ここを離れてから三世紀以上もの年月の間、群は一度として足を踏み入れたりはしなかった。もはや伝聞だろうとおぼろげで、実際に足を踏み入れた記憶を持つものなど皆無である。
 だが、それでも彼らは、この土地から感じ入るものを見出すことができた。それは確かにあった。森に足を踏み入れてからこれまでの道のりには、その感触があったのだ。
 懐かしいと、思えた。そして、それ以上に昂ぶりを覚えずにはいられない。心身ともに昂揚させる匂いに満ちていた。
 ここに関するすべてが、年月によって色あせ失われてしまっても、その身に流れる血潮だけは覚えていた。本能に触れる何かは、今もここにあったのだ。

「……どこまで入り込んだと思う」
「へっへっへ、体感的にゃ二十キロってとこか。深部まで十キロのとこまで行き着いちまったなぁ。こりゃ一番乗りはおれたちがいただきだ」
「ふざけてる暇はないぞ。気づいていないのか?」
「こうして会話が成り立ってんだ。気づいてるさ。にしても、ここの土は五臓六腑に染み渡るなぁ。まさかのスタンピード」
「目が覚めたらこの醜態か。情けない。空気にあてられすぎた」

 緩々な顔つきの浅黒い大男と、逆に凝り固まった硬い顔つきの大男。ずんぐりとした体躯だけは似通っているその二人は、互いの言葉に軽くうな垂れた。
 だが、感情を沈み込ませるのも一瞬だ。不甲斐なさに意気消沈している暇はなかった。地面に落とした視線は否応にも鋭くなる。

「いつからだ」
「明確にはわからんさ。ただ、まずい。こっからの土はまずい」

 緩い顔つきを曇らせる男は、屈みこんで土にふれる。節くれだった手をずぶりと地に沈ませる。そのままゆっくりと野太い片方の腕を地に埋めた。
 もう一人の男はその間にまわりへと目を向ける。似たような雰囲気の巨体が集まってきていた。彼らは皆一様に熱から冷めたような顔つきで地面を見据えていた。
 その数、十四。それを見て取った男は、微かに表情を曇らせた。

「三人、足りていないな。潜った連中か」
「ああ。希望はなさそうだ」
「……なんだ? この下に、何がある」
「そうだな、得たいの知れないもんが……なんだろうな……? まあ、伸びてきてる。少しずつ、根を張り巡らすようによ。こっから先の土は、もう、おれたちに何も与えてはくれねえな」
「……だから、俺たちはこうしているわけだ」
「へっへ、水をぶっかけられたみたいに目が冴えてきた……どうする? 今ならまだ」
「いや、遅かった。ほかの連中に比べて水が合いすぎたな。奇しくも先頭だ。抜きん出るほど前に出てしまった」

 彼の言葉を聞くまでもなく周りに集まった猛者たちは準備を整えている。ここに至るまでも間断なくあった害意に対しての備えを怠らない。誰もが構えていた。

「囲まれているか。一重、二重と……誘われたのか?」
「そいつは過大評価ってもんだ。アレは餌しか見てねえよ。それ以外にゃ目もくれねえ。頭を働かせる余裕なんざ到底ない」
「飢えた獣の目つきを思いだすな」
「そうかぁ? そんだけ生暖かけりゃ、まだ暖もとれたってもんだがね」

 漂うように揺らぐ朱色の燐光が、遥か奥の方にぽつぽつと浮かび始める。ぱっと見ただけでも百は下りそうになかった。
 それらの光は一切の揺らぎも見せることなく彼らを食い入るように見つめている。それからはどんな意思も見出すことはできなかった。
 ただ、赤かった。

「一旦ひくべきだろうな」
「いい案だ。だがよ、難しいんじゃねえか」
「俺が残る。それでいける筈だ」
「……へっへっへ。ならおれも付き合ってやるよ」

 しまりのない顔を崩してさらに笑う男に、もう一人の男は硬い顔をさらにしかめて、しかし、渋々と頷いた。

「いけるか?」
「深度二十とちょいまでだな。おれとお前なら引っぺがせそうだ」
「十分だ。合図したら貴様らは引け」

 まわりの面々は不満げに口を開こうとするが、男はそれを遮るように睨みつけた。

「わきまえろ。誰が一番余力を残している? 分からんわけではないだろう」
「みっともなく焦んなよ。まだ、始まったばっかだ」
「いくらでも巻き返しの機会は与えられる。ここは任せてもらおう」
「よーし、今から五秒後だ。グズグズしてたら一緒くただ」

 しまりのない口から吐かれる言葉に、まわりの男たちは苦々しげに舌打ちする。だが、彼の口から、一、という合図の言葉がこぼれると表情を硬くした。
 それから逡巡すること一秒。各々は巨躯のわりには軽い身のこなしで同時に下がり始めた。そのうちの一人が、残る二人に鋭い視線を叩きつけながら吐き捨てる。

「挽回させろよ」
「してみせろよ」

 刺々しい言葉に対して笑いながら告げる男は、三と数を口にする。そのときには周りにあった男たちの姿は、木の陰へと失せていた。そして、四と口にした時点で残った二人の視界からはいなくなった。
 変わりに入ってくるのは朱色の輝きを放つモノたちだ。瞳の輝きが残光となって赤い尾を引く。それほどの勢いで迫ってくる。
 これからの足がけにするべく一帯を満遍なく制圧してきたはずだった。それが見る見ると埋まっていく。

「……早ぇな。べらぼうに」
「やるぞ」
「ああ、……五っと」

 最後まで緊張感のない適当な秒読みが終わる。それを気にすることなく片方の男は、太い二本の腕を大地へと突き入れた。一瞬後、震動が地面を伝った。
 じっと地面を見据えていたもう片方の男も、続いて腕を大地へと突き刺した。細やかな震えが伝い、共振するようにブレが激しくなる。
 その波に両腕をのせながら二人は視線を前にむけた。
 相手は姿かたちが細部まではっきりと見える距離にまで迫っている。獣のかたちをした異形、天災と呼ばれる種の一つ、数百のケモノが個々でありながら群れて駆けてくる。そのどれもの朱色の眼が、この場で生きている二人を見ていた。
 迎え撃つ二人は、それらの姿に顔をしかめた。ここに至るまでは土地に酔わされ、昂揚するままにいたから気づけなかった。

「わが身を省みずって次元じゃねえな……えらい好かれたもんだ……」
「あれは、何なんだ……?」

 肉体にかかる負荷など、およそ考えていないであろう動きで、多くのモノが自損している。片手、片足、その何れもが欠けようと、構うことなく向かってくる。迫ってくる。求めてくる。
 黒い瞳に沈んでいる赤い瞳孔だけは変わらず、ほか一切が欠けるべくして欠けていく。
 昂揚感を排して目にしたそれらの姿に、二人は初めて危機感を覚えた。引き締めた口から自然と唸り声がもれ、ほどなくして吼えたける音を発した。
 瞬間、大地が噴きだすように隆起し、呑みこむように陥没し、あたり一帯は裂けた。数百メートルにわたって連鎖するように破壊の嘶きが走った。
 森の一区画が完全に崩れ去る。

「――ウォッ、こいつァ!?」
「――ッ、下がれえ!!」

 しかし、それが事態を収める矛には成りえず。
 事態は破壊の頻度に比して広がっていく。もはや止まらない。
 肉の実は無尽蔵に成っている。空に伸びる樹木だけでなく、地の下に生える枝にすら忌まわしき実は成っている。
 存在の大本、逆しまなる大樹は、森の奥から、地の底より、その枝に数多の実を成しながら伸びていた。
 そして、生まれ出でたケモノは、生まれ出でた分だけ散らんとする。無意味に、どうしようもないほど意味もなく。















