「その一枚だけでも、あなたには分相応」
「手に余るぐらいでないと困る」

 銀色の魔女の冷ややかな瞳を見つめながら彼は笑う。
 吐き捨てる言葉は心底いまいましそうではあるが、彼は笑んでみせた。

「人にできることなんて高が知れてる。だから、必要だ。俺なんぞの手には、収まらないぐらいでいい」
「……謙虚だ。らしくない。すこし驚いた」
「まあな、いつまでも意地は張ってられないさ」
「気もちわるい」
「お前なんか嫌いだ」

 彼は不機嫌そうに鼻をならす。

「三度も見舞われたんだ。嫌でも認識を改めるさ。さすがの俺も独りでアレには対抗できない」
「かわいいこというんだ」
「今は、だ」

 クスッと、魔女は顔色を変えずに能面で笑う。
 彼のもっているサクラの枝を一瞥した。

「だから、それ? 今なら、それ一つにはかてると思ってるんだ」

 先っぽに一輪の花をつけた小枝。
 五枚の花びらは淡く色づいている。

「それは、ありのままのわたし」
「……」
「まっさきにあなたを襲う。欲望の塊だ。加減なんて、きっとしない」

 彼の顔色が若干ひきつる。それでも渡されたサクラの枝は手放さない。
 つまりは、それほどまでに追い詰められているのだ。
 彼の心の隙をつくように魔女は嗤いかけた。

「もうすこし、あなたがわたしと過ごしてくれたなら……だいじょうぶになる」
「何がどう大丈夫になるんだかな……」

 魔女の顔つきからして、篭絡する気満々である。うさんくさいにも程があった。
 だが、それでも、その言葉は抗いがたい誘惑だった。
 ただでさえ、彼は焦っていた。
 三度である。
 三度もアレとやりあって、その結果は散々たるものだった。
 嫌というほど思い知らされた。今の彼では、アレをどうすることもできない。
 それで諦めるほど往生際は悪くない。
 ただ、どうにかできる日を気長に待つ余裕がなかった。
 だからこそ、その言葉は魅力的であった。
 しかし、一考してみる彼は、しかめっ面で銀色の魔女を睨みつけた。

「一つ問題がある、……長期間に及んで調教されたら、さしもの俺も下僕に成り下がるような気がしてならない」
「しもべには、やさしい」
「……なあ、それ意味なくないか? 結局のところ負けて這い蹲ってるじゃねえか!」

 彼のもっともな抗議を魔女は無視する。
 ただ、彼が手にするサクラの小枝を見つめた。

「あなたに渡したそれよりましだ。わたしの欲望はすごい」
「……いや、そんなことナイ胸はられてもな」
「まけたらおわり。つぎはない」

 それでは困ると、魔女は哂った。

「わたしはかてる。でも、あなたには無理」

 格が違うといわんばかりの魔女は、無味乾燥な瞳で彼を見下ろした。
 背丈の関係上、見上げる形にしかならないが。
 彼は半眼で見下ろしてやった。

「そりゃ自分からにじみ出たもんだしな。どうやったって負けるわけがないだろ」
「なにもわかってないから、そんなことをいう」

 微かに眉根をよせた魔女は、じーと彼を睨みつける。

「あなたは、じぶんで吐きだした息にもかてない」
「……何だ、いきなり」
「かぎられた空気しかない空間にとじこめられたら、あなたはどうする」
「どうするって、な……」
「きっと、どうすることできない。どうしよう……、だ」
「おい、侮るなよ。そんなこともあろうかと準備は万端だ。腕から植物を生やしてやるぜ。種子を埋め込むのに少し勇気がいるが、いざとなればどうってことないさ」
「ひん剥いて放置する」
「くっ……って、ひん剥くな放置すんな!」
「ほら、あなた独りじゃどうしようだ。ひん剥かれても、わたしは余裕」

 魔女はもう一度、格がちがうんだと言わんばかりに彼を見上げた。変態め、と見下ろしてくる彼を無表情に睨みつける。
 そして、サクラの小枝に視線をうつした。それを握っている彼の手を見る。そこから舐めるようにつつっと辿っていって、魔女は彼と改めて瞳をあわせた。

「あなたは、なにも理解していない。それでは、死んでしまう」

 それでも彼は顔色を変えなかった。
 魔女の瞳は再び冷ややかとなる。

「これだけ言っても、あなたは使ってしまう」
「……まだ、試したことがないんだ。結果を勝手に決めつけるな」

 彼の強がりに魔女は眉をかすかにしかめた。

「後悔させてあげる。あなたは後悔するだけでいい。ほかは……、あなたの代わりがうけおう」

 彼の行く先を憐れむように見つめる魔女は、口元だけを歪めた。
 それは、弧のかたちだ。

「それをつかうと決めたのは、あなた。だから、その代償を支払うのも、あなた」
「望むところだ」
「だめ。あなた独りじゃぜんぜんだ」
「うるさい」
「だから、あなたと……、貴方たちにしてあげる」
「……?」
「いまのあなたには理解できない。でも、つかったらすぐにわかる」

 その時になって、どうして俺が、と思うことだろう。
 その時点で、彼は、彼ではなくなる。
 彼でありながら、彼と自分を比べてしまう他者だった。
 それでいてなお、彼は、彼でしかないのだ。

「彼は、あなたのせいで死んでいく。あなたが、あなたを、殺すんだ」

 彼の手にあるサクラの小枝を、魔女はじっと見つめる。
 その瞳があやしく揺らぐ。

「それだけじゃない。あなたは、生まれてから死んでいくまでの時間すらも、彼から奪う。あなたが生き残るために奪いとるんだ」

 碧眼が淡くぬれ、サクラの花びらは微かに震える。

「彼は、あなたなんだから」

 そうして、彼女は彼を見つめた。
 人を蠱惑する魔女の瞳で。

「だから、あなたは、彼のすべてを奪う。生まれてから死んでいくまでの、僅かな、すべてを。記録も、記憶も、想いすら」
「……」
「命を、削って、創って、無くさせて、奪うんだ。死んでいくのがあなたなら、殺すのもあなた。……そんなの、人には耐えられない」

 だが、

「それすら耐えられないなら、そこまでだ」

 本当の意味での死に体となりさがる。
 だが、銀色の魔女は、そんなものを望んでいない。

「……いざって時の心構えはしてあるさ。万全だ」

 そういってぎこちなく笑った彼は、やはり何もわかっていなかった。
 魔女は、知っている。
 それでも、彼には必要なのだ。
 理解の範疇に及ばないからこそ、彼は欲するのだ。
 ここで拒んだところで、彼は、どこかしらで手にしてしまう。
 であるならば、と思う銀色の魔女は、能面のまま小さく息を吐いた。感情を一滴たらしこんだような珍しい吐息に、彼がかるく眉をひそめる。
 魔女は平坦に睨みつけた。

「後悔するといい」
「してるさ。いつだって、俺は」

 その言葉には、深みというものがまるでない。冗談のような響きすらある。
 だが、それほどまでに浅いというのに、どうしてか酷く重かった。人には耐えられそうにない重さがあった。
 それを、彼は軽く抱え込んでいる。平然と持てるぐらいに、彼は、慣れ親しんでしまっている。

「……そう」

 能面を微かにくずし、碧眼を淡くぬらして、呟く。

「次に会うときも……あなたは、あなたで、また、すこしだけ近くに」

 銀色の魔女は、薄くわらうしかなかった。






☆ ☆ ☆






 あのときの彼女を思い浮かべる相沢祐一は、このような事態になってようやく気づけた。
 あのときの彼女が、わらっていなかったことに。
 ただ、純粋に哀れんでいたのだと。

「……」

 ぽっかりと拓けた樹海の広場は、緑の色をそめあげるサクラに囲われていた。広場の中心にも、まわりより一回りでかいサクラの大樹が一本ある。
 花びらは絶えることなくひらひらと揺らぎながら舞っていた。
 そのような景色を祐一は眺めていた。中心の大樹に背を傾けながら、まるで花びらの一枚一枚を目で追わんといわんばかりの目つきで見つめた。
 彼はサクラの花びらを見つめる。
 今は、ただ、淡い花びらを見つめることしかできなかった。






☆ ☆ ☆






「は、はは、あっはっはっは……ついに、やってやったぜ……いったよな……?」

 あっさりと、信じられないくらいに他愛もなく息をしなくなってしまった。
 彼は死んだ。
 死ぬのだ。
 彼は。

「テメエは、ぜってえブッ殺してやる――」

 だが、だとすれば、なぜ、自分は生きているのか。
 簡単な話だ。生かされてきたから。
 やれるのに、彼はやらなかった。
 その結果がこれだ。
 気づけばやれるようになっていた。
 だから、やった。
 それだけだった。

「……おい」

 だから、それ以上は、もう望めない。

「だからって、そりゃ、ねえ。ねえだろ……」

 これまで散々もてあそばれてきた代償を向こうに払わせた。
 だが、これでは、最後の最後まで弄ばれたようなものだ。

「こりゃ、なんの冗談だ……!!」

 このときのために、ささくれ立った意志を無心となるほどに磨き上げてきた。余計なものがなくなれば一個の刃はそれだけ輝きを増していった。
 鉄の砲弾が地を打ち、その欠片に身を打たれようと鍛えられた刃は一糸乱れない。意味を全うするだけの刃だったのだ。そこにはどんな意思もなく、無心のままにあれた。そして、待ち望んでいた瞬間がきたから放ったのだ。
 それが胸に沈み込むなどとは考えもしていなかった。
 刃は、鋭く尖っている。ただ、それだけのものであり、それ以外の意味などなかった。
 放たれたそれに彼が気づいたのは、数瞬の後。対処しようとしたときには、事は終わっていた。
 砲弾の着弾した間近だった。破片や泥土が辺りにぶちまけられても刃を揺るがせなかった。
 ただ、それだけの仕掛けで、彼はあっさりと意識から外した。
 だから、死んだ。
 彼は。

「っ……!!」

 彼は、死ぬのだ。
 いつの間にか、そんな当たり前のことが頭から抜けていた。
 そして、彼ですら死ぬとするならば。

「なんだ!! これも、テメエの仕業か……!?」

 彼の手にかけられる可能性のあった誰もが、等しく。

「冗談っじゃねえ……!!」

 こんな風に終わる前に、彼はいくらでも終わらせることができたのだ。だというのに、しなかった。だから、終わってしまった。
 最後の最後まで遊ばれてしまった。
 死してのちに打ち込まれた敗北感は、もはや取り除けない。地面に横たわる彼と同じように伏せる瞬間まで、それは呪いのように残り続けるだろう。
 これからどれほどのことを成そうと、全てが無に帰してしまうと思えるほどのモノを植えつけられてしまった。

「――ッ!!」

 そして屋台“サーティシーブス”の盗賊頭が、獲物を仕留めた余韻に呆然としていられたのは、そこまでだった。
 視界が白い矢じりに埋め尽くされる。
 そのすべてが盗賊を狙い澄ましていた。

「俺が……」

 彼を葬るための一撃に全てを投げ打った男は、砲弾の欠片に片足の半ばまでを持っていかれ、弾け飛んだ土砂に至るところを打たれている。それら一つ一つが致命傷だった。
 五体満足であっても厳しい矢数を前にして、今の盗賊頭では何をすることもできそうになかった。

「俺は、死ぬ……?」

 以前であったなら、それでも笑うことができた筈だった。
 だが、今はただ、避けられないと、絶望的に思うことしかできなかった。
 これまで感じたこともない感情にかられた身体は正直だ。情けないほどの必死さで背を向けた。片足と地についた両手に力をこめる。負った傷を考えれば信じられないような動きで身を翻した。
 ただ生き延びる為にだ。
 だが、逃げることなどできないとわかっていた。盗賊頭に放たれた一矢は、容赦の欠片もなくなっている。それが肌で感じられた。
 放ち手の意識が、ガラリと変わっていた。これまでにあった不殺の意志、というよりも相手を確実に仕留め切れない弱さが、今の相手には欠片もなかった。
 その一矢には、肉のうちに沈み込めるだけの鋭さが与えられている。明確な意思がこめられている。それが数え切れないほどの一矢となって男に迫っている。
 避けられない。盗賊頭は、ここでうたれる。

「こ、……こんなところで死んでたまるかあ――!!」

 だが、うたれる。穿ち突かれる。刃のごとく、白木の一矢が彼の至るところを貫き打った。
 呪いともいえるような敗北感を抱いて、心のそこからの恐怖を抱いて、壊されていく盗賊頭は、ただ、散っていく花弁を見つめることしかできなかった。
 絶望的だった。
 こんなものを抱えたままでは、生きていくことはおろか、死んでいくことすらできやしない。だというのに、もう、何ともすることができないのだ。
 これでは、さすがの無神経な意志も砕けてしまう。
 何もかもを持っていこうとする花弁に、あとは呑まれるしかなかった。
 そして、散りとなる最後で、盗賊頭は目にした。
 
