は、食堂・レストランが24万、一般食堂が9万4千、日本料理店4万1千、 西洋料理店2万7千、中華料理・東洋料理関係で7万8千、あと、蕎麦・うどん・寿司屋 などあり、それらでの食べ残しは毎日捨てられているといいます。
 また、コンビニなどで売れ残った弁当やパン・サンドイッチなどはどうなっているので しょうか。コンビニは昨年の統計では、日本全国で4万8千4百店あまりでした。その他 、スーパーが全国で1800店ほどあり、百貨店が463店で、それらのほとんどに食料 品売り場があります。それらでの弁当などの売れ残りはどうなっているのでしょうか。
 ここに私が持ってきましたこの本は『新・今「ゴミ」が危ない』というタイトルで、ま たその脇には「最新版・地球環境白書」という文字も書かれています。この本は『GAKKEN MOOK 新「驚異の科学」シリーズ・』で、内容は日本全国のゴミのトラブルについて書か れています。ダイオキシン・廃油・廃液・核廃棄物・放射能などはもちろん、産業廃棄物 ・廃車・粗大ゴミなどについても書かれていますが、ここではその中から食物にかかわる ゴミの部分、それも一部だけを抜き出して紹介させていただきます。
 本の中で、京都大学環境保全センター教授・高月紘さんにインタビューした内容が紹介 されています。高月さんは15年前から京都市と共同で生ゴミの組成調査に取り組んでき たこと。また京都市には古い過去のデータも残っていること。それらを比較してみたグラ フも紹介されています。
 それによると、昭和20年の敗戦の年には一人一日あたりのゴミの量はわずか38グラム だったそうです。それが高度成長が始まる1960年代で一人一日 500グラム、それが最近で は一人一日1200グラムを越えてしまったというのです。
 また、高月さんの研究室で調査したところでは、台所のゴミの35〜40%が食べ残しだと いうことです。特に驚かされるのは、まったく手つかずの食品、明らかに店から購入して きた状態のまま、そのまま捨てたものが14%近くもあったそうです。これは京都市のデー タですが、おそらく日本のその他の地域でも似たような傾向だろうと思われます。
 また、この本の中には東京の銀座の生ゴミのことも紹介されています。
  「銀座の生ゴミといえば豪華さで知られる。銀座6丁目から8丁目にかけては高級飲食店が集まっており、ナイフで切っただけの食べ残しステーキなどは当たり前であるという。・・・」
私自身の体験を思い出してみても、結婚式場で食べきれないほど出された料理をまともに 平らげた人はどのくらいいただろうかということです。たぶん食べ残しはたいへんな量に なったのではないでしょうか。
 日本全国で1日に捨てられる「生ゴミ」としての食べ物は相当な量に達しているという ことは皆さんも耳にされていることと思います。いま世界のあちこちの地域で食料不足の ために栄養失調や餓死さえもしている人々がたくさんいることを思うと、余った食べ物を 捨てている日本の現状については何とも言えない残念な気持ちになります。このままでは いけないと思います。50年前の食料の乏しかった時代を思い、その経験を忘れないよう にし、少しでも無駄を少なくするよう努力したいと思います。
 今日の私の話はあまり学問的なものというわけではありませんでしたが、私たちが毎日 食べている食料について半世紀前の敗戦直後の時期にはどうであったかを取り上げて、現 状と比較してみました。これで私の話を終わります。(この原稿はシンポジウム当日の録 音テープ記録に手を加えて作成しました。)


    引   用   文   献
『暮しの手帖 96 −特集・戦争中の暮しの記録』暮しの手帖社( 1968年 )
『漫画昭和史』(金森健生)社会思想社(昭和48年)
「食料難時代の“電気パン焼き器”」(永六輔)『毎日新聞』〔1997年1月25日〕
『'98 民力』朝日新聞社( 1998年 )
『新・今「ゴミ」が危ない』学習研究社( 1998年 3月 )






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