イノチ紡がれ世界は狂う
08 V あとは燃尽きるまで燃盛る















「あんた、なに考えてのよ……」
「何も」
「何もって、あ、あんたねぇ……!!」

 あたり一面が淡い桃色の花弁に包まれた中、黒白の彼は彼女の剣幕を気にすることなく、どこを見てるか分からないような目つきで、どことも知れぬ方向を睨みつけていた。そして、微かに瞳を細めたかと思うと、何の脈絡なく見ていて空恐ろしくなるような歪みを口元に浮かべた。
 七瀬留美は呼ばれるままにのこのこ出向いた自分を心底のろった。
 だが、呼び出しを足蹴にすればしたで、どうなるか考えるまでもなく予想できたのでどうしようもなかった。どちらかの災禍に巻き込まれなければならないとするなら、せめて目の敵にされぬ選択肢を、というわけである。
 それでも置かれた状況を把握しおえた留美は、ため息をつかざるを得なかった。周囲の異常はさることながら、それ以上におかしな黒白の彼。

「それで、これから……なんて聞くまでもないわね」

 自分の選択肢は間違ってはいないが、そもそも正解はないらしい。どうしようもない結果に、留美はいろいろと諦めるしかなかった。
 現状、彼は言うに及ばず、彼のまとっている空気に関わることすら致命傷だ。それを察しれた彼女は、まだマシといえた。
 マシではない者たちが、数多と周りにいたから。

「ぬぅぐぅ……くそったれ、どんなカラクリだ……」
「んだぁ……? あいつに迫った特攻隊がのきなみ散っちまったぞ」
「その散り様、お見事、って、あはは」
「笑えねえよ! テメエもいけよ!!」
「超ムリ」

 やいのやいのとじゃれ合うように互いを突っついている面々。多種多様な装いの彼らは、まとまりなく身を寄せ合っては反発しあっていた。
 集まっているのに仲たがいしている集団の唯一の共通点は、彼を睨みつける視線だけだ。
 投げかける。
 面白がるようにも、敵視するようにも、憧憬するようにも、唾棄するようにも。
 視線に含まれる色もまた協調性の欠片もなかった。
 そして、次々と、何の脈絡もなく脱落する。この桜色の景色の中に、溶け込むように散っていく。

「うぉっっあんなごっついのですら桃色花弁! なんてエロス……!!」
「ばっかで、んなことに興奮してっからおまえも桃色」
「ゆぅーとぅ」
「――マジかよ!?」

 次から次へと、端から端へと。見渡す範囲内にて悠々と憎たらしげな笑みを口元に浮かべていた面々が、面白いぐらいに散っていく。

「な、なんでだぁ!? 狩りに来たのに狩られてるぅ!」
「しかしまあ、冷静に考えるとだな、この招待状を持ってきたのはアレの身内であるかして……」
「不穏分子一斉処分? 革命前夜先制殲滅ゥ?」
「うわっ、もう、責任取れぇ! 一人じゃたかだか一ぎゃふんだが百人なら百ぎゃふん言わせられるかもなんていった奴でてこーい!!」
「ああ、それ、俺が書いた招待状にあったような文面だな」
「おまえかっ責任取れぇ!! ……って!!」

 やいのやいのと一番やかましかった女が突きつけた指の先、そこに黒白の彼はいた。気づいたら眼前にいる。標的が間合いの内にいる。

「いつの間に――っらぁ!!」

 それでも女の動揺は一瞬で済んだ。指先は動く。彼女は相手の顔面を突くように鋭く刺しだした。
 それは横に身を流した彼にあっさりと避けられるが。
 それは仕方ない。予想外でもなんでもない。すでに二撃目を放ったている女は気にせず黒白の彼に迫った。身体を回して浴びせかけるような蹴りを放つ。
 その動きを冷静に眺めながら身を沈める彼は、繰り出し手である彼女に笑いかけた。

「そんな大降りで次は」
「――こうする」

 そう告げたのは、大振りな浴びせ蹴りの最中の彼女ではない。次の新手だ。
 蹴りの下を掻い潜るように前に出た黒白の彼の眼前、長いだけの無骨な鈍器が迫っていた。これまた大降り、下からすくい上げるようなアッパーカット。
 至近距離から放たれる三手目は意外といやらしいタイミングで、先手との連携が取れているといえた。
 避けられない。白黒の彼に直撃する。

「いただきます」
「一撃匹敵な超絶必殺ぅ!」

 さらに三手目が届くか届かないかの直前で、四手目、五手目が出揃って彼に迫っていた。
 光る抜き身の刃二本が背後を取り、黒鉄色の鉄身が銃口を連ならせて横からロックオンしていた。標的は勿論のことながら、

「……協調性の欠片もなかったお前らも、やっと繋げるようになったか。馬鹿の一つ覚えも卒業できたな」

 そう感慨深くつぶやいた彼を、三手目である長大の鈍器が捉えた。眼前に手をかざして受けの構えを取るが、大降りの勢いには無意味。微塵の容赦もなく振り切られ吹っ飛ばされる。
 その無防備となった身体に狙いをつける四手目と五手目が追撃した。
 飛んでくる彼を二種の刃が刈り取らんとし、放たれようとする弾丸が彼を横殴りに撃とうとした。
 だが、そのどれもは実行に至らなかった。

「――ッ!? まだ、ごちそうさましてない!!」
「横槍邪魔!!」

 外野からの茶々入れが入ったからだ。白木を思わせる細身の一矢が走り、正確に四手、五手の動きを制限する軌道を描いて遮っていた。

「……おお」

 そのことを誰よりも予想していなかったのは、乱暴にぶっ飛ばされた白黒の彼だった。迫り来る四手と五手が退いたのをいいことに、悠々と着地を決める彼は実に意外そうな顔つきで隣をみた。
 白木の長弓を握りこんだ彼女は、自分で自分の行動を疑うような顔つきで呆然としていた。

「驚いた。この状況で、お前が俺の手助けをするなんて」
「し、したくてしたんじゃない! あんたがあんな体たらくだから……! ぁあもう、なんでこんな、あたし……これで完全にこっち側じゃない……!」
「ふむ……9割1分の確立であっち側に便乗するんじゃないかと思っていたんだが」
「うっさい! ぁあー! 多勢に無勢なのがいけないのよ! 思わず手を出しちゃったじゃない……!!」
「そんなに落ち込むな、七瀬。悪かったよ、お前のこと誤解してたぜ。そんな俺を罵っても特別に怒らないでやるから、全力で俺を蔑んで憂さでも晴らしてくれ。さあ、今の俺なら気持ちよく受け止めてやれると思う」
「……へ、変態」

 真剣に引いて、留美は後ずさりする。その行為を罵りと受け取った彼は、一秒前の言葉とは裏腹に気分を害したと言わんばかりの目つきで彼女をにらんだ。一体どうしろというのだろうか、留美は頭を抱えるしかない。
 そんな頭痛の種である彼は、さらなる頭痛を呼び起こしそうな現象にまとわりつかれている。あたり一面に咲き誇っている桃色の花弁がヒラヒラと舞い踊っていた。
 少し前までは影も形もなかった色合いで樹海は染められている。満開の桜で埋め尽くされようとしている。数多を呑み込みながら、今なお現在進行形で、異界は広がっていた。
 そのようなものが、彼を中心に広がっている。そうだと、なぜか留美は知れた。だから蛮勇に身を任せて愚挙に出ることすらままならなかった。
 彼ら彼女らのようには、どうしてだか振舞えない。
 近接、中距離、遠隔と多様な得物をぶらさげる数多の面々。
 この場に集い、予定時刻と共に始まった闘争のいの一番で、桃色花弁となって三分の一ほどがいきなり散りはしたが。

「ちっくしょう! あともうちょいで一撃くれてやれたってのにあの娘っ子めぇ……!!」
「一撃陰険」
「おかわりしづらい……」
「組んでるのばれた。次はむずかしい。どうする」

 二刀の刃を煌びやかせ、銃口を連ならせ、長大の鈍器を唸らせ、徒手空拳で無意味に威嚇している者らを始め、まだ五十は下らない集団は、不可解な現象に構うことなく次のステップ、当然のように雁首並べて彼を囲っていた。

「……」

 彼らのように振舞えたらと心の底から思った。
 それでも留美は、ちらりと横に目をやって暗澹たるため息をついた。
 彼は品定めをするかのように視線を巡らせながら余裕綽々な笑みを浮かべた。