「――!!!!」

 妖しく咲き乱れる花びらの奥で、死んだはずの彼が嗤っていた。
 一瞬、頭の中が空っぽになる。そして、言葉にはできない感情があふれだす。しかし、それに男の意志は追いつかなかった。なけなしの力を振るう前につぶされる。
 盛大に舞い乱れる花弁のなかを、裂くように飛来する矢があった。白木でなく、淡い桜色のそれは、先の尖った短いサクラの枝だ。
 それが盗賊頭の胸に沈みこむ。彼が仕留められた時とまるきり同じ手法でくだされる。
 また一つ盛大な花弁が舞い散った。






☆ ☆ ☆






 数多の者たちの残骸でもある花びらが舞う中を、彼は歩んできた。
 胸元を血痕に染めて倒れた彼のもとに、彼は歩んできたのだ。そして、彼を一瞥した彼は、その傍にいて、彼のための一矢を放ってくれた彼女を見た。
 白木の弓身を構えて、前方はおろか四方に多くの矢じりを展開している七瀬留美は、新たに現れた彼を呆然と見つめていた。
 どこからどう見ても放心状態だ。
 ただ、彼女のまとう空気だけは、触れれば切れる激しさを振りまいていた。
 それは比喩でもなんでもない。ここまで足を踏み入れた彼自身がそれを証明している。
 まとう着衣はあちこちと切れ飛んでおり、露出した肌なんぞは至るところが赤く滲んでいる。現実離れした中に存在する彼ですら、あっさりと傷物にされてしまった。
 七瀬は恐ろしい瞳をしていた。わけのわからない震えに、理由もなく、屈服してしまいそうになる。
 今の彼女は、まるで別人だ。
 人ですらないように思える。
 そんな彼女の様子にいつわりなく驚いて見せる黒白の彼だったが、歩みは最後まで止めなかった。
 忌避することなく彼女の傍まで寄った。そして、じつに居心地わるそうに身じろぎする彼は、わざわざここまで足を運んだ理由を口にする。

「まあ、なんだ、この様子から鑑みるとだな……どうやら、世話をかけたらしい。悪かった。ありがとう」

 そういって苦々しくも彼は笑った。
 七瀬が意識を保っていられたのは、ここまでだった。






☆ ☆ ☆






 彼はくたっと力をなくして崩れ落ちる七瀬を支える。そして、忌々しそうな視線を地面へと落とした。
 仰向けに倒れこんだ彼が目に入る。そいつを見ていると、感情が抑えきれないほど昂ぶってしまう。表情があからさまに歪んでしまう。

「……ふざけやがって……なに、少し満足そうにイってやがんだ」

 そう呟いて間も無く、無様に寝転んでいるそいつは、いまこの時にも舞っている花弁へと溶け込むように散っていった。
 それを見届ける瞳が刺々しくなるのはどうしようもなかった。そんな瞳をまわりに向けてしまうのも、この際しかたない。相手に感情を読み取られるのは気に食わないが、抑えられないのだから諦めるしかない。
 彼が死んでいくさまを呆然と見届け、彼を殺した男が散り往くさまを唖然と眺め、死んだはずの彼の視線を受けて一瞬安堵し、驚愕を思い出したかのようにしてたじろく面々。
 その何人かが散っていくのを見つめる黒白の彼は、気を取り直すようにして、嗤った。

「まだまだ……これからだ」















イノチ紡がれ世界は狂う
08 W そうして戦線は崩壊した















 樹海の北北東、林立する木々の幅がほかと比べると広々としている区域。かっては、のんびりと腰を下ろしてるぐらいなら駆けずりまわっていた獣たちの棲み処であった。
 しかし、樹海の中心からはじまった異変から三ヶ月。
 今では無味なケモノたちが音もなく徘徊するだけの道となっていた。
 そんな道を久方ぶりの生きている息遣いが駆け抜けていく。

「ひゃーっはあ!! あんだよ、にんげん、なかなかいいじゃねえか!! おもしれえ!! いいタイミングで来てくれやがった!! 手ごたえのなさにいい加減あきてきたところだ――ッ!!」
「飽きるぐらいなら最初からくんな」

 大した違いも見分けられない馴染み深い森の中は、いまや醜い種子に埋め尽くされている。
 彼はそれを粉微塵にしても飽き足らないといわんばかりに蹴り飛ばし、横合いから飛び出してくるケモノを踏み潰した。
 横に流れる景色は、それだけ速さを増していく。目まぐるしく視界の景色は変わっていく。
 そんな彼の動向に釣られるようにして、ぶら下がっている肉の身が爆ぜ割れる。次々と生まれたてのケモノが姿を見せる。そして、地につたない足がついた瞬間には、立派に狂ったものとして立ち振る舞った。
 それをみて彼は目の色を変える。
 だが、一方の集団はつまらなそうに一瞥するだけで、舌なめずりせんばかりの視線は彼へと向けた。恐ろしく狂ったケモノには目もくれずに、彼に追いすがる。

「うっせーのが働かねえとぐだぐだうっせーんだよ!! ……にんげんのせいだ!!」
「そうかよ、ぶっ殺してやんぜ」
「ぶっころ……にんげんが言うな!!」

 ガルルゥッと唸った狩人の姿は、足場を蹴りつけた瞬間に消えてなくなる。目にも留まらない。
 だが、それでもどうしてか獲物に追いつけないでいた。土俵は一緒。速さの次元は違う。それでいて追い詰めはするものの最後の一手だけが届かない。
 そうしている間に、この狩りには関係のないケモノたちが現れる。それら牙の中を獲物は潜り抜ける。ちょいとぐらい引っ掛けられても気にせず無防備に。
 それを追う狩人たちは、立ち塞がる肉など一瞬で蹴散らせるがゆえに牙を閃かせる。そんな手間隙をかけても十分に彼に追いつける。引き離されるにしても距離はコンマ一秒のズレだ。

「追って追われてはこうでないとなぁ! ほらおら逃げろぉ! 一心不乱に逃げねえと――!!」
「ああ、ぶっ殺してやんよ」
「ぶっころ……だから、にんげんが言うなあ!!」

 ビビビッと葉群が震えるほどの遠吠えが響きわたった。
 だが、それに獲物はなんの反応も示さず、むしろ周りが反応していた。
 弾けるようにして肉が割れる。生きの良すぎる獲物にひかれて抑えきれない本能がケモノを飛び出させていく。
 それを彼は避けて通り、彼女らは牙をひらめかせた。
 そんな些細な無駄を積み重ねた結果が、この狩りの継続であることを理解はしていないだろう。
 羽織りをひるがえす黒白の彼は、必要なときだけ思う存分に足蹴にする。仇敵を目にして瞳の色が変わろうと、どうにか駆け続ける。
 生きのいい獲物を追いまわす狩人は、あたりに舞い始める淡い花びらに気づかない。ぶらさがる肉の実と、それから生まれる出来損ない、それら同様に取るに足らないものとして片付けていた。
 豪放磊落だ。真っ直ぐすぎる。
 だが、そんなのは扱いやすいぶん嫌いではないので、一寸だけ彼は考えて呟いた。

「……なあ、もう少しばかり淑やかに振舞っちゃみないか? 見逃してやらんでもないぞ」
「っのやろう……!! 馬鹿にしてんじゃねえ!!」
「だよな、……まあ、俺も人の心配してる暇じゃないか」






☆ ☆ ☆






 樹海、西南。それなりに纏まりのある群れによって支えられていた区域は、いまや見る影もなかった。

「エンペラーの御前ぞ、さえぎることごとく、ただ、ひらけよひらけ」
「おそるることなく、とどまることなく、かえりみることなく、ただ、進めや進めや」

 その声高に響きわたる言葉に周囲から嬌声があがる。みなみなが行進を始め、外敵を目にすれば足を踏み鳴らして襲い掛かる。狂ったように昂揚する一団は、わき目も振らずに個々の力と、集団の狂信に酔いしれた。
 常であれば群れて困難を乗り越えてきた者たちですら、ただの一人で敵に牙を向けていた。その姿こそエンペラーに忠誠を誓う戦士であるゆえに。
 小さく群れての力は、いまこの場には相応しくない。烏合の衆は、熱狂的なカリスマにのみ付き従い押し進んだ。
 それほどまでの勢いは確かに驚異的であった。

「……」

 だが、それでも数は言うに及ばず、狂ってる度合いですらアレの足元にも及ばない。先に続いても、ほとんどの者が一時の高揚感を得るだけで全てを失うことになるだろう。
 目の前しか見えていない数百にものぼる猿の群れは、歯茎をむき出しにて鳴いていた。
 あたりに舞っている満開の桜すら、彼らにとってはどうでも良いものらしい。気に留めるどころか目にも入ってやいやしない。

「……使いやすく調教してきた連中まで無駄遣いしやがって……」

 そんなザマを見下ろしている彼は、心の底からのため息をついた。
 キャッキャッと鳴きながら、双の長爪を振るい、長く伸びる手足で殴り蹴りつけ、どこまでも伸びる尾っぽを叩きつけ、剛力で喰らいつき、影を残す身軽さで翻弄し、行進を促がす言葉に牙をむいて応える。
 呑みこめるだけ呑みこんで後は知らんといわんばかりの大波は、留まることを知らないようだった。
 そうして開けた道を、最後尾の者どもが悠々と歩んできていた。
 彼は、その中でもひときわ目を引くものを睨みつける。枝葉や数多とふぶいている花びらの合間からでも、それは当然のように目に入ってくる。
 四人がかりで担ぎ上げている神輿が、ゆらゆら揺れながら呑気そうに彼の視界に入ってきた。肌触りのよさそうな絹糸で四方を覆って、ほんのりと鼻につくお香を漂わせ、幾人もの従者を従えるながらだ。
 この樹海の様相と比べて、あまりにも相応しくない装いで静々と行進してくる。害されることなど考えてもいないだろう。
 だから、彼がそっと枝から飛び降りて、その豪勢な屋台骨に無造作に降り立ってみせた時には、誰も彼もが声もなかった。
 それから遅れて五秒。なんとも呑気に思考をめぐらせた従士やら担ぎ手は、みな一様に泡を吹かんばかりの形相を彼にむけた。そして、唄いながら進む二人の老いた従僕も目をひん剥きながら、叫ぶように唄った。

「エンペラーの往く道ぞ!! 無礼であるぞ!! ……にんげん――」
「反省はいらんぞ!! 後悔だけで良い!! 排除せや排除せよ!! エンペラーの御剣――」

 だが、そこまで激昂しながら従僕は牙を剥かない。間近にいるのは、どれもがそうだった。
 それらを忌々しそうに一瞥するだけに留めて、彼は覆い隠されている輿の中央を睨みつけた。

「おい、そこの無闇矢鱈にえらそうなカイゼル髭のシルエット……背後に気をつけろよ」

 その直後だ。
 彼からすれば前方、猿どもにしてみれば背後の木々が強引に押し退けられるような音が鳴った。それらを響かせながら何かが飛んできていた。
 だが、周囲の従者たちは見向きもしなかった。むしろその音をしごく当然と聞き入れて、不適な笑みを浮かべていた。

「来よったぞ。後悔するが良い、にんげん」
「潰れろや、のされよ、失せい」

 それを目にしている彼は、返す言葉もなかった。
 姿勢を正して来るべきに時に備える。無言で迫ってくる物体を見つめた。
 それは、一見して毛むくじゃらの巨体だ。体長五メートルはいかんとばかりの大ザルだった。
 それが、ただ背中を向けて吹っ飛んできている。

「……」

 いくら好意的に解釈しようと、目的があって飛んできているようには、見えない。なすがままに吹っ飛んできている。
 だが、振り返りもしない周りの猿どもは、彼をあざ笑っていた。飛んできているそれは、彼らにとってそれだけ信頼に足る存在なのだろう。
 親切に忠告したところで誰も聞く耳は持たないだろうと、彼は口をつぐんだ。
 だから、結果は、しょうもないぐらいにしょうもなかった。

「――ッ!!??」

 みんな吹っ飛んだ。
 従僕、従士、担ぎ手、そして、神輿。悲鳴をあげる暇もなく、巨体の勢いにまるで抗うことなくあらぬ方向にはじき飛んでった。
 それらがバラバラと清清しいぐらいに弾けていく。

「……おいおい、全員かよ。なんてザマだ。お前ら何しにきたんだ」

 一連の流れから難なく逃げ出していた彼は、荒れる地面へと着地する。そして、同じように身を退けていた唯一の影に目を向けた。
 輿がつぶれる寸前に飛び出した影は、その容姿にはまるで似つかないカイゼル髭を口元に蓄えていた。慌てて飛び出したせいか、逆への字を描いた髭が若干ずれているように見えるので、恐らくは付け髭なのだろう。

「あ、あっぶないですね、危うく惨めに潰されるところでした……な、何かあったんですか、みなさーん」
「お前が、……エンペラー? えらく予想と外れたな」

 耳にかかる黄土色の三つ編みをかき上げる少女は、不躾な言葉を吐いた隣の男をきっとにらみつけた。太い眉を怒らせて瞳を大きく見開かせる。

「な、なんです、貴方っ!? え、あれ……ほ、ほかに誰か、だ、誰かいないんですか……?」

 まわりの取り巻き連中は、傍仕えゆえか、派手な肉体労働は苦手のようらしく、誰もがへばっていた。
 それらの景色に目を見張るエンペラーは、自身の御輿が砕かれたありさまを見てさらに顔を強張らせた。
 そこには全長五メートルにも達せんばかりの毛むくじゃらな巨体が横たわっている。

「そ、そんな……王国随一の猛者が……これほどの真似をしてのける者が、いたの……?」
「いくらでも出てくると思うが……それより逃げないでいいのか? 次がきてるぞ」
「つ、つぎぃ……?」

 彼女はぎょっと目を見開かせた。二匹目と三匹目が飛んできていた。
 すでにしっちゃかめっちゃかな残骸となっている輿やら何やらがさらに撒き散らされる。
 それら飛んでくる破片を避けながら安全地帯へと身を退かせる彼女は、隣で同じく避難している彼を睨みつけた。

「な、何が起きてるですか……!? あ、貴方、おしえなさい!」
「教えろも何も見てのとおりだ。キングなコングがぶっ飛ばされて飛んできている」
「ぶ、ぶっ飛ばすって……彼らはそれぐらいでどうにかなるような猛者じゃないです!!」
「なってるじゃないか。ほら、見ろ。四匹目だ」
「ッ、そ、そんな……」

 仰け反るようにしてキングなコングが飛んできていた。信じられないと彼女は、顔を青ざめさせた。いやいやと力なく首を横にふる。
 だが、今度のコングはこれまでとは少しだけ違う動きを見せた。地面に叩きつけられる寸前に五メートルもの体躯を軽やかに翻して着地したのだ。ずどんと体重に見合った振動が大地を震わせる。
 それに驚いた彼女だったが、膝をつきながらも何とか姿勢を整える大猿の姿を見てとる。その光景に彼女は心底うれしそうな声をあげた。

「あれこそ王国随一の猛者ですよ! ふふんっ、どうです!?」
「いや、どうですといわれてもな……。ぶん殴られて飛んできたことには変わらないだろ」
「……こ、ここまでの無礼は初めてですよ、貴方。後悔させてあげましょうか?」
「ほう、やるか? 俺と」
「まったく、その減らない口を本当にどうにかしてしまいますよー……」

 むっ、と口元を引き締めて、彼女はじろじろと男を眺めてやる。よくよく考えると、まったくもって身も知らぬ不逞な輩であることに今さらながら気づいたような顔をした。
 黒い羽織と白い流しを着込んだ彼は、腕を組んでそんな彼女を見下ろしながら不適な笑みを返した。
 まったく敬いの感じられない態度に、彼女は不機嫌そうに鼻をならした。本当に彼に差し向けてやろうかと、彼女は視線を頼もしき随一の戦士に向けた。
 だが、そこで彼女は再び顔色を変えざるを得なかった。
 片膝をついたまま一旦は姿勢を立て直したかのように見えた大猿は、そのままの姿勢でうな垂れるように崩れ落ちてしまった。そして、呟くようなうめき声が、彼女の耳に届いた。

「エンペラー……申し訳ありませぬ……わ、われらは、ここまでのよう……今はお逃げくださいませ……せ、赤髪の……」
「な、な、何を言っているんです……お前は、王国随一の……!」
「エンペラー……お早く……」

 大猿は何とか主に応えようと健気に力を振り絞るも、結局はへばるようにして地に倒れ伏した。
 わなわなと震える彼女は、ほどなくして身を強ばらせる。荒らされた残骸を踏み鳴らしながら歩んでくる気配があった。
 彼女は得たいのしれない何かが来る方角を睨みつける。
 だが、すぐに隣の彼の様子に気づいて眉を吊りあげた。
 押し殺したような笑いをこぼしながら、黒白の着流し男は彼女を見下ろしていた。彼女の険しい視線を受けて、さらに相好を嫌らしく崩して、

「どうするんだ……? サル山の大将」
「な、あ、貴方、いま何てッ……い、言うに事欠いて……!!」
「いますぐに負けを認めるというなら見逃してやらんでもないぞ」
「だ、誰がっ、というか貴方は何をいって……!!」

 倒れ付した四匹の大猿を一瞥し、さらに奥へと目をやった彼は、相手の感情を逆なでるような意味あり気な瞳を彼女に向けた。
 彼女は目つきを鋭く細めて警戒する。なにが起きても対処できる緊迫感に身を包む。
 だが、それでも根本的なものなのか、彼からしてみれば彼女には、どこか緊張感の足りない浮世離れした空気が漂っている。彼女にはまるで見えていない。

「察しの悪いやつだな……、こんな有様になって、俺とお前だけが、こうして無事にいる。その上で考えろ。俺が現れてからたったの五分やそこらで、お前は、何をどれだけ失った?」
「……っ貴方」
「そうだ。ようやく気づいたか?」
「う、裏切ったんですか?!」
「……いつからそんな関係になったんだ」

 そんな気の抜けるやり取りをしている間に、新手は姿を見せていた。黙々と歩いてくる彼らの登場は、また何とも味気なかった。
 だが、すぐに思いを改めさせられる。
 彼らは存在するだけで生半可なものを圧倒する存在感があった。それがいるというだけで空気が硬くなり、近くに寄られるだけで圧迫感を覚える。
 自然の厳しさに生涯を揉まれてきたような風体。一片の甘さも匂わせぬ、岩石のような存在感。露わにさらした肌は赤銅色。背丈は二メートル半ばから三メートルと恐ろしく巨躯。その肉付きは人類が到達できるとは思えないほどに筋骨粒々としていた。
 総勢六人の彼らが歩んでくるさまは、まさに巨人の闊歩といえた。

「……まあ、何にせよ、取引成立か。屋台“ビックシックス”」
「ここは、治める」
「ああ。こっちの支払いは、自動的に更新するよう申請してある。何かの間違いで……、たとえ、俺が死んだとしても、もちろん無効になるようなものじゃないから安心してくれ」

 代表らしき男が軽い頷きで応えた。そして、彼らはその身も省みずに行軍を開始する。大振りの戦斧を背負い、無骨な鈍器をぶらさげて、六人の巨人は歩みを進める。
 何ものも侵さざるべからず、と言わんばかりの後光まで差しているように見えた。牙を向けるなどもってのほかで、睨みつけることすら躊躇してしまう威圧感の塊だ。

「ついてるな。どうやら俺は当たりを引いたらしい……」

 頼もしき同業の姿を見つめる黒白の彼は、数少ない当たりを引いたと満足そうに頷きながら、隣に目を向けた。彼とは違って頼もしき従卒をすべて失った彼女の姿ときたら、これまた何というか憐憫を誘う有様だ。
 サル山の大将は呆然と立ち竦んでいる。彼はその肩を軽く叩きながら、何とかしてエンペラーの面目を立たせようとしている彼女を諌めた。

「やめておけよ。北欧の先住民は、生半可な牙でどうにかなる相手じゃない」
「あ、あんなの少しばかり図体のデカイ人間です! 我が国の猛者のほうがよっぽど……って、そ、そうだ……貴方っ、敵なんですね……!!」
「今さら言ってくれるな」

 三つ編みな彼女の睨みつけを受け流した彼は、死屍累々と横たわる獣たちを一瞥した。
 そのいかにも弱っているさまを見ていると、どうしてか背筋が震えた。ぞくぞくする様な感触にくすぐられて、笑みがこぼれてしまう。
 従卒だけならまだしも、王国随一といったか。あれらとまともにぶつかり合うのは、さすがに遠慮願いたいところだった。
 だが、こんな無防備な有様であるなら話は別だ。どうとでもできる。

「あ、貴方その笑い方やめてくださいっ」
「結構な群れだと聞いていたから、こっちもそれなりの覚悟で臨んだってのに……予定が狂ったな。連中に露払いを任せて、こっちは頭を相手に時間を潰そうと思ってたんだが……これじゃ、手持ち無沙汰じゃないか」

 彼女は、彼の背をみる。彼が、残骸のもとへと足を進めているから、そういう立ち位置になっているのだ。
 彼の雰囲気があやしく揺れ動いている。その不穏すぎる空気に、彼女は牙を突きつけずにはいられなかった。

「よくわかりませんが、あ、貴方キケンです……それ以上みなさんに近づかないでください……!!」
「……よくよく考えるとなんだってそんなに低姿勢なんだかな。エンペラー何たらなんだろう? もっと、強権ふりかざして命令してみろよ」
「う、そ、それは、確かにそうなんですけど、で、でも、仕方ないじゃないですかっ! エンペラーだっていっても、わたし、そんな偉そうな生活してたわけじゃ……僻地で静かに暮らしてたところをいきなり担ぎ出されて……いろんなところを連れ回されて、みんなエンペラーエンペラー言ってついてきて……気づいたら、こんな」
「こんな……、そうか、こんなか」

 彼はあたりの残骸に目をやり、この樹海の中ではもっとも巨大な群れとなっている彼女の有様を思う。彼女自身には大した力があるようにも見えない。だが、それでもこれだけの規模に膨れ上がったのだ。

「なるほど……確かに、皇帝だ。圧倒的なカリスマだな」

 彼女を見やり、彼女の一部位である口元の偉そうな付け髭をみやる彼は、感心したかのように頷いて再び歩き出した。
 それはすさまじく自然な素振りではあったのだが、さすがに煙に巻かれるほどエンペラーは甘くはなかった。眉を怒らせた彼女は、その背めがけて牙を突き入れた。
 だが、それは威嚇といった意味をたぶんに含んだものであり、無防備に受けたところで大した問題もない程度だ。だから、一切の反応も示さずに軽く身を揺らがせる彼は、次の足を踏んだ。すぐ脇をこれまた無害そうな牙が突き抜ける。

「と、とまってください……!!」
「嫌だ。期待はずれの言うことなんか誰が聞いてやるか。そんな心構えしかないってのに、こんなに引き連れて、アレとやろうってのか……いい度胸だ。思い知らせてやる」

 ここで初めて感情をむき出しにした彼は、誰が見てもわかりやすい反応を示した。憎憎しげにエンペラーを見やって、哀れむようにまわりを睨みつけた。

「ここが、どういう場所か教えてやる。それでも目が覚めないようなら……、サル山の大将らしく、ずっと寝ぼけているといい」

 黒い羽織りを揺らしながら、彼は手を伸ばした。手中に収められる景色を鷲づかみにするようにして、一言二言呟いた。
 その言動に言い知れない不安を感じたエンペラーが動こうとするも遅かった。彼女は、その光景に目を見開いた。
 雨でも槍でも振って来い、などという戯けた呼びかけに現実が応えた。

「ちょっ――」

 あたりに降り注いでいる花びらが色と形を変える。舞っていた一枚一枚が鋭利に輝いてみせる。刃となる。それが次々と、途切れることなく降ってくる。
 間断なくドドドドドッっと。
 地面に何があろうと、お構いなしに突き立っていく。

「ぁ、貴方、何をしたぁあっ!!」

 エンペラーの叫びを聞きながす彼は、凄惨な絵図をもう一度手中に収めるようにして握りつぶした。それで、そこにあった何もかもが一瞬にして散っていった。
 桜花となって舞い広がる。それはそのまま彼女を囲うように盛大に舞い吹雪いた。それら花びらの奥底に彼女は沈みこんでいく。
 彼は埋もれていく彼女の様子をじっと見つめる。
 相手の望むべく反応は、思ったよりもすぐだった。

「ぁ――ああああアアアアアアアアアア!!」

 エンペラーが吼えた。 
 それで周囲の花弁が一斉に空へと吹き飛んでしまった。まるで、それら花弁の一つ一つとなった従卒やら家臣たちが道を譲りでもしたかのように、鮮やかな引きっぷりだった。
 散らされてこっちにも纏わりついてくる花びらを手で払いながら、黒白の彼は感心したように彼女の叫ぶ姿を見つめた。
 すごく怒っている。ちくちくと肌を刺してやまない素直な激情だ。それが彼だけに向けられていた。何というか、一途ともいっていい感情のぶつけ方だった。
 サクラの花びらをまとわせる彼は、嗤いながら嬉しそうに目を細めた。

「さて、どうしてやろうか……」

 まじまじと彼女を見つめる。
 そして、三秒後。

「……」

 まずは笑んだままの口元が引きつった。
 次いで両の瞳に、動揺の色が露わに浮かぶ。
 足が目の前の脅威から遠ざかろうと後ずさりを始める。
 先ほどとは打って変わった様子で、彼は愕然とした表情で彼女を見つめた。

「……な、何やってんだ」

 ひどく激昂している彼女の様子に、彼は今さらながら目を見開かんばかりに驚いてみせる。そして、自身の行動を振りかえって顔をゆがませた。

「なんで……せっかく当たりを引いたってのに……何してんだ、俺は……!?」

 だが、時すでに遅し。
 エンペラーはもはや止まらない。

 吹き荒れる花弁は、少しでも弱さを見せたものから喰らっていく。どれほどの猛者でも言うに及ばず、それは彼ですら例外ではなかった。
 余裕を得たからと気を緩めれば瞬く間に喰われてしまう。結末は、言うに及ばず。弄られて散っていくしかない。
 こうして彼は、決して選びはしないだろう選択肢を当然のように選んでしまった。そうして身を滅ぼそうとしている。
 花びらは肉体だけに留まらず、その心ですらも、易々と歪ませてのける。