「いい目つきだ。精神的にもタフになったな。今ここに残っている奴らは、再検討の価値ありと見なしてやるぞ」

 使えないの一言で切り捨て、もうこんなのしかないけどないよりはマシ、そんな絶望的な状況下において仕方なく並べる予備役、と抜かしながら奥の手なんて烙印を刻まれた二百に登る同業者。
 冒険屋の面々。
 いまだに散らないでいられる内の三分の一は、口元が裂けんばかりの笑みをこぼすは、片目だけ中身がこぼれ落ちんばかりに見開くは、顔面が崩れんばかりの激しい感情を噴出させるはと、化け物の様相を浮かべている。見た目とは裏腹に精神的に脆弱そうだった。
 残りは、まともな振りをしながらまともでない装いで、この場に臨んでいる。

「ああ、本当に。再検討たのむ。壁のうちは、やはり肌にあわない。せめて一緒に連れてってくれ」

 着飾りすぎて性別の区別すらつかない風体の輩は、身の丈サイズ身の幅サイズと化け物じみた鉄塊の刃を片手で突きつけてくる。
 その少し後ろにいた飄々とした青年は、ちょうどいい隠れ蓑と言わんばかりに影に潜んで、自身の頭部ほどもある口径の砲火を準備し始めた。
 その砲口が狙いをつける景色の中に次々と別の輩が踊り出てくる。

「ふはははぁーっ嬉しいぞ! 今日という日までよくぞ生き延びた!! 我が宿命たる悪の怪人よ!!」

 身体の各所から微妙な色を発光させながら、えび茶色の全身タイツと江戸紫色の武者鎧、辛子色の騎士甲冑がポーズをとって構えた。
 その真ん中を割って入るようにして、しずしずと女が進み出る。双頭の鉾先と一つ尾の鉄球を備えた棒具が、風きり音を響かせるようにして巧みに振られた。

「此度こそ御身を貰い受けます」
「って、お、おい、なんだ!! 女ぁ!! いきなり割って入ってくるんじゃない! おとなしく順番待ちもできんのかあ!!」
「……ああ、申し訳ありません。気づけませんでした」
「てめッ、嘘つけぇ!! んなこたアブねえもん締まってから言いやがれえ!!」
「キェェェェェグひゃぁ!!」
「ばっ、カラシ!? な、なに直撃もらってんだ!? つーか、だからてめぇはいつまで振り回してやがんだ!! ――って、お、ぅお、おお!? やべ――グげッ!!」
「江戸紫ぃ!? お、女ぁ、貴様も悪の手先だったか!! 味方の振りして私たちに混じりこんで隙をつくとは……もはや謝っても許さんぞ……!!」

 そんな騒動とは対面にあたる地点、ほか東西にも、そうそうたる別グループが虎視眈々と備えている。
 今にも飛び出そうとしている包帯巻きの少女は、八方刃の特異かつ凶悪な光り物を片手に携えた。痩せこけた男は、大人二人ぐらいなら閉じ込められそうな鉄の檻を軽々と担いで歩き出す。
 その他にも用途がまるで思いつかない奇妙な得物がずらずらと出てくる。
 壁のうちにあった時には、その国の理に縛られて制限されてきた得物。そういったものを所持する面々は、この機会を逃すことなく御禁制の品々にて決戦に臨んでいた。

「あの娘もいただく対象?」
「乙女は一撃投擲した! 赤色点灯!!」
「でも、すこし厄介。そこそこに崩しがたい。どうする」
「奴の招待状にもあったろ、一斉!! 盾にし易そうなやつの背後からいきゃリスクも減らせる! いくよー突撃ぃ!!」

 唯一の初撃を与えて今なお活動を続けてる面々もまだ元気だ。一人の言葉に頷く三人娘は、徒手空拳の女の背後に潜んで各々得物を構えた。
 ぇーという女の表情は無視される。

「貫通弾道の準備万端! 麻酔塗布で無痛不感!!」
「いきなり体内から刃物が生えたら彼だってビックリする。その隙を狙おうと思う。だいじょうぶ、あまり痛くないって」
「ごちそうさまですっ」

 うぇえっという女の表情はさらに無視された。その背が押されて否応にも戦場へと進まされる。
 周りに居並ぶ面々は、徐々に彼への包囲網を縮めていく。
 鉄条網を引きずりながら、女が粛々と草むらから姿を表した。歪で捻じ曲がった鉄の棒を奏でるように少年が打ち鳴らした。ひらひらとした布切れに身を包んだ女が鋭く舞いはじめた。絶え間なく燃えさかる燃焼物体を壮年の男は振りかぶった。
 堂々と姿を見せるものもあれば木陰に潜んで機会を窺うもの。包囲に関しては二重三重と万全だった。
 初撃で奪われた勢いも問題はない。基本的に空気読めないので個々のテンションが全てなのだ。

「いつものあんたらしくないじゃない……一体なに考えてんのよ……」

 そんなのに囲われている留美は、悲嘆にくれるしかなかった。
 周りの空気に肌が粟立つ。国のうちでは感じることのなかった空気に満たされている。これまで度々とあった黒白の彼と彼らとのいざこざには、なかった成分が含まれていた。
 一歩間違えば彼は永眠という展開ばかりではあったが、これまではどこか緊張感を欠いていた。眺めるだけに留まらず、実際に巻き込まれたとしても物足りなさがあったのだ。
 それが、今は埋められていた。

「どう始末つけんのよ……? こんなに集めたりなんかして……あんたの手に負えなくなったら……」
「がんばれよ、七瀬」
「あ、あんたねぇ……!!」

 胸をざわつかせるどうしようもない不安が、ここには満ちていた。
 壁の内にあるということの意味と、壁の外にあるということの意味は、これほどまでに違うのだ。
 外で生きる冒険屋は、外においてこそ生きてくる。活き活きと容赦の欠片もなくなる。
 留美は黒白の疫病神を睨みつけた。そんな彼女を彼は怪訝そうに眺めやる。

「……この状況で、お前は俺の手助けをしたんだぞ。それぐらいの覚悟がないとやってらんないと思うが」
「な、なにいってんのよ。あれぐらいならいつも」
「お前ちゃんと招待状に目を通したのか? 日ごろの扱いに不満のある奴は鬱憤をぶつけてよしと。排斥するも始末するも何をしてもよしと。今日だけは一切のしがらみなく自由に振舞えと……、その上での行動なんじゃないのか?」
「う、い、いきなりそんなこと言われてもね……」
「いきなりも何も、三日前にはお前に届けたろ。考える時間はやった筈だぞ。連中を見てみろ。昨日に送ったってのに言わんとすることを完璧に呑み込んでるじゃないか。準備まで万端で……考えるまでもなく選択してるんじゃないだろうな、こいつら」

 彼は忌々しげに彼らを睨みつける。その視線に止めでも刺されたかのように幾人かが花弁となって散った。それでも誰も彼も構うことはない。もはや自分と彼だけの世界に入り込んでいた。
 ある意味トランスしている面々の視線を一身に受ける彼は、隣にため息を投げかけて現在の心境をのべた。そして、空を見上げる。

「……備えろ、七瀬。最初の一撃がきた」
「はっ? どっから? 少しはあたしにも分かるように――って」

 留美はヒュルヒュルと気の抜けた落下音に気づいた。それは彼が見上げる方角から響いてくる。じっと目を凝らしてみると映りこんでくる黒い点が発見できた。

「……なに、あれ」
「どかんと音がして30秒……十キロは離れてやがるな。手の届かない場所から一方的か。やる分にはいいんだが、やられるとなると胸糞悪い」

 そんなことを言っている間にも見る見ると黒い点は近づいてくる。その数、二十は下るまい。実に的確に目標地点を目掛けて振ってくる。

「試射なしでピンポイントか。精度は高い……問題は、発射から着弾までのタイムラグと……、これで得物をとろうなんて考える連中の脳みそだな」

 空ばかりを見つめる彼の様子に、周りの面々もさすがに気になったのかちらりと視線をあげた。そして、ある者は異音に気づき、ある者は顔色を変えて身を翻し、勘のいい者はすでに姿を消していた。
 空を見上げたままの彼は、周りの反応に対してうんうんと頷きながら目を細めた。

「いや、しかし、待てよ……一種のめくらましかもしれんな……」

 彼は呟いて、上と周りに視線を行き交わせる。ただ、視線を行き交わせるだけで動くつもりはないらしい。隣にいる留美はたまったもんじゃなかった。

「な、何をのんきなこと……!!」

 遠方から放たれた凶悪な一撃が降ってくる。それは彼のみならず、彼を含んだあたり一帯に対しての一撃だ。
 つまりは、それに留美も含まれている。そのことにようやく思い至って、彼女は全身の毛が逆立つような感触に肌を撫ぜられながら長弓を構える。視界に移る黒い点は、二瞬前、一瞬前と、くっきり鮮やかさを増すばかりだった。
 自然と瞳が据わり、瞳孔が窄まった。次いで白木の弓身を折れんばかりにしならせて、留美はこちらを正確に狙い済ます凶弾を見つめた。
 その内のいくつかは、彼女が討つまでもなく空で爆砕する。周りに散らばっている面々の手によるものだろう。利害が一致したときだけ頼もしい。なんて嫌な奴らだ。

「なんにせよ……、これが始まりの合図になるな。ふん、次元の違いってもんを刻んでやるぜ。二度と逆らう気なんて起きなくしてやる」
「だーかーらっ、あんた、人に任せてばかりでぇ……!!」

 留美は激情に任せて弦から指を離した。弓身に備えるべく矢は存在しない。それでも矢は放たれる。限界まで引き絞られた弦が手から穿たれた瞬間、彼女の視界は数十の白木の矢で埋まった。
 正確無比に降ってくる数トンの勢いを持って降ってくる鉄塊は、圧倒的な手数によって撃ち負ける。爆裂音と衝撃がいくつも空に響いた。
 ほどなくして、迎撃者にとって害にならぬと判断された鉄塊だけが、衝撃と炸裂音を大地に振りまいた。そして、遅れること一瞬、それは彼が言ったような合図となった。
 緊張を強いる一撃が振りまいた火種は、簡単に導火線に燃え移る。一瞬で周囲は猛りに満ちた。

「ああ、もう!! どうすんの!?」
「……」

 留美への返答はなかった。また自分に構うことなく姿を消したかと思った。
 だが、飛び出してしまったわけではない。気配はまだ隣にある。それでも何の言葉も返さない彼に向けて、留美は壮絶な視線を向けた。そして、目を瞬かせることになった。

「え……な、なにやって……?」

 それは理解できない光景だった。
 白黒の彼の胸元に一本の刃が突き立っていた。投擲に扱うような小ぶりの代物ではあったが、それは根元まで深く、確かに彼の胸に沈み込んでいた。






☆ ☆ ☆






 木々の合間から、乱れ散る落葉の隙間から、幾筋もの銀光が過ぎては景色を薙いでいく。その一筋の流れで確実に葬り去られる。異物は血肉を残さずチリとなる。
 彼らは淡々と、淡々と、淡々と、確実に不浄を取り除いていく。

「左」
「右」
「上」
「下」
「前」
「前に」
「――前へ」

 周囲に散らばる影のすべてがバラバラにあらぬ方向を見つめながら、誰もが庇われているような空気がそこにはあった。
 だが、それでも彼らは決して纏まることのない個々としての群だった。わが道を往くいくつもの影が一太刀をかざして異形を排除していく。
 奥に。静かな猛りを振りまきながら奥地を目指す。
 もはや大したモノが在る場所でもないが。
 言葉でしか耳にしたことのない郷土ではあるが。
 それでもこれだけのモノが集まった。
 それだけの価値はある土地だった。

「まだまだ捨てたものではないのかな……」

 幾筋もの白い影が前に突き進んでいく。その後を緩々と続くのは、これまた白い影三つ。豊かな白毛に全身を包まれた一匹の狼と、腰まである長い白髪の人型が二人。
 ひどく似通った雰囲気の男女は、これまた同じように鋭い瞳を細めて思案に暮れていた。
 男が小首を傾げる。

「しかし、奴は挨拶してくると言っていたが……どうして、意識を失うようなことになった」
「短絡的であるからね、あの子は。とはいえ若手衆では一番頭……放っておいていいものかな」
「ただせさえ手が足りていないというのに……振り回されていたら日が暮れる。血の気の多い奴にはいい薬だ」

 嘆息しながら男は奥の方に目を向けた。しかし、女の方は群の一匹が足を運んだ方角に目を向けたままだった。
 どちらからともなくため息がこぼれる。そして、奥を見つめる男はおもむろに片手をあげた。横の茂みに右手の人差し指を突きつけた。
 秒後、横の茂みから来るモノがあった。喰らうように大口をあける四足のケモノだ。
 それは赤く光らせた瞳孔を見開いて眼前の獲物に飛びかかった。

「――おい」

 身の丈二メートルはあるかという肉の塊に対して男が動いた。突きつける人差し指を上から下へと薙ぐように軽く振った。それの迫ってくる勢いに構わず無頓着に。
 銀光が走る。それで終わりだ。
 一閃に真中から両断されたケモノは、瞬時にして何も残さずチリと化した。亡骸とも呼べない僅かな残滓は、吹き付けるように両者へと舞い散った。
 それを鬱陶しそうに払った男は、隣の女にウンザリしたような視線を投げた。

「今のはお前だったぞ。それほどまでに何を気にしている……?」
「あの奇妙な感じ……知らないままでいるのは、とても、まずい気がするのだけれど」

 彼女の言葉に男は一瞬だけ理解を示し、しかし、と首を横に振った。

「だからといって、お前にまで外れられては困る。さすがに手に余るぞ。俺とこいつだけであいつらのお目付け役は」

 そう言って、男は足元の白い狼を一瞥し、奥のほうに目を向けて思案げに細めた。ひたすら前へと進んでいく白い姿がちらほらと目に付く。
 今のところは付け入られる隙は見当たらない。良くも悪くも及第点。
 だが、それでも、男の懸念を見て取った女は憂鬱そうに頷いた。

「……そうかもね」

 そして、女はゆっくりと身を捻った。左手の人差し指と中指を立て、空気を薙ぐように横に振りながら。
 まるでその動作に吸い寄せられるように、左の茂みから飛び出してくる姿があった。
 朱い眼で存在を語るケモノの姿。
 それが横に一閃、両断される。揺るやかに身を一転させた女の牙によってだ。
 ピンと立てた左の二本指には雄々しさの欠片も見出せない。それでも、それに身を撫でられた一個の塊は、この世に在れなくなった。
 それでチリと化した。

「これが、うるさい爺婆が懸念していたものか……確かに足りていない。手応えがなさ過ぎるかもね」

 これまた何事もなかったように呟く女に、男は目も向けずに応じた。少しだけ苦い感情を含ませながら。

「今はまだいい。だが、先はどうなるか予想がつかないな。すこし認識が甘かった。これから先のことが、相手から何も見えてこない。何だ、これは」
「やっぱり止めるべきだったのかな」

 女の言葉に反応したのは、一歩前を進む狼の耳だった。ピクリと動いたそれを目にした女は、軽く肩をすくめて苦笑した。

「はいはい、いまさらなんてことわかってるよ。止めなかった責任はキチンと取るから」
「今日は様子見で済ませるべきだろうな。……あいつらをどう説得するか」
「説得は無意味。言い聞かせないと、ちょくせつ。ねえ」

 足元の狼が同意するように軽く尻尾を振った。
 男はやれやれと言わんばかりにため息をついた。

「あまり手荒くやってくれるなよ。あいつらはまだ」
「なにそれ? 私たちだけにやらせるような、その言い草」
「知ってるだろ。俺は手加減できないからな」
「側にいれば厳しいくせして、いないと妙に甘いことを言う。そろそろ直したらどう? その変な甘さ」
「うるさい。手のかかるうちだけだ。育ったら放っておくさ。奴みたいに」
「かわいそうに」

 彼の言葉に苦笑しながら、女は放って置かれた群の子がいる場所に意識を向けて、

「――」

 そして、目を見開いた。一瞬だけ不自然に固まり、次いで焦ったように視線を辺りに巡らせた。
 その滅多に見せることのない狼狽した女の表情を見た男は、血相を変えて女の視線を追った。