☆ ☆ ☆







 人が住み暮らす国から、もっとも遠のいた樹海の北西。数キロにわたる一区画は、いまやただ一種の異族によって侵されていた。
 しとしと、と雨露が染み入るように溜まり、葉や茎から零れ落ちていく。水滴にも近い濃霧に包まれた森の中は、静かだった。
 しずくの零れ落ちる音が耳をつく。空恐ろしくなるほどの静寂に満たされていた。
 そのような空間で発する声は、どれだけの囁きであろうと響きわたる。

「……深き淵より出でる根か……」
「この濃密たる霧ですら浸せぬな……」
「……興味深い……」

 滴り落ちる薄霧を纏わせる青白い風体のそれらは、生者の意志を瞳に宿しながらも、幽鬼のような静けさで揺らいでいた。それらは何者にも邪魔されることなく、ゆったりと辺りを浸していた。
 まわりを溶かさんばかりの粘りつく霧がただよう。
 そんな五里霧中の空間に、彼は足を踏み入れた。

「蕾がまったく開いちゃくれねえと思ったら……お前らか、原因は」
「――」

 無造作に踏み鳴らされる足音は、囁きすら響く空間にひどい雑音となって響いた。
 霧のなかに潜んでいる誰しもが眉をしかめて、足を踏み入れた異物へと視線を向けた。そして、誰もが納得したように瞳を細めた。

「これは、ありがたい……怪異のひとつが自ら……」
「人の顔みるなり失敬な奴だ」

 這いずり回るような視線になめられた彼は、早くも顔色を引きつらせた。
 とりあえず連中の霧で湿ってしまった土なんて踏みたくないといわんばかりに、ここにある唯一の味方といえそうなサクラの大樹の根を踏んだ。そして、あたりを見渡して嫌そうに呻いた。

「これ以上なまめかしく湿った空気を漂わせるな」
「まあ……、その……、とはいえ、な……、ここは、我らの郷土で……怪異に、襲われているんだ……試させてくれてもいいだろう……?」
「おい、待て。最後おかしい。試すってなんだ試すな」

 彼らの声色すら露を含んでいるように湿って聞こえる。深い霧に包まれ、徐々に世界から切り離されていく。そんな風にして、ここを自分たちの庭にしようとしている。
 だが、そうしたあとで何をするつもりなのか。本来なら霧など発生しようがない陽気のなかで、これほどまでに広がった濃霧は異常ではあるが、それでも樹海全土を呑み込めるとは思えない。このような樹海の端っこで怪奇現象を起こしたところで、ここに訪れる大半の異族が目指している場所には到底およぶまい。

「……うっふっふ」

 得たいが知れなかった。心底、係わり合いたくなかった。
 それでも彼は、このような場に足を踏み入れている。こんなもの達と対峙していた。
 嫌な感じに湿ってきている黒白の着衣を正しながら、己の境遇をかんがみる彼はうんざりとした息をつくしかなかった。

「おい、白い息を吐き出すな、そことそこも……ああ、もう、お前は息を吐きかけんな――っていうか、いつの間にこんな傍まできた!?」

 沈み込むほどに濃い霧が漂っている。そして気づけば彼の傍らには、一味の一人が佇んでいた。
 目深くフードを被ったそいつは、彼にむかって嫌がらせのように息を吹きかける。
 あからさまな行為に顔をしかめる彼は手をはらった。
 それに応じるように寄り添っている唯一の大樹が、咲いた花びらの一枚を散らせる。そうして舞い散っていく軌跡の分だけ、一寸先も真っ白といえるような濃霧が浅く裂かれていった。
 ひらひらと彼のまわりに舞った五枚で、あたりの霧は払われる。
 まわりに佇んでいる連中の空気が緩やかにどよめいた。

「ほお……凍える夜と陽光の朝をむかえた霞みですら、……あの枯れた根は、いうに及ばず……花咲く大樹も、か……」

 一団の白い息吹は、樹海の一画をしめている。
 だが、彼らにしてみれば、それは、それだけのことでしかなかった。
 零れ落ちる露がぴちょんぴちょんと森のなかに響きわたり、生まれ出でた肉の身でしかない不浄は、純なる清水に耐え切れずに塵と化していく。
 だが、それだけなのだ。
 掻き消えるだけで何も残さない果肉など、どうでも良かった。さらに言うなら、この森そのものがどうでも良いかもしれなかった。
 彼らには、特に何かをしようという目的はない。ただ、それでもここには来なくてはならなかった。
 ここは、そういう場所だったのだから。
 水のように薄く、さらなる年月を経たことで薄弱なものになってしまった繋がりであろうとも、逆らうことはできなかった。
 そうして、今があった。このような端っこの一画で、彼らは何をするわけでもなく佇んでいた。この地に訪れるだけで精根尽き果てたのか、何かしらをやる気にもならず、じめじめと燻ぶっていたりなんかした。
 そこにきて、ようやく目をひく一つどもが彼らの琴線に触れてきたのだ。
 朽ちることも不純が混ざることもなく、ただの個であろうとする腐れ果実ども。

「芽吹いてしまった花は浸せぬどころか……こちらが渇かされる、か……ふっふ」

 世界にすら降り注ぐであろう雫でもってしても、彼らはどうにもなりはしない。それは至極残念なことではあるが、とても嬉しいことだとも思えた。
 幾星霜とこぼれる雫をかぞえ、それの作る軌跡を見つめているだけでは出会えることがない。
 心底の震えが走った。

「たまには……こうして、外にでるのも、悪くは……ない」
「うわ、な、何っ吐きかけて……っ! もう息すんじゃねえよお前らあ!」

 大樹の根元から湧き水のように、幹の窪みから零れるように、水の音が高く響きはじめる。あたり一面の霧が一層に濃さをましていく。

「何してやがる、くそ……!!」

 もはや叫びすらもつゆとなって響かず、一帯は霧のなかに深く沈みこんでいった。






☆ ☆ ☆






 樹海の北に位置する区画は、近隣がどうであろうとこれまた我を突き通す一団で占められていた。
 景色が捻られるように歪んでは、色や形を変えていく。一切合財を染め上げんとする花弁ですらも、その空間の歪みの前には景色を彩るだけの花びらでしかなかった。
 それら景色の中を、ぽつぽつと前後左右、歩幅十歩分の距離を保ちながら、一団は歩いていく。みな一様に無感動そうであり、その瞳には意志らしい意志が窺えない。
 その一団の中心だけが、唯一、目的らしい目的を思わせる光を瞳に宿していた。
 頭頂部の両脇より垂れ下がるように突き出た大角は、周囲のものと比べて小さくはあったが、艶やかで精彩に富んでいる。その艶を撫でるのは、小柄な手のひらだ。暗灰色の長い髪に全身をくるまれている小柄な少女は、あたりを一瞥して、その中の一つに目をとどめてため息らしき息をついた。

「往く道、踏みしめた道程、辿りつくべき場所……なんともまあ、居心地のいい空気で。まいった。これじゃあ荒野と大した違いがないじゃないか……」

 一歩一歩の足取りを重く踏みしめる一団は、どのような闖入にも動じることなく歩幅を緩めない。すぐに異変に気づくも、無視も同然に歩みを進める。なんだか空気が変わったな、と思うだけだ。
 だから、いつの間にか併走するように歩いている彼に気づいても、視線を投げるに留めて放っている始末だった。
 そんな一団のなかにあって、ようやく目につく反応を示した少女。
 ようやく声をかける切欠をつかめたと、彼は安堵したように息をついた。

「むしろ住処といえるぶんだけ荒野のほうがマシじゃないか。何といっても、ここはアレが根付いてる土地だぞ。今のここよりタチ悪いとこなんざ、この地上にそうはない」

 樹海のなかでありながら、もっとも際立つ緑の景色は色あせていた。樹海の様相は、我の強い色によって様変わりしている。

「数百年ぶりの懐かしき郷土で墓参でも一つ、と……せっかく愁傷な態度でのぞんだというのに台無しだ……」
「出直したほうがいいな。ここが静かになってから思う存分にするといい」

 荒野を匂わせる風が吹き、その中にあって満開のサクラは舞い散った。彼の纏っている空気と、一団の醸しだす空気は決して交わることなく、一つの場所を奪い合うように反発し合う。
 一団の瞳は、そういう彼の姿をあまねく呑みこんで追った。桜の中に溶けて消えてしまいそうな儚い存在だろうと見失うことはない。
 そして、それは彼も同じだ。向けられる希薄な瞳の群の中から、たった一つだけの光を抜き出して追った。
 林立する木々の合間に見え隠れする彼と、唯一の意志ある視線は、正確に相手を見てとって細められた。
 一団の中心は、初めて己を誇示するような笑みを浮かべた。

「ふむ、うわべだけなら幾らでも持っていってもらっていいが……、みなの手から、ここにある全てが零れるというなら話は別だ。のうのうとしていたら、とても、酷いことになる」
「どうなるんだ?」

 あくまでも彼は気楽に言う。暗く沈みこんでいた静寂が少しずつ乱されていく。
 それでも気にした素振りを見せずに、どうとでもしてくれという風情の少女だったが、その質問に対してだけは幾ばくか力をいれて答えた。

「はるか荒野の隅っこで寝ぼけていた一同ですら、ここに駆けつけた。数百年と流れて風化したはずの血ですら、ここの事態に気づかされてしまったんだ」
「……なんだか自分の意思で、ここに来たわけじゃないと言いたげだな」

 少しばかり険を混じらせた視線を投げる彼に、彼女は不思議そうな瞳を向けた。それでも彼には問いかけることなく頷いた。

「わたしたちの血は、ここを忘れない。それどころか、いつでも……、今ですら、今よりも、深く、繋がろうとしている」

 そうして、地面に視線を落とした少女は、表情を僅かにくずした。笑みをいくぶん自嘲気味なものに変えて、乾いた言葉を吐き出した。

「ここには、百と異なる我らを率いた王が眠っている。わたしたちは、忘れない……しかし、それをこうもあからさまに実感させられると、な」
「おい、優雅に引きこもってるところを無理やり連れ出された子羊みたいな、そんな顔を、今ここで晒さないでくれないか。萎える」

 言葉以上に辛らつな視線で物言う彼に、少女は軽く肩をすくめた。彼の言葉には応えない。

「どれだけのときが過ぎようと、わたしたちは一蓮托生らしい」

 生まれてこのかた踏んだこともない郷土の土を初めて踏んだときに、そう思った。
 得たいの知れない情動が身体を震わせる。あまりにも強烈な感情の昂ぶりに怖気すら覚えてしまう。一団にとっては、これほどまでの強い思いを沸き立たせるだけのものが、己のうちに埋まっていたのかと、他人事のように思うことでしか対処することができなかった。
 ともすれば外に吐き出してしまいそうになる。

「万が一にも塚穴を暴かれたら……なんて想像するだけでも、どうにかなりそうで気が滅入る。感情が煮え立つことは間違いない。おそらく正気は失われる。二度と治まることがないかもしれない」

 その結果がどうなるかは、考えるまでもない。
 狂い獣だ。
 鼓動があり、血潮は熱く、肉が強靭に胎動しようと、それが生きていることには繋がらない狂いになるのだ。
 もって生まれた肉のすべてが削げ落ちたら壊れる在り方に成り下がる。浅ましいケダモノになってしまう。それは死ぬことよりも遥かに恐ろしかった。

「わたしたちは失われる」

 移ろいゆくときの中を、移ろわざる荒野で生きた。砂塵に吹かれ、太陽に焼かれ、僅かな霞を糧に、果ての見えない朽ちた大地に佇んでいた。
 永劫を友にできる肉体ですら、いずれは喰らい尽くすであろう荒野の果てで、彼らは生きてきた。
 一族郎党、みな、等しく待っていたのだ。
 長い年月を待っていた。
 何も変わらない地では気づけなかったが、ここに至るまでの道中、見上げた夜空、果てある大地、そして、この地に満ちていたはずの空気から、そのことを実感することができた。
 数百年と年月は経っていたのだ。
 それだけの年月を、彼らは過去に捧げていた。
 そして、その全てが、今この時にも、

「みな、等しく、全てを失う」

 一夜の夢のごとく消えようとしている。

「だから、わたしは、ここにいる……何もない荒野で佇んでいた一族郎党、みな、ここにいるんだ」
「……ご大層な文献付きの引きこもりが、今さら姿を現した理由がそれか? そんなに大事だってんなら終始一貫、最後まで尽くせよ」
「言われるまでもない。しかし……」

 少しだけむっとした声で答える少女だったが、ふっと、感情らしき笑みを浮かべて首を横に振った。
 彼女は気を取り直すように息をつく。そして、改めてあたりを見渡すと、彼をじっと見つめた。その暗い瞳に意味ありげな色を浮かべた。

「我々を僅かなりとも理解している上で……そこにいるのだな」
「ようやっと興味をもってくれたか」
「だとしたら、無碍にするのも礼に反するか」
「尽くしたいというなら歓迎するぞ。少し付き合ってくれ。できることなら……、終わりまで」

 その言葉に、少女は先ほどよりも一層に興味深い瞳で彼を見つめた。この地の長が好んで着るという装いの彼に満遍なく視線を流して、憎たらしいようにも切ないようにも思える顔色で嘆息した。