「何だ……!?」
「まずいかも」
「何が……!?」
「見誤ったか」
「だから何だ!?」
「優先順位を間違えた。後回しにするべきじゃなかった」
「……ッ!!」

 そこで男も気づいた。さらに豹変する顔から血の気が失せる。

「一人、途絶え……いや、三――!?」

 前方を行く白い影、まだまだ目の届く範囲にある彼らの動きに異変はない。それでも気づけばいつの間にか抜けている気配があった。
 男の狼狽に足元の狼が吼えた。差し迫った危険に対する本能は、じつに正直な答えを出した。
 即時撤収を促す合図が前をいく白い影たちにも行き渡る。
 だが、女が眉をしかめてため息をついた。

「ほら、いざって時に甘いこと言ってるから……見透かされてる。誰ひとり聞く耳もってない」

 前方をいく白い影は、緊急を告げる呼びかけに警戒を強めるも、誰一人として引き下がってくる気配はなかった。そして、また一人、唐突に脱落した。

「どこに行く気?」

 男の歩幅が僅かに広くなる。その分だけ前に出始める男の背に、女は険しい視線をなげかける。

「どこに? 決まってるだろ。あいつらを連れ戻してくる」
「そんなことをしたら、ここまで来た意味がなくなる」
「放っておいたら何もかもなくなるぞ。あいつらに独り立ちは早すぎたんだ」
「あの子たちは危ないことを承知で戻らないの。今まさに独り立ちしようとしてるんじゃない」
「あんなザマで何ができる。冷静さを欠いて周りが何も見えていないだけだ。教えてやらないと」
「ねえ、そろそろ気づこうよ。その甘さが追い詰めることにもなるって」
「ッ、話は後だ! また一人」

 男の歩幅がまた僅かに広がる。それに女が眉をひそめて一言告げようとする。
 だが、男の焦りを諌めるようにかけられる言葉は、彼女からでなく。
 禿頭とは半比例するかのように豊かに生えそろったあご髭をなぞりながら、その老人は言った。

「下の者に対する心遣いも大事ではあるが……何事もほどほどにせんと。甘やかすばかりでは育つもんも育たん。しかも、それに気をとられ過ぎて己の世話すらできぬとあれば本末転倒だ。一度あたまを冷やしてこんか」

 男女と白狼は、それから一歩目で足を止める。そして、三者三様の反応を見せながら、鋭い眼差しだけを揃えて横道へと投げた。
 徒歩にして十歩ほどの横道、そこの木々の間に老人は座り込んでいた。その手にもっているひょうたんとっくりを傾けながらだ。

「驚いた……気づけなかったぞ」
「注意力が散漫になっておるからだ。この老いぼれは、ここでぬしらが来るのを眺めておったというに」

 いたずらを成功させた子供のような笑みを浮かべる爺さんは、男女と一匹それぞれと目を合わせた。
 焦燥と警戒を瞳にうかべる男は、険しい顔つきで老人をにらみつけた。

「人間……? いや、だが、なんだ……貴様、本当に人間か?」
「すごいね。ぜんぜん匂いが違う。お爺さんみたいな人もいるんだ」

 わずかに感嘆をふくめたようにいう女は、いろいろと余裕のなくなってきた男を抑えるようにして前にでる。その足元に一匹の白狼が油断なく付き従う。

「それで、何だろう? 呼び止めたからには、何か用があってのことだと思うんだけど」
「確かに用があるから呼び止めてはみたもんだが……、さて、如何様にして切り出したもんか」

 そういってとっくりを口に含んだ老人の態度に、一秒も付き合ってられるかと男が女を押しのけて前にでる。躊躇うことなく老人のすぐ傍まで歩み寄って、剣呑にとがった指の先を座り込んだままの老人に突きつける。

「貴様の用件に興味はない。ひとつだけ答えてもらうぞ」
「なんだ、せっかちな」
「先行しているうちの若い連中が襲われてる。それと貴様のつながりは?」
「ものを尋ねる態度もなっとらん」
「答えろ!!」

 指先が老人の首元に浅く沈み込む。ちょっと、と咎める女の言葉にも省みることなく男は相手を見据えた。
 いまだに好々爺の相好を崩すことなく老人は笑んでいる。ぴたりと合わせている瞳にもなんら変化は生まれない。何が起ころうと自然体のままだった。
 それが、何もかもを台無しにしていた。人であることも、好々爺っぷりも、警戒心を解くであろう全ての要素が男にとっては何ら意味をもたない。

「答える気がないなら構わん。ひどく危険な匂いだ。ここで、仕留める」

 その言葉にようやく笑みを打ち消して、老人は嘆息した。呆れ返ったような目つきで男を見る。

「……なっとらん。下のもんの面倒を見る立場にありながら、短慮に過ぎる。それでは与えられるのも少なかろうて。ぬしに教わっとる生徒が不憫でならんわ」
「な、なんだと……!!」
「お爺さんするどい」
「おい……!!」

 老人の言葉に同意する女に、男は思わず意識を向けた。
 意識をはずしているとはいえ、老人の首に沈み込んでいる指先は、些細な変化も見過ごすことのない緊張をはらんでいる。それでも老人への行いを本当に自覚していたら、老人への危機感を本当に察していたら、男はそんな様を晒さないで済んだろう。

「なっとらんな」

 老人は無造作に首を振っていた。首を回す運動でもするかのようにごく自然な動きで。
 それで目の前の男は、上下さかさまになった。投げ飛ばされたかのように中空に身を浮かび上がらせていた。

「――!?」

 それに三者三様が心底の自然な驚きを見せる。そして、それに対応するために誰もが動こうとした。
 だが、誰もが対応できなかった。目で追えないわけではない。予測のできない奇抜さもない。むしろ老人が指先を開こうとする動きすら追えるほどに鈍重な動きだった。
 それでも彼らに動ける余地はなかった。老人はちょうど頭上あたりに無防備な格好をさらす男に対して、掌底を押し当てた。突き出すわけでもなく、ただ、両の手のひらで触れた。

「ガ――ッ」

 それで男は紙風船のように軽く空へと吹っ飛んでいた。まるで巨人の一撃を喰らった小人のように、圧倒的な重量さからくる絶望的な衝撃を喰らって身体がぶれんばかりの勢いで飛んでった。

「……」
「……うわ、すごい飛んだ」

 恐ろしいほどの正確さでもって、ただ、真上へと突き上げられた男は、背丈のある周りの木々すらも突き抜けていく。そのさまを一人と一匹は真下から眺めるしかなかった。手の届かない場所までいってしまわれては助けようがなかった。

「……本当にすごいね、お爺さん」
「伊達に年はとっとらん。驚かれてもこまる」
「そうかもね。うちの爺婆と同じか……もしかしたら、それ以上? だとしたら、どうしよう」

 女は戸惑ったように足元に目をやった。白い獣は、身じろぎせずに伏せている。耳をぴんと突き立ててはいるが、自らは動こうとする姿勢ではない。

「あなたは、そんな態度とるんだ。それじゃ、私も便乗させてもらおうかな」

 女は苦笑いをこぼした。そして進むべきだった道へと視線を向けて、まわりに投げた。そこにあるはずの気配は、気づけば全てなくなっていた。

「ね、お爺さん。ひとつだけいい?」
「かまわんよ」
「奥にいってた子たちは、死んじゃったのかな」
「さてな……、確かなことは何一つとしてわからんよ。それでもいいなら答えるとしよう」
「おねがい」
「命まで取りやせんだろう、恐らくは」
「その口ぶりからすると、やっぱり関係ありそうだね」

 すこしだけ視線をほそめる女に、爺さんは変わらない邪気のない微笑みを浮かべた。そして、わずかに視線をさまよわせたかと思うと、いくぶん声の調子を落としてつぶやく。

「ただし、死んどらんというだけで、どんな目にあったかは予想もできんぞ。ふむ、下手をしたら」
「わからないって言ったわりには、知ってるんだ?」
「今回の主犯については、深く知らん。だが、言ったろう。伊達に長くは生きておらん。この匂いには覚えがある。魔の都の薫りをふんだんに漂わせおってからに……呑まんとやっておれんよ」