「老い先短いにもほどがあろうに、なおも生き急ぐのか。一週間ぐらいゆっくりしていたらいいものを……。その頃には何もかもが終わっているぞ」

 その言葉に、今度は彼が顔色を変えた。真っ青とも真っ白とも、どちらにしろ顔色悪いねとしかいわれないような顔つきで、彼女をにらみつけた。

「ふん、分かってはいたが、どうやらマジで貧乏くじを引いちまったらしい……ついてないな……」

 少女の彼を見やる瞳に剣呑な色が浮かび始めていた。それに触発されるかのようにやる気のなさそうな一団の目つきも変わる。
 それと対する彼の瞳は、さらに劇的に豹変した。

「だからって、泣き言はなしだ。付き合ってもらうぞ」
「付き合いきれないよ、おまえも。……わたしたちには」
「羨ましいったらないな。それならなお更だ。是が非でも一夜ぐらいは譲ってもらわないと。……不公平に過ぎるってもんだ」

 暗灰色に包まれた少女から覗くわずかな瞳の光を見つめる彼は、にやりと笑って一歩を近づいた。
 淡い花弁が吹雪く。それだけ華やかになり、それだけ色が荒れ果てていく。

「まあ、構いはしないが……それでいいのか?」
「良いも悪いもない。ただ、少しでも余計なことを考えずにいられる分だけマシってだけで」
「そうか」
「だから、付き合え。本気でいかせてやるから」
「それは……、少したのしみだ」

 何せ生まれてから一度も本気でいったことがないのだからと、そう言って、少女は両に垂れ下がる大角に手をあてた。
 憎たらしく思ってやるべきか憐れんでやるべきかと、そう呟いて、彼は傍に寄り添うようにある桜の大樹に手をあてた。






☆ ☆ ☆






 南の外周部のとある地点にある数少ない休息所。そこから真っ直ぐに辿れる道筋は、抑えられれば致命的ともいっていい旅路が続いており、前線には猛者の面々が惜しげもなく配備されている。念には念を入れて、休息所と呼べる場所にすらいざと言うときのための数少ない強者が配置されていた。
 最後の防衛線ともいうべき場所に居座るのは、この地に集った冒険屋の中でも粒ぞろいで構成される屋台。玄人勢で構成されるもっともお近づきになりたくないグループだった。
 だが、そうであるがゆえに最後の局面に置いておける。ダムが決壊したとしても押し流されることなく、濁流すらも遮る防波堤になりうる頼もしい人材といえよう。
 あとは扱いさえ間違えなければ、万事うまく事を運べる手はずだった。

「……気配りさえ怠らなければ、しばらくは、問題ないと思っていたんだがな……」

 彼らが我の強い非常識人であるということを忘れてはいけなかった。彼らとの付き合いは、なあなあで済まされることは決してない。常に真正面からぶち当たる事でしか成立しない。小賢しい絡め手は、状況を悪化させるだけの悪手だった。

「……にしても、まさかついて早々とはな。いくなんでもひどいと思うぞ」

 そう呻いた彼は、滅茶苦茶に千切れかけている黒い羽織りを何とか整えながら、目一杯の眼力でもって目の前の存在を睨みすえた。
 それは生理的嫌悪感をぞんぶんに抱かせる血走った眼つきで、荒い息を際限なく吐き出していた。
 人として大事な何かを心底どうでもいい何かと引き換えてしまった逸脱者。
 それは、とどまざるもの。暴君だ。

「こーほー……こーほー……」

 ひどく興奮した様の男は、筋肉質の一歩手前という無駄をそぎ落とした裸体をこれでもかと見せ付けていた。
 それは見た目だけ言うなら文句の付け所のない美丈夫であった。身体の隅々は言うに及ばず、目鼻口と細かい点に至るまでなんら欠点の見受けられないパーフェクトな美丈夫だった。
 それが絶え絶えになるほど荒い息遣いで、ざんばら髪をかき乱し、これ以上はないというほど美しく粗野に構えながら、真摯に彼を見つめているのだ。

「……こええ」

 それはひどく怖気の走る光景だった。
 これまで味わったことのない恐怖を感じる彼は、身体の震えが抑えられなかった。乱れかけている羽織りを掻き抱いて心の底から呪うように言葉を吐く。

「おい、これは……何の真似だ……? 話が違う」

 彼は息の荒い変態を無視して、それの背後に我関せずと控えている面々の一人を睨みつけた。
 そんな彼に対する反応はひどく冷たかった。いかにも腹立たしいといわんばかりの毒々しい声が投げられる。

「わらわに約束どおり振舞えとぬかすか……、つまらん謀を企てた分際で……、一方的に押し付けようというのだな、貴様は……?」

 それは鈴の音のように高く澄んで響くので、思っていた毒々しい効果を相手にぶつけることはできないだろう。それでも気分を害されたと言わん事はわかるので、彼は刺激しないように落ち着いて言葉を返した。

「何を言ってる? 約束なら」
「言葉には責任が伴うことを忘れるでないぞ。その舌、喉もとに縫いつけられたいか」
「……嫌だ」

 少女が片眉をぴくりと痙攣させるのが見えた。やけに豪奢なドレスが乱れるのも構わずに片方の袖を握り締めるのも見えた。そして、鬼気迫る瞳が輝いたところまで見届けた彼は、早くも避けられぬ事態に入りつつあることを察していろいろと諦めた。

「このような話を耳にした覚えはない。ここは、わらわの与り知らぬ舞台よ」
「いや待て。こんな風になることは前もって言っておいたはずだが」
「白々しいことを……背景のことを言っておるのではない」

 まさに金髪のお嬢様である少女は、暴君な変態など顧みることなく進み出た。その装いは、荒事を想定して裾など短く細工されてはいるが場違いだった。色鮮やかさという点で明らかに浮いている。
 それでも、このような場こそが、その少女には相応しいのだ。それと相対する彼は、そのことを嫌というほど思い知らされている。
 軽くうぇーぶのかかった金色の髪をたなびかせながら、少女は、彼を睨みつけた。

「傍に控えているといったが……貴様、どこにいる」
「……よし、悪かった。せめて手を出さずに見守ってくれ」
「ふん」

 突き刺さんばかりの眼つきが、彼女のすべてを物語っている。これ以上はまずいと察した彼は、いまこの場に平然と佇んでいられる少女に畏敬の念を示して、頭をたれるしかなかった。両の手をあげて降参のポーズをとるしかない。
 そんな彼を慰めるように、少女のすぐ背後に控えている娘がすっと進み出てきた。出すぎた真似を詫びるように隣のお嬢様へこうべをたれながら、彼の耳にそっと囁いた。

「ご安心下さいませ……損傷と責苦はお引き受けいたします……。どうぞ、如何様にも、狂態を晒してくださいませ……」

 彼女の発する声色は、まるで聖女のごとく自愛に満ち溢れ、耳にしたものすべてを安らぎの園に強制的に連れ込まんとする。
 だが、何故だろう。まったくもって救ってくれる気がしない。むしろ彼女が出てきたことで傷口が広がってしまうような気がしてならなかった。
 まるで底のうかがえない黒い瞳は、見つめる対象を呑みこまんとする蠱惑的な輝きに満ちていた。甲斐甲斐しい言葉や素振りとは裏腹に、これから起ころうとしていることに心を奪われてうっとりとしているように見えた。
 慈愛の囁きの中には、背筋の震えるような甘い吐息が含まれている。それを感じ取れた彼にとっては、彼女もまた救いにはなり得なかった。
 むしろ美丈夫のように目に見えない分だけ性質が悪い、

「こーほー……こーほー……」

 と、いつの間にか金髪のお嬢様の隣で、鼻息荒く彼を凝視する変態一人。

「……」
 やはり視覚的な毒がないことや、未知の恐怖を抱かせない分だけマシだと思い直して、彼は彼女の囁きに応えた。

「……そこに心のケアも含まれているんだろうな?」
「……どれほど分かち合えても……」

 まるで聖女と見間違わんばかりの白い修道服姿の彼女は、敬虔な信徒のごとき振舞ってみせた。フードの隙間からはらりと零れてくるカラスの濡れ羽色の長い髪に、思わず目を奪われそうになってしまう。
 しかしながら、彼女もまたアウトなのだ。厳かではあるが奇妙な澱みをたたえる瞳に見つめられているだけで、彼の身体は真から震えてきてしまう。美丈夫とは逆ベクトルではあるが、それはそれで非常に不味いような気配が濃厚だった。

「そのココロだけは……永久に不可侵でありますように……」

 祈るように手を組んだ聖女の祈りは、はたしてどんな偶像に対して捧げられているのだろうか。
 彼は一瞬だけ考え込み、彼女の黒い瞳が妖しく揺れ動いていることに気づいて、慌てて視線を逸らした。
 そして、金髪嬢の背後に控えている最後の一人が、心地よい低音の笑い声をオブラートに響かせた。

「はっはっは、まこと聖女殿は慈悲深き御方です。その祈りに我輩も便乗させて頂くとしましょう。……未知なる境地にいかんとする盟友が救われんことを……」

 上品なちょび髭とあご髭を蓄えた壮年の男は、洒落っ気のある片眼鏡をちょいっとずらして、口元に柔和な笑みをたたえた。上から下まで一貫して整った身なりの偉丈夫は、高貴な方々がお召しになりそうな装いで、何というか男爵だった。
 微笑んでいる男爵のまったくもって敬虔の心が感じられない祈りにどれだけの効果があるのだろうか。しかも得体の知れないものに無責任に人の救済をゆだねる時点で、彼もまた敵に値する。
 しかし、彼の人を殺しそうな一瞥を受けても、男爵は変わらぬ笑みを口にたたえる。むしろ何かを任されたと言わんばかりに頷いてみせた。

「ご安心召され、我が友よ。お嬢様はいうに及ばず……、我輩の手の及ぶ限り、育つ日が来るまで見守らせて頂きましょう……あの幼子たちを……」
「……おい、なんだか俺がなくなった後のことをぬかしてるような気がするんだが。とことん救う気ねえなお前ら」
「何をそのような弱気なこと……!! 友よ。思い浮かべるが宜しいでしょう」

 口元に柔和で温和な微笑をたたえるう男爵は、ダンディズム満載の人畜無害っぷりで口を開いた。

「紅姉妹の仲睦まじさ、鎖紡ぎのレディっぷり、金毛九尾の付き人たるネコ耳が魅せる甲斐甲斐しさ、犬猿な蒼と茶の初々しさ、ヤマネコ亭の無邪気な看板娘、公園で遊んでる純真無垢なる繭たん、おっと、白兎の永遠の十三歳女将も外せませんな、はっはっは、ほかにも支部の待合、街中の道すがら、すれ違うだけの名も知れぬ幼子たち……まだまだ目に入らぬ妖精たち……共に見守りましょう。育ちきってしまうまでの短いときを……はっはっは」

 変態だ。生まれながらの聖人君子のような表情で、男爵もまた変態宣言を口にしてくる変態だった。
 悟りきった表情の彼は、冷静に男爵の言動から言葉を拾い集めてやるに留める。一欠けらの感情をぶつけることで容易に生じてしまう繋がりすら避けねばならない輩しか、ここにはいなかった。
 いちいち反応していたら、数秒で汚染されてしまう。
 そんな奴らがおとなしく言うことを聞かなくなったときにどうすればいいか、今の彼には思いつかなかった。対処法などあるわけがないように思える。

「……失敗だ」

 そう簡単に死なない逸脱者を求めるあまり精神と肉体のバランスを考慮しなさ過ぎたと、今さら後悔するのも馬鹿らしい。
 ようは、この場所を誰も何もが通れなくなれば良いだけの話なのだ。もういいや、と彼は開き直るしかなかった。

「一つだけ気になったから忠告してやる……お前、そんなこと絶対に沢渡の姐さんの前でいうなよ」
「彼女は素晴らしいですな。あの年齢に達してなお、我輩の興味を引くとは……いずれ時を見て、表彰する場を設けねばなりませんでしょう、我が友よ」
「……しんでしまえ」
「はっはっは、我輩の骨を拾ってくれると言うのですな。有難く承りましょう。これで後顧のうれいも気にせず動けるというもの。やはり持つべきものは心の盟友ですな」

 そして、男爵もまた金髪嬢のとなりに並んでずいっと手を差しだしてきた。
 それに目もくれない彼は、自分とかかわる壁の内人には百メートル以内に近づくなと、相手の身体に植えつけるような視線をくれてやった。
 だが、それは目標に何ら効果を発揮せず、むしろ別の第三者に対して効果があった。

「……いつまで見詰め合ってる。許せん!!」

 第一の変態が怒り出した。

「……そろそろ、なのでしょうか……」
「はっはっは」

 それに次いで聖女が澄んだ瞳を妖しく輝かせ、男爵はやたらと心地よい低音で笑い声をあげた。

「ふん……」

 そして、そんな変態たちが横に並んでいるのにまるで気にした様子もみせない金髪嬢は、彼だけに憎憎しいといわんばかりの瞳を向けて鼻を鳴らした。刺し貫ける眼つきで、彼を睨み据えたのだ。
 彼は気づけた。

「……こいつは」

 黒い点が目についた。米粒ほどもない微細な四つの黒い点が、彼のみつめる景色に生まれた。
 そこに何かあるとわかったうえで、目を凝らさないと気づけないほどに小さな点だ。
 目の前の異常な連中にそなえて臨戦態勢一歩間近まで身体の調子を整えていたから、彼はなんとかそれに気づくことができた。
 次いで、それが針の先のような形状をしていると理解するまで半秒、