 老人はとっくりを傾ける。そこで、ふっと、女の意識が自分から逸らされたことに気づいた。そして、そのわけにもすぐに気づく。

「ねえ、お爺さん。彼らは何かな」
「やれやれ、来るなと釘を刺しておいたんだが」
「もしかして、うちの子たちを……」
「そんな芸当ができるように見えるとしたら、お前さんも頭を冷やす必要があるぞ」
「なら、見た目どおりでいいんだ。うちの子たちと似た感じ」
「ふむ、否定できんところが何とも頭の痛い話だ」
「なんだか今にも手を出してきそう」
「どうしたもんか。あやつらの腕を考えるに、ここの荷物は少々重過ぎる感触だが……」
「私は傍観するけど」

 女の言葉に老人は、ふうむ、とあご髭に手をあてた。女の白い髪と比べるとだいぶくすんではいるが、これまた白毛の髭をゆるりと撫でながら思案する。そして、こちらに向かってくる姿を目にとどめて、軽くなってきたひょうたんとっくりを傾けた。最後の一滴まで無駄にすることなく、己の中に注ぎこんで息をつく。

「なら、この老いぼれも付き合わせてもらうとしよう。一息入れさせるための物を抜け目なく持ってきおったからな」

 茂みを掻き分け、枝葉を抜けて、木々の合間を駆けてくる影は三つ。ひょろいのとデカブツと普通の中肉中背。まだだいぶ離れてはいるが、それら姿格好を見とめた老人は、仕方なさそうに息をついた。それでもどこか嬉しそうなのは、内の一人が担いでいる荷物が明らかに場の雰囲気に馴染まない代物であるからだろう。
 デカブツの背負う荷袋からはみ出てる酒瓶のかち合う音は、とてもすばらしい。

「先生っ!! 酒に目を取られないでください!! 上っ、頭上です!!」
「だから言ったんですよう、わたしは。いくらなんでもこんな場所にまで先生の好物を持ち込むべきじゃないと。まったく、何を背負ってるんですかね、木偶どの」
「……」
「それなりの物を進呈すれば恵比須顔なんて言ったのはあんただっ表六さん!!」
「んん? 堅物くん、先生への呼びかけをやめちゃいかんでしょう? ほら、そろそろ大変ですぞ」
「――っ、先生!! 落ちてきますよ!!」

 枝葉を荒々しく鳴らして落ちてくるそれは、天高くまで飛んでった男だ。力なく落下している感じではあるが、乱れて凄いことになっている長い白髪から垣間見えた視線は、まだ生きている。むしろ生き生きと光を増していた。
 そのことに気づいていない老人ではないだろうに、その目は巨漢の背負った荷袋にしか興味がないといった様子である。

「……一先ずあっしが」
「いやいや、ここはわたし」
「待っててくださいっ先生ぇ!!」
「あ、駄目ですよう、堅物くん。あなた真っ向からぶつかったらすぐ使い物になるでしょう? ここはわたしに」
「一先ずあっしで」

 駆け足を早めたのは三人同時だった。だが、等しく並んで駆けるかというとそうではなく、一瞬で中の一人が抜きんでた。
 まるで重みを感じさせない足運びで地面を蹴りつける。図体のデカイ鈍重そうな巨漢が、その体躯とは裏腹の疾さでほか二人をあっという間に背にやった。

「あ、木偶どの、本気を出すなんて卑怯ですぞ!!」

 表六の言葉に応じている暇すら今はなかった。木偶と呼ばれた髭面の巨漢は、蹴りつける足にさらなる加速を求める。
 視界の先で、落ちてくる男が目にはいる。枝葉に引っ掛けられて全般的にぼろくはなっているものの、見た目どおりに弱っているわけではない。むしろ危険だ。力なく落下するままになっているかと思いきや、男は最小限の動きだけで、最大限の力をお見舞いせんと体勢を整えていた。
 最高の一撃がお見舞いできればそれでいいと、まるで闘争心むき出しの獣だ。その自身を省みない姿勢が何よりも恐ろしく思える。
 今の男なら、老人を手にかけることができるかもしれない。その考えが頭をよぎっただけで、常日頃から言われている冷静さなど保てるわけもなかった。
 ゆえに敵が落ちてくるまえに、巨漢は辿りつく。そして、迎え撃つために勢いを殺さなかった。

「荷物は任せい」
「失礼しやす」

 巨漢は駆け抜ける勢いはそのままで、すれ違う一瞬、荷袋を放り投げるわけでなく置くようにして手放した。それを老人がきちんと受け取るであろう事はわかりきっているので確認はしない。
 木偶は地面を蹴りつけて、その巨体を軽々と中空へと飛ばした。そして、見据える。

「老いぼれぇ!!」

 老人を見ている獣の瞳を。乱れる白髪を気にすることなく、銀色の切っ先を振りかぶる男がきた。合間に入り込んだ巨漢には目もくれずに老人への一撃を放とうとしている。
 その姿を目の前にして、木偶とよばれる巨漢は、ただ、安堵の息をついて両の拳を握りこんだ。その手を覆う鉄色の薄い鉄甲が布切れのようにひん曲がる。

「させやせん」

 老人が害される確立がわずかでもあるのであれば心配せずにはいられない。そんな性分であるかして、木偶は状況が状況であるにもかかわらずに、間に合ったことに安堵して微かに口元を綻ばせた。
 間近で五筋の銀線がひらめく。それに対して、巨漢は両腕を叩きつける。筋肉を盛り上げさせるような剛の力ではなく、どこまでも自然な柔の力で振るう拳は、それこそ目にも留まらなかった。
 それでも、そこまでやって恐るべき牙は打ち消せて四本。うち一本は今の巨漢の腕では追いつけない。
 功手と功手の交じり合いは、それこそ一瞬だった。銀の一線が木偶に降りかかる。
 それが分かっていたから、致命傷になるものだけを選んで叩いた。最悪でも腕の一本が持っていかれるだけである。それについては諦めるしかないだろうと、冷静に思いながら木偶は事態に備えた。

「……?」
「――!?」

 だが、巨漢を襲った衝撃は、予想していたものではなかった。それは牙を放った男にとっても予想外のことだった。
 男にとっては障害もろとも切り裂くための一手であり、巨漢にとっては手痛い先手になるはずだった。その一線がかき消えたのだ。何の前触れもなく溶けるように霧散した。
 その一瞬前に舞い落ちる何かがあったような気がした。
 だが、それについて意識をやる暇はなかった。男と巨漢は気を取られた次の瞬間には衝突していた。
 降ってくる勢いと、跳びあがった勢いがぶつかり合って両者を襲う。それは巨漢が予想していたよりも遥かに生易しい衝撃であり、男にとっては予想外の一撃だった。
 それでも息をつく間は生まれない。男は姿勢を崩した体勢で牙は放った。 

「邪魔をするなぁ!!」
「聞けやせん」

 それは同じく姿勢を崩しながら放った巨漢の拳に相殺される。鉄甲と牙の重なり合う音が響いた。
 そのまま中空にて二撃を交わした木偶と白い男の着地は同時。さらなる巧手に転ずるのも同時だ。
 だが、次いでの一撃は横からきた。
 壮年の男が飛び込んでくる。白い髪の男に掴みかからんと無防備に踊りでてきた。

「はは、木偶どのばかりによい格好はさせませんぞ――!!」
「――貴様ら如きに」

 用心の欠片もなく本当にがむしゃらに走りこんできた痩身の彼は、すでに獣に見据えられている。万端の歓迎でもって牙が振るわれた。
 だが、それを痩身の男は避けるそぶりすら見せず、片手を頭上にかかげるだけで無防備に掴みかかった。
 その姿に白い男は顔をゆがめる。自身の力を知っているからこそ、その姿勢で向かってくる痩身の男に苛立ちしか覚えなかった。

「片腕だけで済むと思ってか」
「いやいや思ってませんよう」

 銀線を生む牙が、ひょろながの身体を天頂から一線走った。掲げた細腕など断てて当然といわんばかりの無造作に。
 対して壮年の男はニヤリと厭らしく笑んだ。

「片腕だって失いませんぞ」
「――っ!?」

 白い男の牙は、確かに細腕に食いこんだ。だが、その手応えに獣は一瞬動きを止めた。
 壮年の男が行動するには、その隙だけで十分に事足りた。相手の牙を片腕で振り払い、懐に忍び込む。そのまま直情的なまでに腰元に抱きつくように掴みかかった。
 勢いにバランスを崩した男の上に、壮年の男はまたがった。単純明快に子供染みた、獣のような形振り構わない行動に、白い男は思わず動きを止めて見ていた。