「お嬢! やつは俺の――」

 それがまるで空間の裂け目から取り出されるように、伸びてきていることに気づくまで半秒、

「まぁ、公爵様……」
「御嬢様の御手にかかるのは、これで何度目でしたか……羨ましい。妬ましいですな、はっは」

 そして、それが鋼鉄の意志をもっていると思い知らされるのは、次の瞬間。

「――ッ」

 黒鉄色を光らせて、一メートル超過の串は貫かんと突きだされた。
 金髪嬢はふんと鼻を鳴らす。つと、口元を緩めて笑う。

「そうでなくては」

 避ける暇などなかったというに、それでも彼は逃げていた。貫かれる寸前で、横に身を投げる。そして、かたむいた体勢を立てなおす暇があるか一寸考える彼は、眉をしかめた。
 その肩に引っかける羽織りを貫いている四本の鋼の串が、黒い霧となって散るのが見えた。動きを制限するだろう引っ掛かりがなくなったのは幸いだ。
 だからといって彼に余裕が与えられたわけではない。その散りゆく黒いかすみの中に、先ほどと同様の微細な点をみる。
 顔色をかえる彼に、お嬢様は傲岸に笑んでみせた。

「増やした。……だからといって、ぶざまに縫い付けられては興をそぐ。抗え」
「無茶をいう……」

 針の先のように小さな黒点は、数え切れぬほど見てとれた。瞬間ごとにおびただしい矛先が縦横無尽に突きでてきた。
 崩れた姿勢のまま鋭く側転にうつる彼の身体のいたる部位を鋼の串が撫でつける。一挙一動のたびに遅れて舞う髪の幾本、羽織りの一部が貫かれて散っていく。
 幾本も、幾十本も、黒いかすみから鋼の串が生まれる。そして、瞬く間に百をこえた。
 それでも彼は、身をひねらせながら一突き、二突き、三突きと繰り出される串の合間を飛びすさる。一足の踏みだしで貫かれる寸前の場所から身をなげる。先の地面に同じような黒点が生まれつつあっても、ためらわずに踏みだして逃げる。だからこそ、彼は貫かれなかった。
 直線距離にして三十メートルの広場は、いまや大小さまざまな黒鉄色の串で埋め尽くされている。生まれてはすぐに失せるというのにだ。
 一瞬の瞬きで刺し貫かんとする串が無造作に三十と増える。
 その最中を、彼は飛び退るように駆け抜けた。

「ちくしょう、いつか絶対に悪霊ともども払ってやる――」

 緩急をつけて串の一本一本から身を遠ざける彼は、悪態をつくように呟いた。
 それを聞きとがめたのか、突き立った黒鉄色の串の中心でゆうゆうとしている金髪お嬢様は、かわいらしく眉をしかめた。その彼女の背後には、どんよりとした濃い黒色のかすみが漂っている。

「無礼な。御先祖様ぞ。敬意を払わんか」
「先祖だか何だか知らんが……忌々しい形容しやがって……」
「ん……? 貴様……、なかなか良い目つきになってきた」

 その黒いかすみは、その失せていく様が少しだけアレを髣髴とさせた。ただ、それだけのことではある。
 だが、彼にしてみれば、それだけで十分だった。それを睨みつける彼の瞳には、いつしか本気で険悪な色が浮かびはじめる。命からがらの状況におかれているせいで、抑制する理性はうまく働いてくれなかった。
 このままでは潰れてしまう。しかしながら、このままでは終われるわけがなかった。
 金髪お嬢様をはじめ、その傍に仕える変態三銃士は、まだまだ健在だ。
 もてあそばれたままでいい筈がない。
 彼は思考を一瞬だけでもクリアにして、生まれてから、これまでの記憶を反芻する。そして、苦いものでも吐き出すように深い息をついた。

「陰惨な記録を……とも思いはしたが、先ずは俺が受けないといけないわけで……」

 彼は股ぐらから刺しだしてくるとんでもない串を仰け反るようにして避ける。そのまま地を蹴りつけて後転。斜め下と上から繰り出される串に気づいて一回半ひねりを加えて身を撫でられるだけにすませる。そして、片方の足が地についたら体勢を立て直すことなく、その場から飛び退る。
 遅れて一瞬後、その場は全方位から刺しだされる黒鉄色の串で埋まった。
 一歩間違えば串刺しなんてレベルじゃない光景に、彼は呻きながら首を横に振った。

「どうせ長くない……とはいっても、最後まで悲惨ってのもな……」

 深く考える時間はない。逃げることに意識を向けて徹することで、彼はいま何とかなっている。だから駆けることができている。
 今はもう呟くことしかできない。意識してできることはそれだけだ。そして、まるで彼にはそれしか残っていないと言うように、一枚のサクラの花びらがひらひらと眼前を過ぎた。
 この黒いかすみと並び立つ串の中、彼は変わらずに舞っているもう一つの色彩を目にした。
 それで改めて思い知らされる。呟くしかなかった。もとより選択肢などないに等しいのだ。
 数多の串が整然と立ち並んだ道に、彼は身を削られていく。
 その弱った獲物を真摯に狙う暴君一人。
 ぞくぞくしている聖女一人。
 生暖かい眼差しで微笑んでいる男爵一人。
 そして、それらを従える圧倒的なまでのお嬢様が一人。
 黒鉄色の鋼に三者三様の変態ども。

「……あんまりだ。厄日にもほどがある」

 こんなのに迫られて、いつまでも普通で通せるわけがなかった。どう足掻いたところで行き詰る。致し方ないだろう。
 普通でなくなる代償がどれほどのものかは、最悪なことに身をもって理解している。だからこそ、今ならうまく避けて回れる。
 失っていくことには変わりないだろうが、思い知らせるだけのおかしさは意識して保てる。

「……ふむ」

 おかしくなることは、決定しているらしい。それでも躊躇っていられるほどに、ここは優しい場所じゃなかった。
 ここは、人生の終着点に等しい。選択肢はなかった。
 だから彼は、彼でなくなったときの囁きを口にする。
 イントネーションは同じく、しかし意味する一文字一文字を変えて、明確な意志をのせて呟いた。
 身体の奥底からしぼりだした吐息と、脳髄の奥底から語りかける熱っぽさと、世界に喧嘩を売れるだけの想いでもって、彼は語りかけた。

「夜重」

 その一言で、満開に花吹雪く花弁を起点として、あたりの景色が夜を幾十にも重ねたような陰りに包まれた。
 黒鉄色と似通った夜の色だが、ともに異色である。互いの色は、互いの色に交わることなく浮き彫りになる。その夜の中では、微細な黒点ですらよく映えた。

「八画」

 その一言で、駆ける彼の姿がぶれるように震える。その姿は次の一足で八方に分かたれた。
 彼ら一人ひとりの瞳には、希薄ながら明確な意志が見受けられる。刺し貫くべき対象を誤らない鋼の意志ですら、分かたれた誰に対しても黒鉄色の串を刺しだしてしまうほどに。

「矢絵」

 その一言で、指先を走らせて描いた一矢の絵が消えずに連なっていく。サクラの枝先を尖らせた粗末な、しかしながら確かな鋭さを備える矢じりが展開されていく。
 全ては一瞬だ。黒鉄色の鋼が百と突きだされる一瞬の最中で、全ては実行に移された。
 その今までにない彼の動きに、これまで感ずることのなかった死中を察して、金髪嬢の従士は三者三様に顔色を変えた。
 だが、遅い。
 ほどなくして、サクラ色の淡い一輪をそえた一矢は追いついた。八に分かたれた彼らの描く一矢は、百越えてなお増え続ける黒鉄色を越えるほどに描かれた。
 何をしようと今さらだ。
 七つの影と、一つの彼は、呟いた。

「……八重」

 そして、すべては八つに重なった。
 サクラ色が咲き乱れた。

「がああああああああああ!!」
「はっはっは、すばらしい!!」

 暴君と男爵が身を盾にするように前に出る。
 聖女が我が身を省みることなく祈りをささげる。
 そして、金髪嬢は、惚けた瞳で彼を一瞬見つめた。

「そうか……、貴様、偶像ではあるが、根本的には」

 彼の生み出した全ての要素が八つに重なり、黒鉄色は完全に塗りつぶされてしまった。
 しかし、そのことは金髪嬢にとっては、然したる問題でもない。それよりも彼だった。彼の姿を睨みつけながらも、彼女は眉根をよせて僅かに表情を曇らせた。
 だが、それもわずか。
 一瞬にして千にも届かんばかりに膨れ上がった一矢の群と、さらに六十三と分かたれた一人の彼の視線に応じるように金髪嬢は口元をゆがめる。
 そこに生まれながらの風格を刻んでみせた。

「ふん……相手をしてやる。来るがよい」

 六十三の影と、一の彼は、再び指で一矢を描きはじめる。
 金髪嬢の背後から黒いかすみが噴き出した。鋼の意志をのせた串刺しの一槍が全面展開される。
 この地に出向いた冒険屋の中で、もっとも人の路線から外れている屋台“ツェペシュ”の一味は、桜花の化身とぶつかりあう。
 余波は盛大にばらまかれた。






☆ ☆ ☆






 樹海の東区画の外周部。五分も歩けば森が途切れて平野となる。そのような樹海の端っこですら、いまやサクラの花で埋め尽くされようとしていた。
 生き生きと舞っている花びらを睨みつけながら、彼は暗澹たるため息をついた。

「……馬鹿どもが……マジでいきやがって……」

 あたりに舞っているサクラは、色鮮やかな彩りをましていく。ここいら一帯は、すでに満開に咲き誇る花びらに包まれていた。薄紅色の淡い五枚の花びらは、見事に咲ききっている。
 人を吸って華やぐ化生の花だ。

「もうだいぶ呑み込んだってのに留まる気配はこれっぽっちもなし……本命を喰わせんことには、どうにもならんか」

 苦々しく笑って、彼は、ふたたび辺りの景色を眺めるように見やった。花見酒の一つでもあれば鬱々とした気分も紛らわせるのだがと思いつつ、どうしようもない今にため息がこぼれてしまう。
 だが、そんな物思いを霧散させるような怒声が響きわたった。

「おうこらぁ!! どういうこったぁ!? ぁあ!?」

 樹木の一本に背をつけながら手持ち無沙汰な手で花をもてあそんでいた彼は、その声の主にうんざりとした顔を向けた。奴に対して、このような顔を向けるのは、これで何度目になるだろうか。
 樹海の外にいたはずの男は、荒々しく草木を踏み鳴らしてずかずかと乗り込んできた。
 ここは広場でもなんでもなく、うっそうと茂った草木に埋もれた場所だというに、どうやって自分を嗅ぎ当てたんだと、彼は苦笑しながら、それでも刺々しい視線を奴に向けた。

「いきなり怒鳴り込んできたかと思えば騒々しい奴だな。誰のおかげでピンピンしてられると思ってる」
「半分だ! 踏み込んでそっこー半分いなくなった!! てめえ、あいつらをどこにやった!?」
「……病み上がりは、あの岩場で大人しくしていろと言わなかったか? 守らなかったお前らが悪い」
「うるっせえ!! 俺の兄弟を返しやがれええええぇ!!」

 屋台“漢魂”の南は、吼えたけり地を蹴る。完全復活した胸毛を華々しくさらけ出して、のんきに座り込んでいる黒い羽織りと白い装束の彼へと突撃する。
 その顔つきは、周囲の光景とはずいぶん似つかわしくない険しい表情だった。今回は遊び心は皆無であるらしく、全力の一撃でしとめる気らしい。
 それが正解だ。この空気を感にさわるものと捉える南は、何だかんだいっても変態という名の玄人だった。

「そのとぅーりだあ!! 耳そろえてキチンと返せぇえ!!」

 そして、もう一つの厄介な種が増えた。近場に配置したのが不味かったのか、二匹目も引き寄せられるように来てしまった。草木をリズミカルに踏み鳴らす音が別の方角から響いてきた。
 鬱蒼としげっている枝葉にひっちゃかめっちゃかかき乱されそうな装いの男だ。二の腕までのビラビラした衣装やら、そのモジャモジャ爆発ヘアー。
 一方はどすんどすんと、一方はタンタタンッと駆けてくる。標的は一緒だ。両者はすぐに互いの姿を見てとって、驚いたように声を張り上げた。

「その頭……お、おお!? お、おめえ、南森!?」
「雄雄しき胸元……おまえか、南!? ずいぶんと久しいなぁ」

 一瞬だけ胡散臭そうに睨みあったように見えたが、それは彼の胸の内に収めておいた。
 両者は駆ける足をとめると、満面の笑顔を向けあった。

「おいおい、あんだよ、タマを半分ほど千切られたって耳にしてたが、調子よさそうじゃねえか」
「おまえこそ。魂を引っこ抜かれて、危篤状態に陥ったと聞いてたぞ。元気そうで何よりだ」