「さあ、覚悟はよろしいですかな?」
「……驚いた。俺の牙を受けきったのか……どうなってる、その腕は……?」
「その身でもって味わってくださいよう。タコ殴りですぞ」

 マウントポジションをとった壮年の男は、にんまり笑って細腕を振りかぶり、思いっきり振り下ろした。それこそ子供の喧嘩のように滅多打ちに入る。はは、と笑いながらひょろいっちい痩躯の壮年は、その言動にまるで似合わない異様ともいえる激情を満面に振りまいた。両拳をマッハパンチと言わんばかりに振るいに振るう。
 だが、そのテンション上がりきった猛攻を、白い男は下にしかれながら冷静に凌いだ。振り下ろされる拳をすべていなしていた。
 片や絶好のポジション、片や最悪のポジション、それでいて結果は互角か。不利な状況でありながら白髪男には余裕がうかがえた。

「なんとまあ憎たらしいですなぁ」
「……なかなか痛い。やるものだ」
「かぁ、その言い草がまた頭にきますぞ!!」
「表六……!!」
「わかってますよう!!」

 そう投げやりに叫んだひょろい男の手が緩んだかと思うと重みすら消えうせた。その場から身を退けたのだ。
 一方的に拘束をとかれた男が疑問に思うのは一瞬だ。答えが降ってくる。

「……これは、かなり痛そうだ」
「はは、五体満足な今のうちにいっておくのが宜しいでしょうなぁ! そのような軽口はっ!!」
「いきやすよ」

 髭面の巨漢が組んだ拳を振り下ろして飛んできていた。
 重量過多の一撃が地面へと叩きつけられる。地面がはぜ割れ、震えるほどの衝撃が走った。そして、さらに追い討ちは入る。

「頑丈すぎる……一つでは足りない。なら三つです」

 すこし離れたところで事態を見守っていた最後の一人。普通の真面目そうな若者は、何かを放り投げるように軽く手を振った。髭面の巨漢が作ったクレータ状の穴ぼこに放たれる。
 それを見据えたかのように巨漢が飛び跳ねた。そこに取り残されたのは、息をつく間もない連携に防手に専念するしかなかった白髪の男だ。
 落ちてきた隕石でも受け止めんとする姿勢の白髪は、体勢を立て直して離脱するのと、放られた追撃のどちらが早いか一寸考え、すぐに受けの姿勢を整えた。

「ここまで、してやられたか……おかげで、頭が冷えてきた」
「そのままいっちまってくれると嬉しいですなぁ。ねえ、木偶どの」
「……」
「これが決定打にならないようなら覚悟してくださいよ、表六さん」
「何いってるんですか、これで決めてくださいよう、堅物くん」

 そして、白髪の男は爆炎に包まれた。それに合わせるように普通の若者は、さらなるブツを容赦なく投げ捨てる。油を注がれたように爆砕の火が燃え盛った。
 だが、それを見据える三者はそろぞれが構えて見せた。

「ああ、もう、火加減が弱いんですよう――」

 その立ち上がる火柱の中から影が飛び出してくる。






☆ ☆ ☆






「ふむ、なかなかどうして」
「うーん、なかなか美味しい」

 火の粉が飛び舞っている。暴風のような勢いに激しく吹き荒れる。ともすれば身体ごと持っていかれかねなかった。
 そんな渦中で彼女と老人は、くつろぐように座り込んでいた。 
 爺さんはひょうたんとっくりを傾ける。ご相伴に預かるように女も小さなお猪口を持っていた。ちろりと舐めては、唸るように息をつく。
 それを横目に眺めながら、老人は肴を口にした。

「よいのか? お前さんの連れ、少しばかり拙いかも知れんぞ」
「かもね。これはなかなか」
「鬱憤の度合いを測り損ねたか。あやつら本気でやるつもりになっとる」

 幾筋と走る銀線に対して、愚直に特攻するひょろなが。周りにそびえ立っている木々の太い幹すら一線で裁断する牙をうけても、彼は五体満足のままに力で攻め続ける。
 それとは正反対の繊細なうごきで迫るデカブツ。足の運び一つで確実に牙を避け、繰り出した拳で確実に牙を砕く。静と動の切り替えを瞬時に行い、指先ひとつ動かすにしても留まることのない技で攻め続ける。
 さらにそれらと一線を引くかのように退いている真面目そうな若者。労せずして実を得んといわんばかりの姿勢で、一瞬を見計らい、その間隙をぬう。正道邪道の区別なく卑怯くさい一撃で攻め続ける。
 それぞれ似ても似つかぬスタイルでありながら、三者は絶妙の掛け合いで男を追い詰めていた。
 こんな時ばかり協調しおって、と爺さんはため息をついた。

「本当によいのか? 手加減できるほどの余裕は連中にないぞ」
「お爺さんにとってはいい事だと思うけど」
「何を気楽そうにいっておる。お前さんの連れだろうに」
「大丈夫だと思うけど。お爺さん……は、別としても、人間みたいに柔じゃないから」
「それは過信が過ぎるというものだ。そして過少にも過ぎる。この老いぼれだけと思うのはいささか浅慮ではないか」
「そうかも。でも、私はまだお爺さんしか見たことないから」
「……そこにおるぞ。老いぼれより先にお前さんらと係わりをもった者が」

 そこを指差すわけでもないが、老人の声は正確に方向を指し示した。
 ひょうたんに口をつけて啜る爺さんが背を預けている大樹。その反対側に位置する幹の下。
 語りかけるように言われて、気づけた。
 そこに誰かが座り込んでいる気配があった。
 そして、女と白狼は、さらなる異変に気づいて視線をあげた。
 淡色の花びらが咲き乱れている。ここだけではない。あたり一面が気づけば桃色の花びらに埋められていた。尽きることなく無限に舞い散る桜花に包まれている。
 それらの中から、その声は響いたように聞こえた。

「なんでまたあいつらに任せる気になったんだ? 先生がやってくれれば出張る必要はなかったってのに……」
「なに、少しばかり危険な橋を渡らせてみたくなった」
「それはまた一体どんな心境の変化だ……? ご高名な屋台”学び舎”の先生とは思えない発言じゃないか」
「……以前にたかだか一月ばかり預かった一年坊が、こうまで化けてしまってはな。いささか揺らがんでもない」

 その言葉に幹の反対側は沈黙し、嘆息がこぼれた。

「まるで俺が先生の屋台に組してたようですがね……、覚えはない。ということで」

 老人は、呆れたように息をついた。そして、荷袋から取り出した瓶を一つ掴んで背後に放った。
 背後からぬっと突きでた手がそれを掴んだ。すぐさま引っ込む。

「隠し立てしても良い結果にならんと思うが……、派手にやらかしたツケがあることを考えると、もうしばらくは知られん方が良いか」
「できることなら全て終わるまで気づかれないことを祈ってくれ」

 栓を引き抜く音が微かに鳴った。ひょうたんとっくりを限界まで傾けていた老人は、そのままそれを背後に差し出した。
 一瞬のためらい後、背後から差し出された酒瓶から追加がどぼどぼと注がれた。

「……なんだよ、空になっちまったぞ」
「まだある。……が、おぬしはこんな時に飲む気か?」
「いいんだよ。俺は、ここらの担当だから。楽させてくれ」

 ふむ、とあご髭をなぞる老人は、なみなみと零れんばかりのひょうたんを幸せそうに傾けた。そして、視線をさ迷わせて、僅かばかりに水を差されたといわんばかりに顔をしかめた。
 桜の花びらが舞い散っている。それは目にするだけで鳥肌が立ってくるほど美しい光景であり、だからこそ老人は目を背けた。