 相変わらずいかしたヘアーだぜと、目線で互いの部位をたたえあう両者は気色悪かった。そんなのに迫られている彼は、心底たまったもんじゃなかった。

「……しかしなんだっておめえ、こんなところに?」
「おまえこそどうした? こんなところで」
「チッ、どこのどいつにかどわかされたか、兄弟たちがいなくなっちまってなぁ……」
「奇遇だな。俺のソウルなブラザーも攫われちまったらしい……、おかげで見ろ。演奏の一つもありはしねえ。寂しい具合だ」

 会話をしている間にも、いちいち胸元をはだけ、もさっとしたヘアーを撫で付けながら、見め醜悪な両者は互いに満更でもなさそうに視線で称えあっている。見てるだけで吐き気がこみ上げてくる。
 互いの神々しい点を称えあいながら久方ぶりの親交を深める両者は、すごく気色悪かった。
 そんなのが迫ってきているのだ。
 おもむろに立ち上がった彼は、うちの白い装束を正し、黒い羽織りを肩にかけなおして、考えを改めなおした。

「なるほど、これだけのもんに迫られたとあっちゃ……そりゃマジでいくしかないわけだ」

 ギンッと目つきを凶悪に吊り上げた二人に対して、目一杯の脱力感を漂わせながらも、彼は構えた。両者は阿吽の呼吸で飛んでくる。

「シィィィィねやああァ!!」
「いぃぃやっほうううぅ!!」

 彼は毛の化身とぶつかり合う。
 余波は、それほどでもないが、一応はあった。






☆ ☆ ☆






 西南区画では猿っぽいのが翼もないのに盛大に飛んでいる。北西区画は雲のような霧に包まれている。北区画では荒れ果てようとしながら華やかんとする風が吹いている。南区画は大部分が黒鉄色とサクラ色の尖った得体の知れない代物によって覆い尽くされようとしている。ほか各所からも異様な現象が目に見えるほどに起こっていた。
 なかでも目立っているのは、どこにでもあるサクラの鮮やかな色だ。それは、花さか爺さんがごとく勢いであたり一帯を芽吹かせていた。
 そのような風景が、樹海の真上からはよく見えた。

「あーあ……、嫌な空だ……」

 風を切る音が心地よく耳をうつ。眼下には色彩豊かな森が延々と続いている。そして、満天の空を仰いでみれば、そこには吸い込まれそうになるぐらいの青空が広がっていた。
 空駆ける少女は、それらを仰向けで垣間見て、しかし、暗鬱な息をつかずにはいられなかった。
 風景の良し悪しなんぞは、言ってみれば個々人の心の持ちようでころころと色を変えてしまうものだ。客観的に見て良い眺めだといえても、今このときの少女の瞳にうつったものは、どれもこれもが暗く濁って見えた。

「ああ、嫌だ嫌だ……こんなトコロがふるさとだって……? なんだよ、これ! ろくでもないったらありゃしない!!」

 その原因がなんであるかはいうまでもない。何をしても最悪だと思わせる要因があるからに他ならなかった。
 そいつは肌が触れ合うほどの傍に憑いていた。そして、無神経な言葉を彼女の耳に届ける。

「そうだろそうだろ。こんなところじゃ邪魔が入るばかりでせっかくの青空も満喫できない」
「――お前がいうなぁ!! お前だ、お前がいるから最悪なんだって!!」

 少女は靴の裏にくっついた泥でも払うようにぶんぶんと足を振りたくる。
 だが、それは小癪に動き回ってはさらに引っ付いてくる。決して振り払われぬように巧みに小さな土台を立ち回った。
 彼女という小さな舞台の上でだ。

「人の足にぶら下がるなぁっ、ていうか人の身体で曲芸するなぁ!! はーやーく離れろお!!」
「なんだ、つれないな。いいじゃないか。このまま全部おわるまで俺と遊覧飛行と行こう」

 景色は見る見ると後方に流れていく。直径にして六十キロにわたる緑の敷地ではあるが、そのお終いに辿りつくまでの時間は半刻にも満たなかった。それほどまでに空を流れる風は早かった。

「……むろん、お前が連れてきた怪鳥やら怪獣も続かせろ。森に下ろしたらタダじゃ済まさんぞ」
「な、なんだよお前、いきなり森から飛んできやがって……引っ付いてばかりでどうしようってんだ、この助べえ!!」
「はは、身の危険を感じたのなら、……俺の言うとおりにした方がいいな」
「ひゃっ……」

 彼女の身体を軸にして、これまた器用に身体の位置を動かした彼は、空母たる母体の腰に手を回した。そして、もう片方の手は、彼女の背の部分。

「空駆ける翼か。この景観を易々と手にできるってんだから、大したもんだ。……まあ、この脆さがなければ完璧なんだがな」
「ささささ触るなぁ……」
「残念だな。こんなちっぽけなトコロを無くしただけで二度と飛べなくなるなんて……」
「ァァ、ダメ……そんなっ、誰にも触らせたことないのにぃ……!!」
「そりゃ力加減間違えたら、――ぶちっ、だからな」
「――!?」
「こんな柔で脆そうなトコロを晒すなんてどうかして……!」

 ほんの少しばかり手に力をこめた瞬間、彼の視界は反転していた。彼女がいきなり羽ばたいて重力を無視した飛行に走ったからだ。触って撫でた辺りがちょうど絶妙で琴線に触れたらしい。
 振り払われまいと拘束するように彼女に引っ付く彼は、目に見える景色がぐるぐると回るのを見ながら少しだけ焦ったように言った。

「そんな急反転とかされると誤ってやっちまうんだが。ていうか、いま、すこし危うい手応えが」
「――ちょ、そこ、らめぇぇ!!」

 そんなしょうもないやり取りを響かせる彼と彼女は、ほどなくして顔色を変えた。
 眼下に敷き詰められた緑の絨毯の変化を見て取ったからだ。大量の枝葉が下から押し上げられるように吹き上がった。そうして残骸を散らしながら飛び出してくる数多の影があった。
 それらには翼はない。だが、空にあるものすらも汚さんと大口を剥いて飛んできた。それこそなりふり構わずに勢いのままだ。

「チッ、遊んでる暇はないぞ」
「お、お前がいうのかぁ!? って、な、なんだ、あれ――」
「いいから後ろの連中を散らせ。このままだといい的だ」

 編隊を組んでぷらぷらと飛行していた一団目掛けて、次々と打ちあがってくる数々の凶弾。両腕両足のどれかにでも掴まれれば終わりと、思わせる勢いで喰らいつかんとするケモノの姿があった。
 唯一の光に瞳を焼かれたケモノは、肉体の制限など構うことなく、どこであろうと喰らいついていく。






☆ ☆ ☆






 林立する木々から避けられる様にぽっかりと開いた空間。ただ一本のサクラの大樹だけが、そこに在ることを許されているようにそびえ立っている。
 花びらは何枚も何枚も途切れることなく散っていく。限りなく降り積もっていく。真ん中の大樹はいうにおよばず、あたりに並び立つ木々も、この地のどこよりも特別満開に咲き誇っていた。
 それらの花は、今の時期では珍しいというわけでもない。
 だが、それでも、このような森の中で、これほどまでに色鮮やかな花びらは異質だった。
 それら花びらを浴びるようにして、なすがまま粛々と埋もれていく相沢祐一の姿が、そこにあった。

「……」

 黒い羽織に白い着流し。樹海のいたるところに出没している彼らと、ここにいる祐一にこれといった違いはない。この森の中ではいまや珍しくもない、と言えるぐらいによく目にする姿だった。
 ただ、一つだけ際立って目につく点が、ここにいる彼にはあった。
 中央の大樹の根元に横たわるようにして背をあずける祐一は、これまでのどの彼よりも生気がなかった。限界まで弱りきっているように見えた。
 ただ静かに花びらに晒されるがままの祐一は、力なく虚空を睨みつける。花びらの一枚に目を奪われたかと思うと、僅かのあいだ呆けたように呆然とする。そうして、より一層に生気を失っていくのだ。

「一々一々……なんだ、どいつもこいつも……こんなもんを味わいやがって……」

 弱弱しくかすれた愚痴をこぼしたところで、今はどうにもならかった。
 だが、呻かずにはいられない。祐一はどん底ともいえる瞳であたりに目を配った。
 これほどまでに弱りきっていながら、祐一は散っていく花弁の一つ一つを正確に拾えてしまえた。そして、そこにあるものから祐一は、彼らを見つけてしまう。
 見たくはないものを、味わいたくもないものを、当然の帰結であるがゆえに引き継がなければならなかった。
 我を失うほどの狂喜、破滅にひたれる恍惚、最悪のなかで抱いてしまう厭世情動、極限の死中であじわう生存実感、死せる最中で感じる信じ難いほどの安らぎ、そして、それら多種多様な感情の根底に染み付いている、生まれてしまったことへの憎悪と絶望。

「何をいまさら」

 歯が砕けんばかりの歯軋りを一つ。拳はとうに握りつぶされて感覚がなくなっている。
 身が震えんばかりの感情は、心のうちに沈めておくにはあまりにも大きすぎた。それらを受け入れる心の許容量はとっくにオーバーしている。
 今は、もう侵されていくだけだ。理性が切れて、意志が歪められて、意思は自分のものではなくなっていく。
 彼らは、死んでいく。
 祐一には、どうすることもできない。今は何もかも持っていかれないように耐えることしかできなかった。
 どこにも逃げられない。
 もはやこの花びらにすべて持っていかれるか、その前に終えるかだ。

「……」

 しかし、このままではどうにかなってしまいそうだった。壊れてしまうかもしれない。
 そうなったら何をしでかすか本当にわからなかった。酷いことになるだろうが、何がどう酷くなるのか、我が事ながらまるで想像できなかった。
 そのことが何よりも恐ろしかった。
 自分が自分でなくなる感覚。今の自分は、少し前の自分と同じように今を感じ、恐怖することができているのだろうか。
 そんなことを気にする程度には、すでに壊れているのだ。

「……」

 だからこそ祐一は、何をしても良いと、そういって委ねられたここに身を置いていた。
 あたり一面には、淡い花弁が花吹雪いている。この地のどこよりも濃密な花びらが、絶えることなく舞っている。
 それら一枚一枚が、死んでいく彼らを内包していた。
 そのすべてが奪われる前に、それら一つ一つを祐一は受け継がなければならなかった。
 大本から分かたれた彼らは、その時点で彼ではなくなった。そして絶たれてしまった枝葉には、どんなに望もうとも未来がなかった。
 大本と同じでありながら、同じ道を歩むことはできない。枯れるのを待つことしかできない。
 それがどれほど残酷なことか理解できているだろうか。
 祐一は、自嘲気味にもほどがある笑いをこぼして、あたりの色鮮やかに咲き誇った満開のサクラをながめた。

「……」

 サクラの花びら一枚一枚を引き継がされるたびに、思い知らされる。
 この世で一番きらいなものは、変わらない。
 だが、二番目にきらいなものは、この週が終わるころには変わっていることだろう。
 もはや、今この景色すらもかわいいものに思えてくる始末だ。ヒラヒラと舞う一枚一枚が悪魔の囁きに匹敵しようと、それ以上に性質の悪いものは、ここにいるのだ。
 誰もが死んでいく中、祐一だけは、逃げる口実すら得てしまっていた。
 逃げられるだけの理由を、祐一は彼らのお節介な一人から受け継いでしまっていた。

「ははっ」

 あの日の夕暮れを思い浮かべるだけでいい。
 あのときの一コマを思い出すだけでいい。
 あの日に失ったものは、誰だったか。
 そして、あの日にむざむざ失わせたのは、誰だったのか。

「なるほど、そう考えると、まいったな……あの日から積もりに積もった昔日の想いが……一人、受け継ぐたびに削れていくじゃないか……」

 あの日の無力を殺したいほど憎んでいる。今でも殺したいほどに憎んでいた。
 ただ、この身は一つしかなかったから実行に移すわけにもいかなかった。
 だが、今は違う。
 違うのだ。
 それだけで、この花びら一枚一枚の意味は激変する。
 憐れむことも、悼むことも、悔やむことも、なくなる。
 そう思うだけで、祐一は、いくぶん救われてしまった。

「いかんな……すでに、だいぶ狂ってる」

 そんな有り様の彼に恐れをなしたかのように、周りに舞っているサクラの花びらが方々に散っていく。
 さすがに憮然としたものを感じずにはいられない祐一は、諦めきったように息をついて花びらの一枚一枚に目を戻した。

「我がことながら、さすがに呆れるしかないかもしれん……なんだって、ここまでおかしくなったんだか……」
「……あなたは、おかしくなんてないよ」

 その彼以外の声が響いたことで、祐一ははっと我に返ったかのように眼つきを変えた。今まで夢の中にでもいるかのようにぼやけた感覚が、外からの接触で現実に引き戻される。
 その声は、彼が身を横たえている大樹の反対側から聞こえた。そう意識することで初めて彼は、背後の大樹に背中をあずけている少女の存在に気づけた。
 この場所をぽんと委ねてくれた縄張りの主。
 祐一は呆れと驚きをたぶんに含ませた声色で呟いた。

「……ミト」

 こんな場所に身を置いておく身の程知らずがいるとは思いもよらなかった。気を抜きすぎていたらしい。反対側の大樹に背中をあずける紅の少女に、祐一は今まで言葉を拾われていることにすら気づけなかった。
 若干、どころかかなり極まりが悪いような気がする。祐一の言葉はわずかに硬くなる。