「これも、おぬしの仕業か?」
「俺じゃない」
「今ここにいるおぬしではない……、そういうことか?」
「……まいったな。さすがはクソ爺……いや、先生」

 そういって重い腰をあげるように、よっこらしょと呟いた反対側の者は、あっさりと大樹の影から姿を表した。無頓着に爺さんの傍までよって空の瓶を荷袋に押し込む。そして、新しい瓶を勝手に取り出した。
 その一連の動きに口を挟まず、酒を貪り、食いもんを口に含む老人は、三人、四人と呟いた。そして次ぐように五人、六人、七人、と留まらずに吐き出す。
 それを遮るようにして、彼は続けた。

「飛ばして、十、十一、さらに飛ばして二十、二十一……ってとこか」
「ほんに尋常でない化け方をしおって」
「だから、俺にいうな」
「お主じゃない。……だが、お主だ」
「その厭らしい洞察力なんとかしてくれクソ爺……いや、先生」
「止められやせんのか」

 酒瓶の栓をあけた後にすぐさま口をつける彼は、何もかもを飲み込むようにして息をついた。そして、どうしようもなさそうに笑った。

「無理だ。もう、三人、ヤられた。止まらんさ」

 その言葉に眉をひそめた爺さんは、まじまじと彼を見つめた。

「なんだ、おぬし人の枠からも外れたか?」
「見てわかれクソ爺――いや、先生、どこをどう見たら、そんなトンでも発言が飛び出す。ははん、さてはついに脳みそまで酒と食いもんで埋まったな? 二つの目ん玉でよく見ろよ。そんな疑念が浮かぶ余地すらないだろうが」
「見れば見るほど別次元の生き物に見えてくるぞ。そこまで存在にしがみ付いてながら確固に己であれんとは、どれほどの魔性に身をゆだねおった」
「……いちいち口にするなよ、クソ爺。意識させるな」

 彼に向ける瞳を爺さんは軽く険しくする。あたりに舞い散っている花びらが、わずかに量を増し、その気配を濃くしていた。
 その華やかさに呑みこまれるように、彼の色彩が失われていく。まわりの幽玄じみた華々しさに塗りつぶされていった。
 ともすれば彼が彼ではない他の誰かと認識してしまいかねないほどに、彼は薄らいでいた。
 とんでもなく場違いな場所に捨て置かれてなお存在を誇示せねば消えてしまう。そんな危うさにまみれているように見えた。

「なら、何も言うまい。好きにするがいい」
「なんだ、本当にいいのか? 何をするかわからないぞ」
「生徒同士であるなら話は別だが……ここは、そういう場だった。この老いぼれが止める筋は欠片もありゃせん」
「卒業した後も巣立たん連中はどうする? 巻き込んじまうかもしれないぞ」
「教えるべきことは教えたつもりだ。なんとかするだろう」

 老人が向ける視線の先で、激しさを増していく彼らの姿があった。攻めるべき対象が徐々に本来の調子を取り戻してきているようだ。
 人間にしてやられたというショックからようやく立ち直ってきた白い男は、一手打ち合わせるたびに牙を鋭く磨き上げていくように見えた。
 三対一でも拮抗か、もしくは三人の方が押され気味になってきている。

「本当にいいのか? 牽制役が必要ってなら手を貸さないでもない」

 彼は一本隣にある大樹にちらりと視線を向けた。
 その木の下に、この場に彼が現れてからは一言たりとも口を開かず、ただ、じっと彼を見据えている白い女と獣がいた。
 どこか艶のある長く白い髪が腰元でゆれるのを目で追いながら、彼は微かに瞳を見開かせる。彼女らを凝視するように見返した。
 それだけで一人と一匹は、緊張を露にして微かに呻いた。強制的に落ち着かない気分にさせられる。何処とも知れないひどい場所にさ迷いこんだような心持ちにさせられる。
 白い女は、ここにきて初めて余裕のない表情で呟いた。

「ね、お爺さん、その人、なに……?」
「この老いぼれも、今のこやつに関しては詳しく知らんが……わかり易くいえば」

 彼を一瞥し、彼女に目をむけた爺さんは、考えるまでもないことを告げた。

「敵だ」

 黒い羽織に白い着流しという出で立ちの青年は、その実に的確な一言を受けて、ニヤリと笑った。
 一足先に牙と刃を交し合っている連中からの火の粉が舞った。だが、それが燃え盛ることはない。周りに吹雪いている花びらに包まれ、燃え滓すら残さずに呑まれて溶けていく。

 それから幾日と経たぬうちに、戦場は苛烈さを極限にまで高める。狂ったような勢いに押されて、樹海の全区域の前線が押し上げられる。
 天災、獣、人間、そして、一人は、意に沿わない相手を区別なく敵として、牙と刃と命をぶつけ合う。
 西の大樹海、獅子の塚穴は、これまで以上の屍を抱かんとする決戦場と化していった。






☆ ☆ ☆






 ………………

 …………

 ……

「……」

 鼓動がとまった。それに気づいて、視線を下ろしてみれば奇妙なものが胸から生えている。正確に言えばそれは生えてるのでなく、胸に突き立っていた。
 そんな付属物は一瞬前までなかったはずだが。
 見つめている間に、その根元からじわじわと赤い色彩が広がっていく。
 白一色の着物にはひどく目立つ染みである。この色は、まずいなと思う。落ちにくい色だと、ネコ耳に文句をいわれてしまう。
 だが、自分の心配はよそに止まることなく染み広がっていく。とまる気配なかった。いくらなんでも染めすぎだろうと、手で押さえつけようかと思ったが、不思議と見ていることしか出来なかった。
 それをじっくりと見つめている時間は、それほど長くはなかっただろう。
 視界が傾く。体勢を立て直すことも、膝をつくことも、何かしらの行動も起こせることなく、ただ、倒れるなと思うことしか出来なかった。
 電池の切れてしまった玩具のように、終わることしか出来なかった。視界が傾く。脱力感すら感じられずに崩れる落ちる。

 ……ま、いった、な……

 耐えようのない喪失感に心はあっさりと砕けた。自身に失望し、どうしようもない未来に絶望した。気が狂いそうになる。だが、狂えるほどの気力も残っていなかった。
 ただ、心の底から怨嗟のごとく思いが湧きでる。
 無念だった。
 ここに辿りつくまでにあった何もかもが、こんなにも呆気なく、失われてしまう。
 これほどまでのものとは思いもよらなかった。これほどまでに狂おしいとは思っていなかった。
 肉の身が朽ちるより先に心が死んでしまう。
 僅かに残っている命の鼓動にすら反応できない。叫ぶことも泣くこともできない。
 最悪だった。

「……ほんとう、に、なんて、気分だ……!!」
「ちょ、ちょっと……!!」

 暗くなりつつある視界に彼女が映る。どうやらぶっ倒れる寸前だった身体を抱きとめてくれたらしい。視界は空を仰ぐようにして中途半端に傾いていた。
 いい天気である。木々の隙間から覗ける空模様は、こんなときに限ってどうしてか青空だった。
 こちらを覗き込んでいる彼女の顔色も血の気がうせて青ざめている。色彩的にはまったくもって対比している青だ。
 だが、どちらとも悪くはない。
 悪くはなかった。

「七瀬」
「な、なに?! って、後っっ喋るな! いますぐ」
「いいから聞け」

 四肢は動かず、何もなせる気はしなかったが。
 彼女の顔を見ていると、そんなことも言ってられないような気がした。何よりも、こんな気持ちのまま塞ぎこむぐらいなら憎まれ口の一つでも叩いていたほうがよっぽど健全だ。
 最後の残り滓をかき集めて、それで何とか言葉を吐き出せる。

「こんなもんだ、俺たちは。つまらないことで、行き詰る。こんなにも、あっさりとな」
「な、何いってんのよ……じょ、冗談は……」
「気をつけろよ。お前は、性格からして、とくに、危なっかしい……から、な……」

 何もかもを捨て置くように、急速に視界が暗くなる。
 一人捨て置かれたように、何もかもが遠のいていく。
 どうやらそのときがきたらしい。
 そのことを先ほどよりも少しだけ冷静に受け止めることができた。
 残った力を振り絞って触れた頬の温かみに、なぜかひどく救われたのだ。それに応えるように彼女が自分の名前を呼んだような気がした。
 それを確認することはもうできそうになかったが、誰かに名前を呼ばれながらというのも悪くはない。
 最悪ではあったが、悪くはなかった。

「……」

 ……

 …………

 ………………






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