「まだ、いたのか」
「いないと。ここは、わたしの庭だったんだから。見届けさせて」

 そうして、大樹の裏側から姿を現したミトは、いつもとは様相がだいぶ変わっている。
 いつもはパイナップルみたいに結んでいる髪が下ろされている。普段の手入れを考えると不思議なことだが、まっさらで癖のない長い髪が、少女の身に流れている。まるで紅色に包まれているように見えた。
 さすがの彼女も、いまこの場では普段どおりに振舞うことはできないようだ。だからか、逆に普段とは違って落ち着いていられる余裕を持てるらしかった。
 大樹に身を横たえる祐一は、一応なりとも姿勢を正そうとする。
 だが、それをミトは制した。

「安心して」

 彼女の様子は、いつもとだいぶ違う。いつもならすぐに逸らしてしまう顔をまっすぐ祐一に向ける。祐一を見つめる瞳には強い意志の光があった。
 長く流れる紅の髪が鮮やかに色を増していく。瞳にうつる彼の姿が、紅の色の中に沈んでいく。

「ここには、わたしがいるから」

 強い。忌避してしまうほどに強い光だ。それだけに強いからこそ、そこに彼女は立っている。
 あまりの変わりように祐一は声もなく、彼女の光りに目を奪われた。今はただただ呑みこまんとする存在である祐一ですら、呑まれてしまいそうになる。それだけやばいくらいに強い。

「だから、あなたは安心していい」

 そういうミトの周りには、じっと凝らしてみると細い尾っぽのようなものが漂っていた。透明感のある紅色のそれは滴るようにして、彼女の長い髪から零れだしている。
 蛍のように儚い光りの尾を引くそれらは、回遊するようにして彼女の傍から解き放たれていく。その現象は、恐らくずっと前より起こっていたことなのだろう。
 祐一が改めるように目を凝らしてあたりをみれば、そこかしらに同じような光りはあった。これまで花びらにばかり目を奪われていたから気づけなかったが、こうして見るとかなりの数にのぼる。

「誰にも触れさせない」

 紅の光りはサクラの花びらの中にあってなお、その光りを失うことはなかった。たとえ触れ合ったとしても、それはそれのままで紅の光りを零していた。
 樹海の全域がサクラの一色で埋まろうとしている中で、始まりであるはずの場所だけが染まらずにあった。

「染めるから……葬送の紅に……」

 まだまだ成長過程、人見知りが激しい、凄い目つきで睨んでくる。ぐらいの認識しかしていなかった少女が、どのような存在であるか、祐一はようやく実感できたような気がした。

「そうか、……あんだけ怨みつらみを抱えてるってのに、一人も姿を見せに来ないのは妙だとは思ってたが……まさか、お前」

 紅の色がより一層に鮮やかさを増したような気がした。向こう側の景色が覗けるほどに薄い紅の尾っぽが、あたりを柔らかく戦いでいる。
 その一つ一つが、問答無用の牙だった。触れれば裂かれて焼き尽くされる。
 それが恐らくは、彼女の数キロにもわたる縄張り全体に影響を及ぼしているのだ。
 考えてみればここに身を落ち着けてからこれまで、アレの気配をまるで感じなかった。自身に余裕がなかったとはいえ、まだまだ一、二キロぐらい先のアレに気づけるだけのおかしさは保っている。
 だというのに、これまで一匹足りとて感ずることはなかった。
 そして、もう一つの忌避すべき存在。
 それが、まだ一人として姿を現していない。

「……」

 偶々で済ませられるなら済ましたいところだったが。
 そのように事を運べる存在は、こんなにも近くにいた。
 紅狐は、大樹に身を横たえている彼をじっと見つめながら、平然といってくれた。

「あなたを殺そうとしていたから。あなたは一人なんだから。他は、知らない」
「いや、その、だな、腐っても……」
「追い払ったの。それだけ」
「……そ、そうか。追い払われちまったのか……」

 ああ、また少しだけ罪悪感が湧いてきた。かみ締めるように思う祐一は、深い息をついた。
 こんな思いに後どれだけ耐えれば良いのだろうか。さすがに耐えがたくなってきたなと、思う祐一だったが、

「――」

 目に入ったのは、一枚のサクラの花びらだ。
 祐一は、それを凝視する。これまでとは比べようもないほどに強い目つきで見つめる。これまで首を動かすのすら億劫だと言わんばかりの緩慢さが一瞬で失せた。
 おどろおどろしく見開かれた瞳は、数多に舞っている花びらの中から、それだけを呑みこむように見つめた。
 紅の少女は小首を傾げる。それでも一先ず、これまでの弱弱しさから一変した彼の様子に軽く安堵の息をつきながら、

「なにか良いこと、あった?」
「そうだな……、さすがと言ったところか。他人のふりみて我がふり直せなんて言葉に感銘を受けたりしてたところだからな、思いもひとしおだ」

 サクラの花びらも、紅の尾っぽも、一切合切よせつけない空気は一瞬で形成される。
 嘆息する相沢祐一は、一枚の花びらをただただ凝視した。






☆ ☆ ☆






 桜の花が舞っている。いくらでも尽きることなく咲き誇っている。
 それでもなお、そこだけはぽっかりと寂しいままだった。
 色鮮やかさに染められることなく、枯れ果てていた。
 空に向かって根を伸ばし、地の底へと枝を伸ばしていく逆しまなる大樹が、彼の眼前にあった。

「忌々しいことに予想通りだな……」

 満天の青空のしたに広がっている景色は、寒々しかった。地面から突きでる根っこには、肉の実すらなることなく寂れていた。
 直径一キロの円を描いたこの大地だけは、周りの華やかさとは一線をしいている。
 この広くも狭い見渡せるかぎりの場所は、大地から突き出ている幾百十もの根っこで埋め尽くされていた。
 そこだけは、何ものでも決して侵せない。世界すらも歪める魔都のサクラですら、花を咲かせることも、舞い散った花びらを積もらせることもなかった。
 命は無尽蔵に無意味に失われていくだけの場所。
 ここは厳かに枯れきっている。

「これだけ騒いでも足りないか……」

 そびえるようにして地面から突き出ている数多の根っこは、微動だせずに揺れ動きもしない。太さのわりには三十メートルはいこうかという背丈のものもあるが、風ぐらいではピクリとも動きそうになかった。
 サクラの大樹の枝につっ立つ彼は、黒い羽織りを花吹雪に弄ばれながら、そんな単調でかわいた景色を望んでいた。そして、忌々しげに息をつく。

「大したもんだ。大国に根付いただけのことはある」

 枯れ果てた根っこを、サクラの樹が囲っている。
 だが、それだけだ。
 彼が望む全景は、どこもかしこも同じようなものだった。
 そのような景色を眺める彼は、深い息をついた。もうこれ以上の変化は望めないだろうと、諦めたような目つきで苦々しげに笑ってみせた。

「今は、ここまでか……。安全地帯から意気揚々と顔をのぞかせるときが楽しみだな」

 ほんとうに、と呟いて、彼は根っこの中心部分を睨みつけた。
 大地から何もない空へと伸びているにも関わらず、根っこはわずかに外側に反れるようにしてひろがっている。空に根を伸ばす大樹の根元だけは、ぽっかりとひらけていた。なんの変哲もない地面がある。
 だが、枯れ根の隙間からのぞきみる彼は、おぞましいものでもあるかのように顔をしかめさせた。刺し殺さんばかりの視線を突きたてる。
 だが、延々と険しいままの瞳が、ふっとかげる。

「――」

 彼は何かに気づいたかのように視線を背後にめぐらせた。枯れ果てている中心とは裏腹に、まわりは色鮮やかな満開のサクラで埋まっている。
 そこには肉の実ひとつとしてありはしない。花吹雪は絶えることなく降り注いでいた。
 そんな景色の中に何かを見出した彼は、意識して作ったような笑みを浮かべた。

「悪あがきのしようもあったんだがな……まあ、しかたない。比較的、俺は我慢できる子だったらしい」

 さすが俺、と自嘲気味に自画自賛する彼は、意識をサクラから逸らした。
 ここに向かってきている気配がある。
 だが、それらは、この中心を目指してはいるが、彼のところに来るわけではないようだ。
 複数ある気配のどれもが、目的地を同じくする誰にもかちあわぬ順路で中心地へと駆けていく。
 この樹海の命ある誰もが目指した場所に一番乗りを果たした彼は、その動きに満足そうに頷いた。

「ここまで足を伸ばしてきただけのことはあるな。そうだ。お互い顔は合わせないほうがいい。八つ当たりをされるのは御免だし……、今さらしたくもない」

 まだ巣穴は閉じられている。こちらの動きに対する反応もまるで感じられない。
 ここは、まだ枯れ果てている。
 だとすると、今はこれ以上なにをしても意味がない。無駄に失われていくだけだ。
 それを告げても、だからどうしたと、甘んじて受け入れる連中が、この土地には多過ぎるほどにいた。むしろ大半だ。
 だから一時とはいえ、誰の目にも明らかな終止符を打たねばならなかった。

「……」

 この枯れた丸い大地を囲うように立ち並ぶサクラの大樹。
 ここには自分が独り。先ほど感じた気配は三人。どいつもがまわりの大樹の一本に腰を落ち着けることだろう。
 早くも四人。
 あと四人も集まれば終わりにできると、何の確証もないがそう思う彼は、何ともいえない息をついた。

「八つ重ねりゃ、どうとでも……」

 銀色の魔女から授かった魔都のサクラには、それだけの力がある。
 生まれたころより強靭で、御せるだけの心構えも兼ね備える異なる種族は、人と比べようもないぐらいに強いことだろう。
 しかし、だからこそ、彼を介して広がった魔都のサクラには抗えない。
 生まれたころは貧弱で、何もしでかせそうにない心根で、どの種よりも劣っていた。
 そんな彼をもとにして、魔都のサクラは広がった。ここは、心をおられたことのない強者には、ことさら厳しくできている。
 散っていく淡い花びらは、心を奪う魔性の華だ。生まれてから一度足りと感じたこともないような弱さを、心に少しずつ染みこませていく。脆弱さで性根を歪めていく。
 その得体の知れない弱さに耐える事はできるのだ。
 だが、心に注がれていく毒素をとどめることは、どれほどの強者であろうとできやしない。出来損ないでも魔都の華、銀色の魔女が手がけたサクラは、花咲かせるのが彼であっても、デタラメさを失いはしない。

「……」

 そうして、一度でも彼の弱さに毒されてしまえば終わりである。人生において一度も折れずにいられた者が、そのような心根を抱いて生き長らえるわけがなかった。
 自分に絶対の自信をもっているものほど相性は最悪だった。
 逃れるには、サクラの色から身を遠ざけるしかない。だけれども、もはや花びらのとどかない場所は、樹海のどこにもありはしない。
 つまりは、この地から離れるより他に打つ手はないのだ。
 だが、この地に訪れた誰もが、ここから逃れられない身の上だった。
 天災はいうにおよばず、魔都のサクラまでもが根を張っている大地に、むざむざ身を晒さなければならないのだ。
 理解の及ばぬ環境を敵とし、長らく相対してきたならともかくだ。何の策もなく、強いからこそ真っ直ぐにしか進めない獣は、もはや呑まれていくしかなかった。
 いずれサクラで満開になるここは、誰の手からも零れ落ちることになる。
 ここには誰も手を出せなくなる。
 それは、相沢祐一の手に落ちることと同義であった。

「……まあ、無駄にはしてくれるなよ」

 何とも憎たらしくはあったが、彼は、祐一の行く末を祈ってやった。
 桜の花は、舞った。
 舞い乱れては、咲き誇る。






☆ ☆ ☆






 遠方よりまいった猛者と彼がぶつかり大きな余波を撒き散らす。
 その隙間をぬって天災の第三子たるケモノが散らばっていく。
 それらを討ち取らんと、まとまった異族の群れや普通でない人たる冒険屋が牙と刃を振るう。
 その余波もまたあたりに撒き散らされる。
 どこかしらに穴は生じてしまう。
 いまや樹海の至るところに生まれるケモノはそこに成り、生まれ落ちて駆けていく。
 その僅かな種すら消滅させんと数多のサクラが舞い散った。
 ただ、それは諸刃の刃。
 花びらに触れられ、抗いきれなかったものはみな等しく散った。
 穴は少しずつ広がり続ける。
 そこを起としてケモノが湧き出てくる。
 それに比して牙と刃が烈しく振るわれる。
 穴は広がる。
 それを埋めんとサクラの大樹は、花びらを舞わせた。
 そうして、何度となく繰り返される。
 繰り返された。
 そして、唐突に途切れた。

 樹海の真ん中から風がそよいだ。
 満遍なく樹海を凪いでいった。
 それですべてが染めあげられた。
 樹海全土にわたって、サクラが満開を迎えたのだ。

「――」

 そのもっとも華やぐであろうときに樹海に在れたのは、七つの群に三十足らずの猛者。営業中の屋台は十ばかりだった。
 花見の規模と比べて、じつに侘びしい客足であった。

 戦線は、崩壊した。

 そして、災厄の始まりだけは、ただ、あった。
 直径六十キロにわたる花見会場のど真ん中で、それだけが変わることなく、ただ、そこあった。












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